第6話 後始末
キリスト教徒とイスラム教徒、争わずに済むのならばそれが一番と、特に争いになれば真っ先に巻き込まれる下々の者たちなどは考えるのだが、そのように考えない者たちも少なくない。
キリスト教側でもイスラム教側でも、宗教的信念に
それはカーミルの側も同じ――いやむしろ、明らかに異教徒に譲歩し過ぎた感のある彼の方が、批判は激しかった。
彼の弟・アル=アシュラフも、兄の決定に激しく異を唱えた。元々、彼が
兄に
「
普段はそこまで排外主義的ではないのだが、状況が状況だけに気が立っていたアシュラフは、側近たちに
しかし、キリスト教徒の男が差し出した手紙を読んで、アシュラフの機嫌は再び悪化した。
「異教徒が俺と和議を結びたいだと!? ふざけるのも大概にしろ!」
男が持参したのは、
「兄上を
使者はアシュラフの偏見に満ちた
「仰せの通り、私どもはスルタンの
「ふん、兄上の気が変わったなら、その首が繋がっているうちにさっさと退去せよ」
と、にべもない。だがそこで、アシュラフの側近の一人が助け舟を出した。
「落ち着かれませ、我が君。仰せの通り、
そこで言葉を切り、主君の許しを得て
「それに、考えようによっては、
それを聞いて、アシュラフの顔色が変わる。
「俺は兄上と争う気など無いぞ」
「それは勿論でございます。されど、神が作り
「うむぅ……」
実際、アシュラフは兄・カーミルと争うことなど望んでいなかった。しかし、エジプトのみならずシリア地方の大部分も手に入れた兄の勢力が脅威であることは間違いない。
「まあ、貴様らが和議を望むなら、それもよい。だが、もし
「重々、心得ております」
やれやれ、カリフ殿を説得するのも一苦労よ、などと言いながら、アシュラフは軍を返し、モスルへと引き
「そうか、上手くいったか。ご苦労だったな」
戻ってきた使者の復命を受け、フリードリヒは満足気に頷いた。
下手をすれば斬り捨てられかねぬ危険な任務を成し遂げた男を
「しかし、スルタンも大胆なことをなさいますな。嘘から出た
感心しきりの
前々から
「それだけ我らのことを信用しておられるのだろう。ありがたいことだ。まあそもそも、我らとカーミル殿との間が決裂していない限り、アシュラフ殿が入り込む余地は無いのだがな」
こうして、自身の軍勢を擁しスルタンの継承権も有している弟を黙らせ、バクダッドのカリフも外交攻勢を仕掛けて丸め込む一方、自領内の
その後――この年の6月になってだが、ダマスカスで抵抗を続けていたナースィルがついに降伏。カーミルがそのダマスカスの領有権をアシュラフに与えたのは、カリフの説得に協力してくれたことへの礼でもあったのだろうか。
一方、フリードリヒの方も、キリスト教徒の間での反発は無視できぬものとなっていた。
誰より何より、教皇その人が反対派の急先鋒なのだから。
エルサレム滞在を終えてアッコンに移ったフリードリヒを待っていたのは、「エルサレム解放」という偉業を成し遂げた英雄に対するものとは思えない、冷たい空気だった。
エルサレム総主教は、今なお敵対の姿勢を変えず、フリードリヒに会おうともしない。
そしてさらに、アッコンの市民もフリードリヒに対し冷ややかになってしまっていたのだが、これは宗教的な理由ばかりではなかった。これまでアッコンを経由していた巡礼ルートが、フリードリヒ滞在中に行われたヤッファの港の整備により、エルサレムにより近いそちらに取られてしまったからだった。
フリードリヒもこれには苦笑いするしかない。
が、苦笑いでは済まされない情報がフリードリヒの元にもたらされる。
教皇グレゴリウス九世はフリードリヒの功績を一切認めぬどころか、破門の身でありながら勝手に十字軍に
フリードリヒは当然激怒した。そこまでやるか! エルサレムと十字軍国家群を結ぶ防衛網の整備など、現地でやるべきことは山積みだったのだが、こうなっては帰国するしかない。
結局、カーミルとは手紙のやり取りのみで、一度も直接会えぬままの帰国となった。
まあ、お互いに原理主義者を刺激せぬよう、直接会うことは意識的に避けていたという側面もあるのだが。
1229年5月1日、フリードリヒはアッコンを発ち、再び中東の土を踏むことはなかった。
キプロスを経由して出港の地ブリンディジに6月10日凱旋したフリードリヒは、教皇軍に対する反攻計画を練ることになる。
イスラム教徒相手には一滴の血も流さなかったのに、帰って来た途端に同じキリスト教徒の血を流したのでは、対外的に
教皇軍の先陣に立っていたのは、先のエルサレム王ジャン=ド=ブリエンヌ。娘をフリードリヒに嫁がせて、真のエルサレム王となるはずが、
が、フリードリヒが威嚇のために揃えた完全装備の大軍を前に、たちまち腰砕けとなる。
そして、それをきっかけに、各地の教皇軍、および教皇に寝返った各都市も、雪崩を打つようにフリードリヒに降伏。教皇は(彼にとってみれば屈辱的な)和睦を、フリードリヒと結ぶこととなり、ひとまずは一件落着した。
それにしても――サラディンにエルサレムを奪われて以降、誰も成し遂げられなかったエルサレム解放を、それも一滴の血も流さずに成し遂げたにもかかわらず、何故賞賛どころか非難を受けねばならぬのか。
フリードリヒにしてみれば、心底、理解し
しかし、人間は誰しも、自分自身を物差しにしてしか他者を測れぬ存在だ。
善人は、他者の善意を無邪気に信用し、悪人は、人は皆
悲しいかな、フリードリヒと彼以外の人間たち――彼に心酔していたごく一部の者たちはともかくとして――とでは、この世を測る物差しが違い過ぎたのだ。
ただ一人、遠い異国の異教のスルタンを除いて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます