第82話

元老院、控え室




 貴族派貴族や中央官吏派の議員達がここに監禁されてから既に2か月以上が経った。


 食事や排泄については問題ないのだが、身なりと清潔さについては非常に戴けない。


 大クィンキナトゥス卿は、既に匂い始めて久しい自分の楕円長衣の臭気をかいで顔をしかめた。


 心なしか純白の楕円長衣も黄ばんでいるようである。




「臭いのう~」


「しかたありません、贅沢を言える立場でもありませんしね」




 カッシウスが大クィンキナトゥス卿のその滑稽な仕草を見て笑いながら言う。


 最初にいた控え室に全員を収容するのはいかにも無理があり、それ以後はいくつかの部屋を使って分散させられはしたものの、狭苦しく何もする事の出来ない。


 しかも窓の無い部屋で2か月も閉じ込められていれば、身体の一つや二つ、臭くもなろうというものである。


 たった一つ厨房を使った作戦、辺境護民官に越境権限を与えるという策略は成功したが、それ以降は完全に外部と遮断された市民派貴族や中央官吏派の元老院議員達。




 それも権限を与えると言う内容の文書を送付する事については成功したが、辺境護民官が確かに受け取ったかどうかは定かでは無い。


 シルーハの侵入も気になるが辺境護民官や副皇帝となったユリアヌスの動静すら入ってこないので、大クィンキナトゥス卿らは焦燥感に駆られ始めていた。


 当初考えていた市民派貴族に対する蜂起の要請も、辛うじて元老院厨房の料理人を介して届ける事が出来たが、それ以降は連絡を取る術を失い、議員達は監視の隙を見つけられず、ずるずると今まで無為に過ごす他なかったのである。




