第83話

帝都中央街区、貴族街




 帝都を掃討し終えたユリアヌスは、ルシーリウス卿が立て籠もる白亜の邸宅を取り囲んだ。


 既に市民派貴族と中央官吏派の元老院貴族派ハルが派遣した陰者達の手によって救出され、その後方で監禁によって痛め付けられた身体と精神を癒やしている。


 しかし、その傍らには最早身体を癒やすことすら出来ない者が安置されていた。




 粗末な毛布にくるまれたマグヌス帝の遺骸を目の当たりにしたユリアヌスと元老院議員達は、言葉無く立ち尽くす。




「よもやこの様な事になろうとは……」




 大クィンキナトゥス卿ら元老院議員は、てっきり自分達同様に助け出されたと思っていた皇帝が、変わり果てた姿となっていたことに落胆し、がっくりと膝を突いた。


 毛布にくるまれたまま陰者に背負われ、最後にユリアヌスの居る本陣へと運ばれたマグヌス帝の遺骸は急遽作られた簡素な棺に収められ、大盾を並べた祭壇へ安置された。




「じじい……死ぬなと言ったろう……!」




 ユリアヌスは歯を食いしばり、絞り出すようにそう言うと白くなる程強く握りしめた拳を棺の縁に叩き付ける。


 軽くも大きい、痛ましい音が本陣に響いた。




「副皇帝陛下……陛下の手にこれが」




 陰者が跪いたまま棺の傍らに立ち尽くすユリアヌスへ書簡を差し出す。


 マグヌスの手にしっかりと握られていたのだろう、握りつぶされた草茎紙は鑞で封が為され、その蝋の上にマグヌスの印判が型押しされている。


 下水道を通る時に万が一が落下させて汚損させたり、散逸させてしまうような事があってはならないと思い、マグヌスの遺骸を運んだ陰者が気を利かせて取り外していたのだ。




無言で陰者から陰者より書簡を受け取ったユリアヌスは、元老院議員達を呼び集めた。




「皇帝陛下の遺書と思われる、これから開封するので見て欲しい」


「承知しました」




 ユリアヌスの固い言葉に大クィンキナトゥス卿が元老院議員を代表して答えると、ユリアヌスは封印を外し、くしゃくしゃになっている小さな草茎紙を開いた。


 そこにはただ(皇帝位を副皇帝ユリアヌスに譲る。西方帝国皇帝マグヌス)とだけ記されていた。




「……らしいと言うか、何と言うか」




 大クィンキナトゥス卿がその文章を見てぽつりとこぼす。


 ユリアヌスはしばらくその文字を食い入るように眺めた後、顔を上げてその遺書を示し静かに宣言した。




「先帝であり我が養父であるマグヌスの遺志により、今日この時をもってこのユリアヌスが西方帝国皇帝となる、元老院の承認や如何?」


「議員達よ席に着け」




 ユリアヌスの言葉を受け、手を広げた大クィンキナトゥス卿が言うと、中央官吏派と市民派貴族の元老院議員達が用意されていた床几や椅子、敷物に座る。


 着衣は薄汚れ、くぐり抜けてきた下水や2ヶ月の監禁生活の成果である体臭が入り混じった酷い臭いを放ってはいるが、その志が曲がっていないことはその顔や目を見れば分かった。


 老いも若きも議員達の目は意志に満ち、その瞳は強い輝きを放っている。




「では、只今為されたユリアヌス殿下の帝位継承を当元老院にて承認するか否かじゃが……賛成の者は起立せいっ」




 大クィンキナトゥス卿の言葉で、蝿を手で追い払いながらゆっくり立ち上がり始める議員達。


 程なくして全員が立ち上がった。


 その光景を満足げに眺め、大クィンキナトゥス卿はぱんと手を打ち鳴らして宣言する。




「ここに当元老院はユリアヌスの帝位継承を承認する。ただ、西方帝国史上最も臭く、汚い元老院じゃが……構わんかね?皇帝陛下」


「構わないでしょう」




 大クィンキナトゥス卿が悪戯小僧のような笑顔で言うと、ユリアヌスも苦笑で応じた。




「では、西方帝国史上最も臭く汚い元老院は、西方帝国史上最も気高く高潔な意志においてユリアヌス帝を認めるっ」




 笑顔を浮かべた大クィンキナトゥス卿の宣言で拍手が本陣に満ち、ユリアヌスは歴代皇帝がそうしたように鷹揚な笑みで議員達に手を振り、両手を広げて帝位継承の承認に謝意を示すのだった。














