第6話 後始末

 キリスト教徒とイスラム教徒、争わずに済むのならばそれが一番と、特に争いになれば真っ先に巻き込まれる下々の者たちなどは考えるのだが、そのように考えない者たちも少なくない。


 キリスト教側でもイスラム教側でも、宗教的信念にり固まった原理主義者などは、今回の和平条約に強く反発した。

 それはカーミルの側も同じ――いやむしろ、明らかに異教徒に譲歩し過ぎた感のある彼の方が、批判は激しかった。

 彼の弟・アル=アシュラフも、兄の決定に激しく異を唱えた。元々、彼が版図はんととするメソポタミア地方は、イスラム教の最高権威たるカリフを擁するアッバース朝に隣接している。そのため、カリフの影響を受けやすい環境なのだ。


 兄に直談判じかだんぱんすべく、手勢を率いて本拠地のモスルを発った彼の元を、一人のキリスト教徒が訪れた。アシュラフに手渡すべき書状を持参したという。


異教徒フランクだと!? 斬って捨てろ!」


 普段はそこまで排外主義的ではないのだが、状況が状況だけに気が立っていたアシュラフは、側近たちにわめき散らす。そこをどうにかなだめられ、しぶしぶ面会してやる気になった。


 しかし、キリスト教徒の男が差し出した手紙を読んで、アシュラフの機嫌は再び悪化した。


「異教徒が俺と和議を結びたいだと!? ふざけるのも大概にしろ!」


 男が持参したのは、キリスト教徒フランクの王、神聖ローマ皇帝アル=エンボロルの親書だという。そこに書かれていたのは、メソポタミアの領主たる彼と和議を結びたい旨であった。


「兄上をたぶらかしてエルサレムアル=クドゥスだまし取った異教徒めがいけしゃあしゃあと!」


 使者はアシュラフの偏見に満ちたようにも腹を立てることなく、落ち着いた声で言った。


「仰せの通り、私どもはスルタンの大恩だいおんこうむり、エルサレムの権利を頂戴いたしました。しかし、スルタンのお気が変わらぬかどうかは、神のみぞお知りになるところ」


「ふん、兄上の気が変わったなら、その首が繋がっているうちにさっさと退去せよ」


 と、にべもない。だがそこで、アシュラフの側近の一人が助け舟を出した。


「落ち着かれませ、我が君。仰せの通り、エルサレムアル=クドゥスが異教徒の手に渡ったは腹立たしい限り。されど、『ハラム・アル=シャリーフ』は我らの手に残ったとのこと。それに……」


 そこで言葉を切り、主君の許しを得てそばに寄って耳打ちをする。


「それに、考えようによっては、エルサレムアル=クドゥスの異教徒どもはスルタンの喉に食い込んだ一本の骨のようなものにございます」


 それを聞いて、アシュラフの顔色が変わる。


「俺は兄上と争う気など無いぞ」


「それは勿論でございます。されど、神が作りたもうたこの世は、何が起こるかわかりませぬ故」


「うむぅ……」


 実際、アシュラフは兄・カーミルと争うことなど望んでいなかった。しかし、エジプトのみならずシリア地方の大部分も手に入れた兄の勢力が脅威であることは間違いない。


「まあ、貴様らが和議を望むなら、それもよい。だが、もしイスラム教徒ムスリムを害するようなことがあれば、その時は容赦せぬぞ」


「重々、心得ております」


 やれやれ、カリフ殿を説得するのも一苦労よ、などと言いながら、アシュラフは軍を返し、モスルへと引きげていった。



「そうか、上手くいったか。ご苦労だったな」


 戻ってきた使者の復命を受け、フリードリヒは満足気に頷いた。

 下手をすれば斬り捨てられかねぬ危険な任務を成し遂げた男をねぎらい、下がらせる。


「しかし、スルタンも大胆なことをなさいますな。嘘から出たまことになるかも、とは思われなんだのでしょうかな?」


 感心しきりの面持おももちで、ヘルマンが言う。


 前々から調略ちょうりゃくしていたアシュラフの側近の一人と口裏を合わせ、エルサレムのキリスト教徒を利用できる可能性を示唆する、という奇策を考えたのは、スルタンその人だ。


「それだけ我らのことを信用しておられるのだろう。ありがたいことだ。まあそもそも、我らとカーミル殿との間が決裂していない限り、アシュラフ殿が入り込む余地は無いのだがな」