「外の情報が欲しいが…」




 ぽつりと漏らしたカッシウスのもたれていた横壁に、ぴしりと亀裂が入る。


 衝撃と音でそれに気付き、訝しげに自分の脇の下を除いたカッシウスが驚く間もなく亀裂は広がり、最後にはその部分の大理石が丸々1個、壁の内側へと落ち込んでしまった。




「なんじゃなんじゃ?」


「下がってください!」




 大クィンキナトゥス卿が驚きで目を丸くしてその穴へ近づこうとしたが、傍らにいた息子のクィンキナトゥス卿に制止される。


 その穴から、黒づくめの男達がのっそりと現れた。




「何者だ?」




 一番近くにいたカッシウスが鋭く誰何すると、その男達の先頭に立っていた者は深く礼をすると、ゆっくりとくぐもった声で話し始める。




「群島嶼……今は帝国新領ク州秋留村の近くに住まいましたる、名も無き陰者が1人でございます。今は縁あってシレンティウム近郊にて秋留晴義様にお仕えしております」


「……辺境護民官殿の手の者か?」


「いかにも」




 クィンキナトゥス卿へ言葉少なく応じる陰者。




「ほう、このような者達まで配下におるとは、辺境護民官殿は底が知れんのう」




陰者達の異様な風体に飲まれている議員達も居る中、大クィンキナトゥス卿は、顎に手を当て、感心した様子で声を上げる。




「それで、カゲモノとやら、我々をどうするつもりじゃ?」


「現在、ユリアヌス副皇帝陛下が軍港からこの帝都を攻略中です」




 大クィンキナトゥス卿の質問をはぐらかすような言葉を、跪いたまま発する陰者。


 大クィンキナトゥス卿の質問に答えたとは言い難いが、その言葉を咎めるよりも内容にカッシウスが驚いて声をあげる。




「何だと?」


「……む、それはいかんな」




 しかしそれとは逆に、大クィンキナトゥス卿は何かを察して厳しい表情で言った。




「どうかされましたか父上?」


「お前もまだまだじゃな~ここに安閑としておれば我らは体の良い人質とされるじゃろ」


「あっ」




 父親の言葉にむっとした様子を見せたクィンキナトゥス卿であったが、次いで出た言葉に愕然とする。


 絶句しているクィンキナトゥス卿を余所に、陰者は大クィンキナトゥス卿へと言葉を継いだ。




「はい、それで……高貴なる身分の方々には申し訳ありませんが、地下の下水道から帝都の軍港へ脱出して頂きます」


「げ、下水道だと!?元老院議員の我々に糞尿や汚水にまみれ、惨めに脱出せよというのかっ」


「まあ、致し方なかろう」




 陰者の示した脱出方法に激高した議員達を宥めるように、大クィンキナトゥス卿が言うと、悲鳴じみた声が議員達から上がる。




「議長!?」




 そんな議員達を眺め回し、大クィンキナトゥス卿は悪戯を思いついた悪ガキのような顔で言葉を継いだ。




「お主ら、自分の身体の臭いをかいでみよ」


「え?」


「良いからかいでみよと言うに」


「……うっ」


「あぐっ」




恐る恐る自分の腕や身に纏った衣服の臭いをかいだ議員達が苦悶の表情を浮かべる。


 それを見ていた大クィンキナトゥス卿は、今度は悪戯を見事成功させた悪ガキの笑顔で口を開いた。




「どうじゃ?下水から湧き起こる臭いと質こそ違えど凄まじさは些かも変わるまい」


「しかし……」




 それでもなお抵抗を示す議員達に、大クィンキナトゥス卿は顔から笑顔を消し、厳しい表情で言葉を発する。




「今更汚れを気にしたとてなんとなる、既に我々はルシーリウスの暴走を議場にて止められなんだという汚れをたっぷりと纏うておるのだ。実際の身体が些か汚れようとも如何程の事があろうか。我々の名誉はこれ以上傷付く余地は無いのじゃからな」




 厳しい自分の言葉に何も言えずうなだれた議員達へ、大クィンキナトゥス卿は皿に言葉を継いだ。




「ここで言い争っている時間は無いのじゃ…今は我々の汚れを少しなりとも解消せんとすれば、ユリアヌス陛下に勝利して頂く他無い。それであればルシーリウスの人質と為され、陛下の足手纏いにならぬようにする事こそ肝要、急がねば奴らが来るじゃろう」


「……分かりました」


「これ以上の不名誉はごめんですからな」




 ようやく議員達が動き出し、陰者の先導で穴へと入ってゆく。




「カゲモノとやら、皇帝陛下は如何致すのか?」




 ふと気が付いたように大クィンキナトゥス卿が穴に入る間際、陰者を振り返って問う。




「そちらへも数名が向かっております、心配いりません」


「そうか、宜しく頼む……尤もあの頑固爺はごねるやもしれんから、その時は気絶させても構わんからな」




陰者はごく平静に答え、その言葉に安心した大クィンキナトゥス卿はそう軽口を叩くと穴をくぐり、臭気漂う下水道へと身を落とすのだった。












 帝都東部平原、シレンティウム軍






 弓矢の応酬が激しく続き、最前線では帝国式装備の重装歩兵同士による白兵戦が延々と繰り広げられていた。


 練度は低いが数に勝るルシーリウス軍。


 戦線で剣を打合うまでもなく倒される者も多いが、数に頼んだ戦法を取り続ける。


 翻ってシレンティウム軍は少数ながらも兵を頻繁に入れ替えて休憩を取らせつつ、防御に徹する事で損害と疲労を最小限に抑え続けていた。


 しかし、次々と湧くように現われるルシーリウス軍の無頼歩兵達に不意や隙を突かれて倒される者も少なくない。


 兵数差がじわじわとシレンティウム軍を圧迫し始め、戦線は膠着から次第にルシーリウス軍有利に傾きつつあった。




 相変らず特殊火炎弾と爆裂弾の射撃に晒されているルシーリウス軍の後衛だったが、前線での展開が徐々にではあるが有利なものに変わりつつあるのを見て、ヴァンデウスはようやく笑みを浮かべる事が出来る。