 ルシーリウス邸包囲から約10日後






 白亜の邸宅は大弩によってその外壁のあちこちに穴を空けられ、また太い矢が突き刺さっている無残な姿へと変わっている。


 白亜の邸宅では激しい攻防が幾度か繰り広げられたが、帝都の中心地区で投石機オナガーや巨大弩弓バリスタを使用する訳にもいかず、軽投石機スコルピオや大弩ガストラフェテスを使うのがやっとである為、ユリアヌス軍は城壁までとは行かずとも分厚い壁に囲まれた頑丈で豪華な邸宅を攻め倦ねていた。


 最初の数日は降伏勧告や離間策をもって邸宅からの投降を促していたこともこれだけの日数がかかってしまっていることと無縁ではない。




「……しぶといな」


「はい、全くです……なかなか攻め口が見つかりません」




 ユリアヌスの愚痴にロングスが生真面目に応じた。


 実際、防御を考慮に入れて建築されたルシーリウス邸は攻めるに固く守るに易い。


 この邸宅を建築した初代ルシーリウス卿は、帝都に危急のある際は自分の邸宅にて外敵を食い止め、皇帝を守るためにこの様な砦めいた邸宅を設計したのであるが、今やその子孫は皇帝家と一戦交えている。


 初代が見れば卒倒しそうな事態であったが、当代のルシーリウス卿はその様なことに頓着するような余裕は無く、ただ必死に私兵達を督戦して防戦に努めるのであった。








「配置完了致しました」




 ロングスが報告すると、ユリアヌスが厳しい表情で頷いた。




「そうか、ではやれ」


「はっ!……射撃準備開始!」


「了解!」




 ユリアヌスの指示でロングスが命令を下し、兵士達が動き出す。


 第4軍団の持つ重兵器でも比較的軽便な大弩ガストラフェテスや軽弩弓オクシュベレス、軽投石機スコルピオがその目当てをルシーリウス邸の白亜の壁へ向けた。


 居並んだ第4軍団の帝国兵から準備完了の合図が出される。




「撃てっ!!」




 一斉に発条や弦の弾ける音と共に撃ち出された丸石や大矢が次々にルシーリウス邸の白亜の外壁に当るが、効果はそれ程無い。


 大矢は壁に突き刺さるだけで貫通することが出来ず、丸石も数発が弱い場所に命中して穴や外壁に使われている石材を砕くが、撃ち破るにまでは到らないのだ。












「射撃中止!」




 数刻の間続けられた投射兵器による攻撃はさしたる効果を上げられないまま、一旦終了となる。




「……うぬ、これ程固い壁だとは!」




 ロングスが悔しげに呻くが、船舶に登載出来なかったので重兵器を持参していないユリアヌス軍。


 帝都の武器保管庫に収められている物はあるだろうが、その保管庫は皇帝宮殿の近くにある第1軍団駐屯地に所在しており、そこへ行くにはこのルシーリウス邸を中心とした貴族派貴族の邸宅群を抜かなければならないのであった。






悩むユリアヌス軍首脳陣の元に辺境護民官から伝令が到着したのは、正にその様な時であった。


 伝令はソダーシ族の若き次期族長メリオン。


 メリオンは伝言の他に桶を2つと手紙を持参しており、それらは直ぐに軍議の席へと運ばれる。


 帝都へ入ってその壮大さと偉大さ、また翻って荒廃振りを目の当たりにして目を白黒させていたメリオンだったが、皇帝ユリアヌスに野戦陣での謁見を許され、緊張に身を固くした。




