第2話 きっかけは、一冊の本
私、作者が自分自身と向き合うきっかけとなった、ある一冊の本がある。
正確には手にしたのではく、動画でその本が要約されており、内容がわかり易い事だった。
その作品の名は
エーリッヒ・フロム
「愛するということ」
この一冊の本を知り合いから紹介され、また動画があると知り得ての事だった。
この作品は、「愛される」ではなく「愛する」事を書いており、真に愛するとはかなり難しい事が書かれている。男女間の愛だけではなく、親子間の愛等、多種に渡り、真に愛するとはだ。
では、なぜ私はこの一冊の作品に惹かれたのか?
それは、自分の中にもたれかかる
「自己犠牲」と言うものからだった。
私はどうしてだかわからないが、自分を大事には考えられない。
自分を後回しにし、相手を中心に考えがち。これは、決して美徳とは言えないのだ。ただ単に、自分を粗末にするというもの。
私のこの性質が表れたのは、幼い頃からだった。苦労する母親を見て何とか助けたいと。
こんな子供は、恐らくだが「なんて良い娘なんだ」と誰もが思うだろう。しかし、間違ってはいけなかったのだ。
私という幼い自分自身の当時の心の中をじっくり覗かないと善だとしていた事は実は悪だったり。
私の場合は「正」ではなく、「負」であったのだ。
苦労し、大変な母親をたすけながら、次に私を待ち構えていたのは、母親が大事にする者を自分も大事にする。
と言うものだった。
それが、下の妹、弟だった。特に弟に対する母親の感情はかなりのものだった。そうなっていくと、自分より、母親の大事な者を優先に考えるようになっていくのだ。
私は少しずつ、母親の無意識な搾取に捕まっていくのである。
ここで言っておくが、母にその認識はない。
私は、母親の洗脳に取り憑かれていく。「母は正しい」と言うものだ。
間違った事は言わない。
それは、まるで母親を神様からの言葉とでも言うように。
絶対的な存在。別に恐いとかではなく、静かに私を母親の領域に引き込まれるとでも言うか。
言っておくが、私は母親を嫌っているわけでもなく、負の感情を抱いているわけでもない。
今だからこそ、当時の母親との関係性を紐解きをしているにすぎないのだ。
もう、お解りだろうか、私はこんな幼い頃から、「自分自身には目を向けず、他者にばかりに重きを置く」と言うスタイルが出来ているのである。
この出来上がったスタイルは、他人に重きを置くため、人からは、「優しい」「思いやりがある」とか、そして決定的に言われていた私の表の性質
「素直な娘」
この「素直」
これが、くせもんなのだ。
当時、学校の先生、近所の人、大人達は、口を揃えて私の事を「素直な良い娘」だと言っていた。
私はそれを褒められた事とし、嬉しかった。だが、内側の私自身からは、自己犠牲に拍車をかけていたに過ぎないのだった。
次回は、この「素直」が自己犠牲へなるのかをお話していこう。
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