 両翼から突撃させた騎兵が弩の連射によって大打撃を受け、後退してしまうのを見て青くなったヴァンデウス。


 さらにはなかなか打ち破れない正面の戦況を見て気が気でなく、傍らに居るグラティアヌスをちらちらと見てそわそわと爪を噛んでいたヴァンデウスだったが、ようやく味方有利の状況が生まれつつある事に気を良くし始めたようだ。


 その顔を見て取ったグラティアヌスがすかさず進言した。




「若、総攻撃の命令をお願い致します」


「おう?いよいよか?」


「はい、頃合いは良かろうかと思います。敗走した騎兵も再集結が完了致しましたので、歩兵による総攻撃の後に本陣の兵と併せて正面から乗り崩しを掛けようと思っているので御座いますが…宜しいでしょうか?」


「ははは、これであいつも終わりか!やれっグラティアヌス!」




 興に乗ってきたヴァンデウスが威勢良く応じると、グラティアヌスはヴァンデウスに目礼を返し、顔を前に向け直して号令を発した。




「総攻撃はじめいっ!!損害を恐れるな、攻めて攻めて攻めまくれい!!!!」




 その号令と同時に本陣と敗走していた騎兵をまとめ直した兵達を率いてグラティアヌスが前へ出る。


 ヴァンデウスがしっかりと護衛騎兵に囲まれているのを確認しつつ、グラティアヌスはそのまま突撃を続行した。


 どっと戦場の大地を蹴り上げ、人馬一体の突撃が開始される。




「左右に弩が配されておるのならば、前面から堅陣を抜くまでの事!この兵数差で無謀な戦を挑んだ事を後悔するが良いわっ!!」




 突如始まった大攻勢に、シレンティウム軍が一気に押され始めた。


 それまでの攻撃も数を恃んだ無謀で強引なものだったが、今度は桁が違う。


 ルシーリウス軍全軍が一気にシレンティウム軍を押しつぶそうと前へ押し出してきたのである。








 一気呵成の突撃を受けて動揺するシレンティウム軍の最前線であったが、何とか大盾の列を崩さずに後退する事に成功する。


 少しづつ圧力を受けて下がるシレンティウム軍の戦列に、勢いづいたルシーリウス軍が躍りかかってきた。




「列を乱すな!」




 前線の百人隊長の号令で、後列の兵士達が最前列で大盾を構えて敵ともみ合いを続ける兵士の背中を押し、押し込まれて転倒しないように支える。


 それでもずるずると後退を続けるシレンティウム軍。


 次第のその前線は中央部がくぼんだ半円状になっていった。






「そろそろ頃合いでしょうか…」




 ハルの傍らで最前線の様子を見ていたアダマンティウスが言うと、ハルが応えるより早くアルトリウスが口を開く。




『うむ、よかろう…あほ貴族共に文明と金、兵数の優位に胡座をかくとろくな結果にならんと言う事を教えてやるのである!』


「確かに、軍事技術においてはシレンティウムが一部突出していますからね、今や帝国の軍事技術の優位性は崩れました」




 ハルが言うと、アダマンティウスが難しい顔で応じる。




「それがどのような影響を今後帝国に与えるか……その辺は後ほどこの戦いが終わってから考えるとしますか」


「そうですね、避けては通れない問題ではありますが、ゆっくり後ほど考えるとしましょう。今は勝利に向かって最大限の努力をする時ですからね。では……赤い旗を揚げろ!!」




 アダマンティウスの含みある言葉に応じながら、ハルは伝令兵に命じた。


 すかさず命じられた伝令兵が大きな赤い旗を揚げる。


 