 クリフォナム人とは言え次期族長の立場ともなれば、強大な西方帝国の威容や威令は知っている。


 その頂点に立つ皇帝への謁見である、緊張しない方がむしろおかしいのだ。


 軍事調練ですっかり身についてしまった帝国式の礼をぴしっと決め、メリオンは蛮族の将がと侮ったロングスらの目を見張らせると、静かに口上を述べ始める。




「辺境護民官ハル・アキルシウス率いるシレンティウム軍4万余は、敵将ヴァンデウス率いるルシーリウス軍15万余を帝都東部平原の戦いにおいて撃破致しました。現在は残敵掃討中です。最早帝都に戻る貴族派貴族の軍は一切ありませんっ」




 意気揚々と報告するメリオンであったが、しかしその報告を聞いた帝国軍の軍団長達や元老院議員達の表情は驚愕に占められる。


 ロングスなどは棒を飲んだような顔をしており、軍首脳の驚愕は官吏や貴族達のそれより大きい。


 と言うのも、あくまで辺境護民官の役割は足止めに過ぎないはずだったからである。


 本来の作戦計画は辺境護民官軍がルシーリウス軍をおびき寄せ、足止めすることによって生じた帝都の隙に乗じて、海路ユリアヌス率いる帝国正規軍が帝都を奪還してしまおうというものであった。


 ユリアヌスやロングスからすれば15万の無頼兵士を強いとは言えたかだか4万余の辺境護民官軍が討ち破るなどと言うことは最初から不可能な事であり、そもそも撃破する事までは辺境護民官軍に求めてはいなかったのである。




 その計画の趣旨、そのものが根底から覆されてしまったのだ。




 …無頼兵士とは言え、あの15万もの軍をわずか4万で撃破?


 …一体どのようにして?


 …そして現在は残敵掃討中だというが、そこまで完膚無きまでに撃滅したのか?




 これによって武功の順位が大きく変動し、戦後の論功行賞に多大な影響が出てしまう。


 それだけでなく、最大の戦功を挙げてしまった辺境護民官の発言力が大きいなどと言うのも生易しい強大なものとなってしまうことは必定で、今後の帝国の政策や施策に影響が出る事は避けられない。


 有り体に言えば辺境護民官の意向や意見を無視出来なくなってしまうのだ。


 渦巻く疑念と疑問、今後の政治権力の闘争を思い、その場に居る者達の視線が次第に鋭いものとなり、その視線はメリオンを射貫く。




 味方への戦勝報告に来ただけのつもりであったメリオンは、帝国首脳達の強い視線に戸惑いを隠せなかった。


 しかしそうした飾り気のない挙動がかえってメリオンの言葉に信憑性を与え、次第に帝国の首脳達は報告を真実のものと捉え出し、思考は驚愕と恐怖の感情に彩られ始めた。


 自軍の3倍以上の敵を討ち破れる精強極まりない野蛮人で構成された軍が、ユリアヌスに味方している辺境護民官配下とは言え、帝都近郊に存在しているのである。


 もし辺境護民官がその気になれば帝都は辺境護民官の物になるだろうし、それを押し止められる勢力は今の帝都はおろか、帝国においては皆無なのだ。




 帝都を抑えた辺境護民官は、程なく帝国全土を掌握することになるだろう。




帝都へ進駐する辺境護民官の姿を思い、身震いするロングスら軍首脳、一方中央官吏派もその際の混乱や負担を思って顔を青くした。


 翻って市民派貴族とユリアヌスは落ち着いている。




「それで……アキルシウス殿は今どこにいるのだ?」


「はい、現在はコロニア・リーメシアに移動中です。間もなく残敵掃討も終わりますので、それが終了し次第シレンティウムへ戻ります。ただ国境警備の関係がありますので、ユリアルス城へ至急交代の軍団を派遣して頂くこと、また引き続きシレンティウム支配下に残っているルグーサ市やシルーハ領の占領地の処遇について早急に検討頂きたいとのことです。その他の要望等については紙面において表されております」