 こうして、自身の軍勢を擁しスルタンの継承権も有している弟を黙らせ、バクダッドのカリフも外交攻勢を仕掛けて丸め込む一方、自領内の導師イマームたちも、あるいは説得し、あるいは威圧して、反発の声を抑え込んだカーミルであった。


 その後――この年の6月になってだが、ダマスカスで抵抗を続けていたナースィルがついに降伏。カーミルがそのダマスカスの領有権をアシュラフに与えたのは、カリフの説得に協力してくれたことへの礼でもあったのだろうか。



 一方、フリードリヒの方も、キリスト教徒の間での反発は無視できぬものとなっていた。

 誰より何より、教皇その人が反対派の急先鋒なのだから。


 エルサレム滞在を終えてアッコンに移ったフリードリヒを待っていたのは、「エルサレム解放」という偉業を成し遂げた英雄に対するものとは思えない、冷たい空気だった。

 エルサレム総主教は、今なお敵対の姿勢を変えず、フリードリヒに会おうともしない。

 そしてさらに、アッコンの市民もフリードリヒに対し冷ややかになってしまっていたのだが、これは宗教的な理由ばかりではなかった。これまでアッコンを経由していた巡礼ルートが、フリードリヒ滞在中に行われたヤッファの港の整備により、エルサレムにより近いそちらに取られてしまったからだった。

 フリードリヒもこれには苦笑いするしかない。


 が、苦笑いでは済まされない情報がフリードリヒの元にもたらされる。

 教皇グレゴリウス九世はフリードリヒの功績を一切認めぬどころか、破門の身でありながら勝手に十字軍におもむき、しかも戦いもせず異教徒と和議を結んだことを非難。法王領を越えて神聖ローマ帝国領の南イタリアに兵を送り込んだのだ。


 フリードリヒは当然激怒した。そこまでやるか! エルサレムと十字軍国家群を結ぶ防衛網の整備など、現地でやるべきことは山積みだったのだが、こうなっては帰国するしかない。

 結局、カーミルとは手紙のやり取りのみで、一度も直接会えぬままの帰国となった。

 まあ、お互いに原理主義者を刺激せぬよう、直接会うことは意識的に避けていたという側面もあるのだが。

 1229年5月1日、フリードリヒはアッコンを発ち、再び中東の土を踏むことはなかった。



 キプロスを経由して出港の地ブリンディジに6月10日凱旋したフリードリヒは、教皇軍に対する反攻計画を練ることになる。

 イスラム教徒相手には一滴の血も流さなかったのに、帰って来た途端に同じキリスト教徒の血を流したのでは、対外的に不味まずすぎる。つまり、一滴の血も流さずに、奪われた領地を奪還せねばならないという無理難題だが、彼は見事にやってのけた。


 教皇軍の先陣に立っていたのは、先のエルサレム王ジャン=ド=ブリエンヌ。娘をフリードリヒに嫁がせて、真のエルサレム王となるはずが、ていよくエルサレム王の権利を取り上げられて不貞腐ふてくされていた彼は、教皇の呼びかけに応じ、娘が産後に亡くなってフリードリヒと縁が切れていたこともあって、教皇の言う「キリストの敵」との戦いに勇躍参加したのだ。


 が、フリードリヒが威嚇のために揃えた完全装備の大軍を前に、たちまち腰砕けとなる。

 そして、それをきっかけに、各地の教皇軍、および教皇に寝返った各都市も、雪崩を打つようにフリードリヒに降伏。教皇は(彼にとってみれば屈辱的な)和睦を、フリードリヒと結ぶこととなり、ひとまずは一件落着した。


 それにしても――サラディンにエルサレムを奪われて以降、誰も成し遂げられなかったエルサレム解放を、それも一滴の血も流さずに成し遂げたにもかかわらず、何故賞賛どころか非難を受けねばならぬのか。

 フリードリヒにしてみれば、心底、理解しがたかったろう。


 しかし、人間は誰しも、自分自身を物差しにしてしか他者を測れぬ存在だ。

 善人は、他者の善意を無邪気に信用し、悪人は、人は皆欲得よくとくずくでしか動かぬものよとしゃに構え、愚者は、賢者の叡智を理解できず、そして賢者は、他人も皆自分と同じように物が見えていると思い込む――。


 悲しいかな、フリードリヒと彼以外の人間たち――彼に心酔していたごく一部の者たちはともかくとして――とでは、この世を測る物差しが違い過ぎたのだ。

 ただ一人、遠い異国の異教のスルタンを除いて。

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