「お、あがったぞ!」




 最前線で軍団の指揮を執っていたルーダが赤い旗が本陣に掲げられるのを見てほっとした声を出した。


 そろそろ敵の圧力に耐えかねていたところだったのだ。


 北方軍団兵達も、最後の手段、奥の手があると思っているからこそ耐えてこれたが、これが普通の戦いであればとうの昔に戦線は崩壊していただろう。


 クリフォナム人は爆発力に優れているが、元来それ程粘り強くは無い為、守勢は得意ではないのである。




「よし、放てっ!!」




 満を持して特殊工兵達が手押しポンプを力一杯押し込んだ。


 北方軍団兵の構える盾の隙間からそっと差し出された噴射口がきらりと光る。


 不思議に思った無頼兵士の1人がその噴射口を覗き込んだと同時に、轟音とすさまじい勢いで火炎が噴射された。


 一瞬で物言わぬ炭と化した無頼兵士。


 火炎を浴びて物体と化したのはしかしその兵士だけでは無かった。


 伸びる炎は次次と無頼兵士達を飲み込み、たちまちシレンティウム軍の最前線に取り付いていた無頼兵士達は焼き焦がされてしまった。




 また、火炎放射がなされたのは一カ所だけでは無い。


 シレンティウム軍の戦列のあちこちから噴き出した炎は殺到していた無頼兵士達を焼き尽くし、最前線に大穴を開ける。


 眼前につい先ほどまで大勢居たはずの味方兵士達が一瞬で人間大の炭と化し、ぽっかりと開いてしまった空間に後続の無頼兵士達がただ呆然としているところへ、手投げ矢が撃ち込まれる。


 押し込まれてたはずの敵、シレンティウム軍の北方軍団兵が突撃した来たのだ。




 それまでずっと防御に徹し、反発力を溜めに溜めていた北方軍団兵の勢いはすさまじく、手投げ矢で撃ち倒された無頼兵士達を押しやり、喚声ととともに大盾を構えて突っ込んできた。


 大盾を介して敢行された体当たりに小柄な帝国人である無頼兵士達は一瞬で吹き飛ばされ、押し倒されてしまい、立て直す暇も無く北方軍団兵の剣で仕留められる。


 まだまだ敵と斬り結ぶのは先だと油断していた事もあって、突如戦闘の真っ直中へ放り込まれた形の後方に居た無頼兵士達は、北方軍団兵の苛烈な攻撃を受け止めきれずに討ち取られていった。




 形勢はたちまち逆転してしまったのである。


 