 小クィンキナトゥス卿ことグナエウスがごく普通の口調で尋ねると、メリオンは幾分ほっとした表情で答える。


 しかし今度はその回答に元老院議員達が目をむいた。




「なにっ?帰ってしまう、じゃとっ!」


「良いのではありませんか?これで敵性勢力が1つ減ったのだ」




 大クィンキナトゥス卿の大声に顔をしかめながらロングスが言うと、大クィンキナトゥス卿は口角から泡を飛ばしてロングスに反論する。




「馬鹿を言うでないっ、これ程世話になりながら何も与えず返したとあっては、新皇帝どころか帝国自体の沽券に拘わるわい!」


「それだけではありません。このまま放置すれば、辺境護民官が北方辺境において自力で独立自存してしまう事態を阻止出来なくなります。ここは何としても辺境護民官に帝都へ戻って頂き、叙任なり叙爵なりをして帝国に縛っておかねばならんでしょう」




 次いでカッシウスが違う見解から辺境護民官の撤退に反対すると、ロングスは渋い顔で頷く。


ロングスとしては軍事的な貢献は自分達軍部だけが独占したいという思いがあるため、辺境護民官にはこのまま引き取って貰いたいのだが、確かに帝国内の情勢は不穏で予断を許さない。


 ロングスが引いたのを見て、ユリアヌスが口を開いた。




「それに結果的にとは言え、一応彼の者が我々の後ろ盾となって今回の帝都と帝位奪還を為したのだ、あっさり帰られれば我々に反抗するものが出てきた場合抑えられない。曲がり形にも貴族派貴族の主力軍を破った辺境護民官の軍事力こそが今の我々の力の源の大部分を占めているということを忘れては困る」




 各地方の軍指揮官達は帝都での戦いの行方を注視しており、また属州の統治を掌握している州総督達も然りである。


 貴族派貴族の家令や領地に居残っている親族達も居る上に、いまだその貴族派貴族を降し切れてもいないのだ。


 帝都とその周辺を除けば、敗戦で弱体化した南方派遣軍と南方領、そしてシルーハの侵攻で荒廃した東部諸州だけが今のユリアヌスの支配力が及ぶ範囲である。


 群島嶼や島のオラン人、更には西方諸国の動向も不穏で、特に群島嶼では反乱が今にも勃発しそうな情勢であるとの報告が内戦前に帝都へ為されてもいた。




 今ここでユリアヌスと辺境護民官が袂を分かち、辺境護民官軍が引き上げてしまえば各地の有力者や不穏分子が一斉に立ち上がるという最悪の事態も考えられる。


 差し当たっては帝都に進軍して来ているヒルティウスの動きが怪しい。


 辺境護民官がシレンティウムへ引き上げるにしても、せめて辺境護民官がユリアヌスの側にあるという事を内外に示しておかねばならない。




「辺境護民官を昇格させ、北の護民官に任じる。管轄地域はクリフォナ・スペリオール、クリフォナ・インフェリオール、クリフォナ・オリエンタ、ノームリア、オラニア・オリエンタ」