「お、おいっ!!今度は何なんだあれはっ!?やられてるぞっ!」




 ヴァンデウスの悲鳴を聞くまでも無く、最前線の味方が火炎放射によって一掃されてしまった事は見ていれば分かる。


 グラティアヌスにはそのからくりが分かったが、それでも為す術が無いという事実はたとえ相手の使った作戦や機械が理解できたとしても変わらないのだ。


 つっとグラティアヌスのこめかみに冷や汗が流れる。




「お、おい……どうするんだ!」




 しびれを切らしたヴァンデウスが再度問いかけると、ようやくグラティアヌスの口から言葉が発せられた。




「おそらくは、火炎放射器の一種だとは思われますが、私は今までこれほど凶悪な威力のある火炎放射を見た事が御座いません……」


「なっ!?」




 押し上げられた前線に、再び火炎放射が見舞われた。


 あれ程の優勢が一気に覆されてしまうとは思ってもみなかったグラティアヌスは、すぐに弓兵達へと指示を飛ばす。




「敵の最前線を……火炎放射器を狙え!」




 火矢での攻撃であれば効果的だろうが、合図用に幾ばくかの用意があるだけで一斉射撃に使えるだけの本数は無い。


 しかも、最前線にあると言う事は北方軍団兵の大盾に守られていると言う事である。


 矢だけでは損害を与えられるかどうか分からないが、特殊な兵器である事は確か。


 その操作には熟練した兵士が必要であろう。


 操作している兵士を仕留めるか、燃料の詰まった部分に損害を与えられれば、火炎放射器による攻撃は掣肘できる。




 よしんばそれが不可能であっても、火炎放射器が狙われているという事が敵に分かれば、用心して行動や攻撃が慎重になり、結果攻撃頻度が鈍くなる。


 グラティアヌスはそう考えたのであった。


 しかし……


 どどどんっという連続した爆発音が響き、爆炎が舞う。




「おわっ!」




 ヴァンデウスが驚愕で顔を引きつらせたのは、弓兵達の布陣する後衛に次々と特殊火炎弾と爆裂弾が炸裂したからである。


 しかもそれまでに撃ち込まれていた物より威力が大きい。


 間隔を開いて配置され、弓射していたルシーリウス軍の弓兵達が炎と爆発に巻き込まれて悲鳴を上げた。




「なっ?」




 驚くグラティアヌスを余所に、次々と連続して落下してくる爆裂弾に、ついに弓兵達は恐慌状態となって逃げ惑った。




「こ、これは……こんなばかな!うぬ!」




そして再度の火炎放射が行われ、壊滅的な打撃を被った無頼兵士達。


 もはや立て直しは不可能なほどの打撃を物心共に負わされた無頼兵士達は、ついに潰走を始めた。


 グラティアヌスはその様子を見て自軍の負けを悟り、最後の賭に出ることを決意する。


 これをなさねば、主筋を逃がす事すらあたわぬであろう。




「若!私めはこれより騎兵にて敵正面に突撃を敢行致します。若は我々が討たれた場合は速やかに帝都へお戻りくだされ!」


「な、何だと?」


「我々の負けで御座います……左右より騎兵の圧迫を退けた敵軍が包囲を始めております上に、重兵器の射撃によって弓兵までもが大損害を受け、正面は火炎放射によって壊滅状態とあらばもはや打つ手は御座いません。敵の火炎放射器の燃料が如何程の量あるか分かりませぬが、3回の火炎放射を行っておりますれば残りは少なかろうと存じます。故に私が突撃を仕掛けてみますが、私の目算が狂っておりました場合私たちは無事では済みませぬ、おそらく生きては戻れますまい。故にお願い致します。残兵を率いてお退き下さいますよう、お願いで御座います」


「……」




グラティアヌスの言うとおり、左右のシレンティウム軍が騎兵を退けたあの恐るべき連射式弩で私兵軍を攻撃し始めている。


 盾を貫通し、兜や鎧を薄紙のように裂く弩の攻撃を受け、規律を保っていた私兵達も浮き足立ち始めていた。




「若、さらばで御座います」




 グラティアヌスはそう言い置くと、騎兵達を率いて突撃を開始した。


 後に残されたヴァンデウスは、呆然とそれを見送る。


 しばらく突撃した騎兵達が炎と手投げ矢の雨に飲み込まれていく様子を呆然と眺めていたヴァンデウスであったが、グラティアヌスが歩兵の戦列に突っ込む直前に落馬して突き殺されるのを見るに至ってようやく我に返った。




「くっ、グラティアヌスの馬鹿め、勝手な事をしたあげくに戦死かよっ!ふざけんな、俺は悪くないっ、悪いのはグラティアヌスだっ!負けたのは俺のせいじゃない、俺は何もしてねえんだからなっ、全部グラティアヌスの馬鹿がやった事が裏目に出たんだ!あいつが悪いんだ!俺がやってりゃもっと上手くいったのに、あいつがやるって言うからやらせたらこの様だ!ふざけんな、俺が負ける訳無いっっ!!」




 今まで衷心から仕えてきた家令を罵り倒すと、ヴァンデウスは逃げ出した。




「やってられっか!」




 慌てて護衛騎兵達がその後を追う。


 