「なっ、それでは北方辺境の全土ではありませんか!オラン人とクリフォナム人に新たな国をくれてやると言うのですか!?」




 ユリアヌスの言葉にロングスが反対意見を即座に述べた。


 今後帝国が領土を広げるに当って最も与しやすい地域が全て北の護民官に与えられるというのである。




「……これぐらいの褒美でなければ釣り合わないだろ?それとも新たに占拠したシルーハ領をくれてやるか?今辺境護民官軍が守備している東部諸州を与えるのか?」


「そ、それは……」




 軍部が全くその獲得に寄与していないという点についてはともかく、いずれ劣らぬ貴重な領土でこれを手放すなど愚の骨頂である。


 ましてや100年にわたって果たせなかったセトリア内海沿岸地域の制覇に大きく前進することとなるシルーハ領の放棄など全く考えられない。


 ただ、今その地域の大半を実質的に押えているのは辺境護民官であるのだ。




「今だ実質的に我々のものでは無い北方辺境と、シルーハの占領地を交換しようというのであれば損は無いだろう?」


「分かりました……」




 ユリアヌスの言葉に一応納得し引き下がるロングスであったが、ただその様子を鋭く見つめるユリアヌスには気付かないまま床几に腰掛けた。




「うむ、流した血に見合った褒美とは言えぬにしても、その正当性を帝国において認められるとあらば辺境護民官にも否やはあるまい」




 大クィンキナトゥスの言葉に元老院議員や他の軍団長達も頷き、ユリアヌスの提案は認められた。














 話がまとまり、大クィンキナトゥスがようやく使者であるメリオンへと向き直り、笑顔で問い掛けた。




「それで……その桶は何じゃな?」


「首です」


「……首?」


「はい、敵将ヴァンデウスとその副将グラティアヌスの首です。戦勝の証に辺境護民官が披露するようにと申され、持参致しました」




 笑顔を引きつらせる大クィンキナトゥスや仰け反る元老院議員達に頓着せず、メリオンは首桶の蓋を外して中に入っていた首の髪の毛を無造作に掴んで取り出した。




「うっ……ヴァンデウスっ?」


「……むう、こちらはルシーリウス家の家令か?」




 流石のクインキナトゥス卿も驚き声を上げ、ユリアヌスがグラティアヌスの首を見て思わず声を出す。


 メリオンの右手には、苦悶の表情で白目と舌を剥いたままのヴァンデウスの首が掴み上げられ、左手には安らかな死に顔のグラティアヌスの首がぶら下げられていた。




「群島嶼の野蛮人め……」


「仮にも帝国貴族に何という真似を……」


「使者の作法を身に着けたとて所詮は北の蛮族か、人の首をもてあそぶとは……」




 嘲りと恐怖が綯い交ぜになった声が密やかに紡がれ、消えてゆく。


 しかしユリアヌスは驚きつつもその首を見てにやりと不敵な笑みを浮かべた。




「では、その者らの係累の所へ送り届けてやるとしよう」














 ルシーリウス邸






「……ユリアヌスからの贈り物だと?」


「はい、降伏勧告の書面と共に送り届けられて参りました」




 薄汚れた鎧兜姿の私兵長から2つの桶と手紙を受け取る、これまた似合わない鎧姿のルシーリウス卿。


 早速手紙を開くが、果たしてそれには益体も無い今まで通りの降伏勧告が記されているだけであった。


 ルシーリウス卿がため息をついていると、タルニウス卿を先頭に貴族派貴族の連中が部屋にやって来た。 




「……またいつも通りの降伏勧告ですか?」


「ああ、卿らも見てみるか?」




 ルシーリウス卿はうんざりしたような顔で手紙を差し出すが、タルニウス卿は首を左右に振り、机の上に置かれた桶に興味を示して言葉を発した。




「いえ、それよりその桶は何でしょうか?」


「ああ、ユリアヌスが送って寄越したのだが……」


「ほう、なんでしょうな!開けて宜しいですかな?」




 ルシーリウス卿の言葉に、プルトゥス卿が喜んで桶に手を掛ける。




「ああ、構わぬが……」


「では、失礼致しますぞ!」


「無闇に開けぬ方が良い、ユリアヌスからの贈り物だ。ろくな物ではあるまい」




 苦笑しつつ窘めるが、止めるまでもないと判断したルシーリウス卿はゆっくりとその蓋が開かれるのを眺める。


 そして、そこに現われたものを見てルシーリウス卿は卒倒した。




「ヴァ、ヴァンデウス殿っ!?」




 開けたプルトゥス卿が驚愕と恐怖でガクガクと膝を奮わせながら桶の蓋を取り落とす。


 木製の蓋は、大理石の床に落ち派手な音を響かせながら壁まで転がった。


 息を呑む貴族派貴族達の前で、厳しい表情となったタルニウス卿は卒倒しているルシーリウス卿の脈を取り、直ぐに私兵長へ指示を下した。




「……大丈夫だ、ルシーリウス卿は生きている、直ぐに寝室へお運びしろ」




 あまりの出来事に固まっていた私兵長や私兵達は、ようやくタルニウス卿の言葉で動き出し、ルシーリウス卿を寝室へと運び出す。


 タルニウス卿の手でもう一つの桶が開かれ、その中のグラティアヌスの首が露わになると、貴族派貴族達が胃の中の物を周囲へぶちまけ始めた。




「ちっ……これまでか」




 舌打ちをするタルニウス卿。


 この2人の首が届けられたということは、ルシーリウス軍は敗北したと言うことである。


 しかも尋常の敗北では無く、名実両方の最高指揮官であるこの2人がクビになって桶に詰め込まれてしまったと言うことは、大敗、それも壊滅若しくは全滅かそれに等しい負けであろう。


 これで援軍の来る望みは完全に絶たれ、籠城する意味はこの時点で失われたのだ。




 最早降伏しかあるまい。




 皇帝に叛したとは言え貴族をそう簡単に処刑することは不可能であるし、たとえ取潰しや処刑を断行した所で、貴族派貴族ともなればその領地を含めて帝国の経営に相当な影響が出てしまう。