『おいハルヨシよ、あのあほが逃げるぞ?』


「ええ?まさか……って、あ、ちょっと待て!?」




 アルトリウスが茶化すような口調であったので、てっきり冗談だと思ったハルが敵の本陣を見ると、脱兎のごとく逃げ出すヴァンデウスの姿がそこにあった。




「なっ……なんてやつだっ!」


「さすが、と言いましょうか、全く見事な逃げっぷりです」




 家令が討たれ、部下が次々と戦死している中、恥も外聞も無く逃げるヴァンデウスの後ろ姿に憤るハルと、呆れ果てるアダマンティウス。


 その2人にアルトリウスが声を掛けた。




『どうするのであるか?あのまま逃げてしまうであるぞ?』




その言葉が終わらないうちにハルは馬から下りると弓を馬の鞍下から取り出し、箙から黒矢羽根の矢を取り出して番えた。


 逃げるヴァンデウスは上質の鎧を身につけているが、自己顕示欲からだろう、顔が見えやすいように兜を被っていない。


 ハルは力の限り弓を引き絞った後、静かに呼吸を整え、遠方に遠ざかるヴァンデウスの後ろ首に狙いを付けつつ鏃を目当てにして滑るように弓を移動させ、矢を無造作に放った。




 がんっと機械的な音を発し、矢が弓より放たれると、黒矢羽根の矢は山形の軌道を描かず直線でヴァンデウスに向かって飛び去る。


 びいいっという風切り音と黒い軌道を曳き、飛んだ先に居たヴァンデウスの後ろ首を狙い過たず打ち抜くハルの矢は、そのまま勢い余ってヴァンデウスの喉から前へ鏃と柄の半ばまでが突き出て止まった。


 首を撃ち抜かれ、ゆっくりと鞍壺から落ちるヴァンデウス。




「見事っ!」




 馬上のアダマンティウスが思わず膝を手で打って叫ぶ。


 慌てて護衛騎兵から治療術士らしい者が駆け寄るが、再び放たれたハルの矢で胸を打ち抜かれて事切れると、護衛騎兵達は一目散に蜘蛛の子を散らしたように逃げ散ってしまった。