 そんな無茶はしないに違いない。




「……降伏する、使者を出せ」




 タルニウス卿の指示に反対するものは無く、この直後、貴族派貴族はユリアヌスに降伏したのであった。














 帝都中央街区、皇帝宮殿






 貴族派貴族が降伏してきたのを受け、主立った者を逮捕し、それ以外の物を軟禁し、また謹慎処分に処してからユリアヌスは勢力的に復興作業に取りかかっていた。


 その矢先、大クインキナトゥス卿と話し合っている時に伝令がやって来た。




「何?ヒルティウスが来た?」


「はい、2万程の兵を率いてユリアヌス陛下の麾下に参じたいと……現在は帝都郊外で待機しているようです」


「何を今更……ふざけるな、降伏しろと伝えろ」


「は、はい……」




 慌てて退出する伝令を見送ってから大クインキナトゥス卿が口を開く。




「しかし陛下、2万の兵は侮れませんですぞ」


「大丈夫だ、まだ帝都郊外には辺境護民官軍が居る。疲労の極みとは言え兵数はヒルティウスの倍はいる。ヒルティウスもおいそれと動けないだろう」




 ユリアヌスはそう言うとあくどい笑みを浮かべた。




「ヤツには南方作戦失敗の責任を取って貰わなければならないからな。降伏するというのなら取り敢えずは臨時総司令官にでも任命してやる」


「全く、陛下は人が悪いのう……尤もヤツの敵前逃亡は明白じゃ。それだけでも極刑であるから、まあ仕方ないの」




 ヒルティウスは南方作戦を戦死したスキピウスと共に主導し、そして敗北すると南方大陸を脱出した。


 そして居残ったカトゥルス達が過酷な環境と劣悪な戦況の中、悪戦苦闘しているというのにも関わらず、のうのうと帝国領西方で勢力を拡大していたのである。


 それだけでも十分反乱と言えるにも関わらず、いけしゃあしゃあとユリアヌスの配下に入りたいと言う。


 ユリアヌスの怒気は無理からぬ物で、大クインキナトゥス卿もその言葉に賛同する他無かったのだった。












 ヒルティウス軍本陣






「……という事でございます」


「くそ……時機を逸したか。まさかこれ程早く決着がつくとは……」




 ユリアヌスからの降伏勧告を受けて、ヒルティウスは機会を逃してしまったことを今更ながら悟った。


 頼みとした軍閥仲間のロングスも仲介を断るどころか、序列をあからさまに意識してヒルティウスを追い落としにかかっている。




 これではわざわざ出張って来た意味が無い。




 意味が無いどころか引き上げるのも難しい状況である。


 なぜなら正面には辺境護民官軍が未だ駐屯しているからだ。


 下手に背中を見せれば、2度にわたって大軍を撃破した勇猛な北方人の軍団がユリアヌス帝の命で襲いかかってくるかも知れないのである。


 にっちもさっちも行かなくなったヒルティウスは歯がみするが打開策はなく、現状ではこのまま降伏する他手段は残されていないのだ。




しかし、降伏した後に待っているのは罷免若しくは処断であろう。


 罷免ぐらいで済めば良いが、おそらく南方作戦失敗の責任を被せられ、軍閥の力を削ぐ為にも処断される可能性が高かった。


 あっさり全滅するかと思った南方大陸の派遣軍も、カトゥルス達が辛うじて盛り返して帝国本土と連絡を取り、今なお戦線を維持しているのも誤算だった。


 これでは敵前逃亡と捉えられても仕方ない。


 いやむしろ積極的のその意図で南方大陸を脱出しているヒルティウスに言い訳可能な余地は存在しなかった。




「くそ……」




 伝令が去った後、一人になった天幕で頭を抱えるヒルティウス。




 こんなはずでは無かった……




 睨み合う大軍の間に入り、自軍の兵を餌に第3の立場を得るつもりが、全くの計画倒れどころか、事態は非常に悪い方向に進んでいる。


 敵前逃亡し、保身を謀った自分を正統派のユリアヌスは許さないだろう。


 悩み、頭を抱えるヒルティウスに、錆のような声が掛かった。




「……手を貸してやろうか?」


「何者だ」




 天幕の陰から染み出すように現れたシルーハ人と闇の組合長を目にしたヒルティウスは素早く自分の剣を抜く。


 そして無言で対峙するその不審人物に再度声を掛けた。




「何者だ?……そして何の用だ?どうやって手を貸すというのだ?」


「我はシルーハの闇神官。手を貸してやろう」


「何?」




 ヒルティウスの言葉にまともに応えず、それだけを繰り返すシルーハの闇神官。


 闇の組合長はヒルティウスも色々と使ったことがある為に面識があるが、そちらを見ると黙って頷き返された。


 信用に足ると言うことか……?


 黙り込んだヒルティウスに闇神官が言葉を継ぐ。




「……我らが辺境護民官を闇から討つ。その方が混乱によって生じる辺境護民官軍の隙を突いて軍を進める。辺境護民官の居ない北方蛮族など、精強な帝国正規軍に敵うはずも無いだろう?」


「……ほう」


「明朝、我らが辺境護民官を襲う。その時期を突いて一気に攻め寄せよ」




 闇神官の言葉を聞き、しばし考えるヒルティウス。


 このまま座して待っていても、そしてユリアヌスに降伏してもヒルティウスに待っているのは破滅だけであろう。


 闇の組合長もここに現れたと言うことは一矢報いる意思があってのことで、この闇討ちに参加するのだろうから勝算は高いと思われた。


 ヒルティウスが辺境護民官を討てば、少なくともユリアヌスの率いる軍と兵数が近くなり交渉を進めることが出来るだろう。


 上手くいけば辺境護民官の立場、即ち西方帝国皇帝の協力者、若しくは庇護者の地位をそっくり手に入れられるかも知れない。


 そう考えたヒルティウスは徐に口を開いた。




「……いいぞ、見返りは何が欲しい?」


「それは策が成功してからのお楽しみだ……では、約束違えるな」




 それだけ言うと、陰の中へ掻き消えるようにして去る闇神官。




「大丈夫ですぞ副総司令官……あの者は腕が立ちます。そして我々も……」


「……それは分かっている」


「では……特に合図は出しません。騒ぎが起こったならば一気にし掛けて下さい」




用件を告げると闇の組合長もすっと音も無く去って行った。


 2人が消えた陰をしばらく眺めていたヒルティウスだったが、やがて冷静になった頭で再考してみるが、その果てにぽつりとつぶやいた。




「これ以外に方法は無い……のか」

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