「全く、最後までとんでも無いヤツだ」


『この距離でこともなげに当てるとは、ハルヨシこそとんでも無いのである』




 弓を下ろして馬に乗り直しながら言うハルに、アルトリウスが呆れたように言うのだった。










 帝都中央街区、ルシーリウス卿邸宅






 ユリアヌスが帝都軍港を制圧し、帝都への進撃と無頼兵士の排除を開始したその頃、白亜の邸宅に急を知らせる使者が入った。


 闇の組合に属するその人物は、ルシーリウス卿と結託し、帝都を牛耳っていた闇の組合長。


 しかしその顔は青ざめ、引きつり、とても帝都を恣にしていた者とは思えないほどの焦りを含む悲壮なものであった。


 顔をフードで隠したままでも私兵に礼を送られ、特段の制止も無いまま奥の広間へと向かう闇の組合長は、程なくルシーリウス卿が貴族派貴族達を集めている広間へと到着した。




「これは組合長。いま卿は会議中ですが……」


「緊急の用件だ、すぐに取り次いでもらいたい」




 さすがに会議中とあって、広間の前で警備を行う私兵長に制止される闇の組合長であったが、すぐに用件を告げたところ私兵長が頷いた。


 私兵長もおそらく帝都で騒ぎが起きている事を、薄々察しているのだろう。




「分かりました、ではこちらへ」




 私兵長に案内され、闇の組合長が広間へ入ると、貴族派貴族の主立った者達が一斉に開いた扉の入り口に立つ闇の組合長に注目した。




「……貴様が何故ここに居るのだ?私兵長!何故この様な卑賤の輩をここへ通したっ」




 ルシーリウス卿に代わってタルニウス卿が怒声を私兵長に放ったが、闇の組合長は動じた素振りも見せずに理由を説明しようとした私兵長を制して口を開く。




「緊急事態でございます。帝都で兵乱です」


「な、なにっ!?」


「何だと!」




 闇の組合長の言葉に色めき立つ貴族派貴族達。


 流石のルシーリウス卿も動揺を隠しきれない様子で闇の組合長を直接問い質した。




「誰が攻めてきたのだ?辺境護民官軍はヴァンデウスが相手取っているはずだ!」


「ユリアヌスで御座います」




 闇の組合長の答えに息を呑む貴族派貴族達。


 ルシーリウス卿が悲鳴じみた声を上げる。




「な、何?ユリアヌスが攻めて来ただとっ!?一体どうやって!」


「はい、帝都軍港から戦艦にて帝都へ侵入したものと思われます」


「何だと?」




 その回答に絶句するルシーリウス卿。


 帝都艦隊の提督には金を積んで寝返らせており、港湾側の守備は万全と思っていたからである。


 帝都艦隊は寝返ってなどいなかったのだ。


 しかも、辺境護民官軍と一緒に進軍して来ていると思っていたユリアヌスが帝都を急襲したとあっては、帝都に残した私兵だけでは心許ない。




「ぐ、くそ!私兵共はどうした!」


「それが……ユリアヌス軍に不意を突かれた上に市民派貴族と帝都市民が蜂起し、ほぼ全滅の状態です」


「うぬぬぬっ!」




 それで無くとも軍としてはまとまりに欠ける無頼兵士達である、同数程度でまともに正規軍とぶつかっては蹴散らされるのがせいぜいであろう。


 しかも、無頼兵士達は治安維持のために帝都中に散らして配置してしまっており、直ぐの集結は無理であった。


 そうした配置にするよう命じたのは他ならぬルシーリウス卿本人であり、闇の組合長の報告にも唸る他無い。




「き、貴様ら闇の組合は何をしているんだ!」


「……我々もユリアヌス軍の傭兵団の襲撃を受け、現在貧民街で戦闘中ですが、状況は芳しくありません。既にいくつかの組合の組織が潰され、副首領級の幹部も数名討ち取られています」




 次々と明らかになる兵乱の規模と形勢は圧倒的に不利。


 ルシーリウス卿はうなり声を上げることしか出来ない。




「ぬぐぐぐ……」




 切羽詰まった帝都の情勢に貴族派貴族の腰が早くも砕け始めた。




「ル、ルシーリウス卿っ、い、如何なさいますか?」


「に、逃げましょう!」


「最早これまで……早急に帝都を脱出しなければ……」




がたがたと落ち着き無く腰を浮かし始めた貴族派貴族達に、ルシーリウス卿が一喝する。




「落ち着け!!」




 一瞬動きを止める貴族派貴族達を睨み回し、自分にようやく注目が集まったことを確認すると、ルシーリウス卿は徐に口を開いた。




「心配せずともヴァンデウスが15万もの兵を持って辺境護民官と対峙しているのだ。程なくあの成り上がりの罷免辺境護民官を討ち破り、蹴散らして帝都へ戻って来るだろう。我々はそれまでここで粘れば良いのだ。15万の兵が戻って来さえすれば、ユリアヌスとて何ほどのことも無い、蹴散らしてくれる。ただ、我々が帝都から落ちればユリアヌスに帝都を固められてしまう。そうなればこの帝都を奪還するのは容易ではない。今は兵を集めこの邸宅に立て籠もってヴァンデウスの帰還を待つのだ!」




 ルシーリウス卿の言葉にようやく落ち着きを取り戻す貴族派貴族達。


 その様子を確かめてからルシーリウス卿は次に指示を下す。




「直ぐに周辺に駐屯している無頼兵士をかき集めろ、貴族派貴族に属する者はあらん限りの物資を持って警備兵を率い、この邸宅へと集まれ!」




 慌てて動き出す貴族派貴族達。


 自邸へ使者を派遣する者もいれば、ルシーリウス邸から近い為自ら邸宅へと一旦引き上げる者もいる。


 またルシーリウス卿の私兵長は周囲の私兵を集めるべく指示を出し始めた。


 次いでルシーリウス卿は知らせをもたらした闇の組合長へと視線を移す。




「組合長、貴様らの拠点はどのぐらい保ちそうだ?」


「ユリアヌスめが派遣してきている、不正規戦に慣れた傭兵は厄介な相手でございますので、それほど長くは保たぬかと……」


「では、貴様は直ぐにこの邸宅を拠点とせよ、以後情報収集や暗殺の指示は貴様に私が直に出す」


「……心得ました」




 ルシーリウスの言葉に頭を垂れる闇の組合長。


 その表情は未だフードに隠れて窺い知れないが、ルシーリウス卿はひとまず打てる手を全て打ち終え、再度闇の組合長へ向き直った。




「元老院に監禁している中央官吏派の元老院議員を始末しろ、市民派貴族はここへ連行して来い、抵抗するようなら腕の1本2本は構わん、皇帝の遺骸も忘れるな」


「……心得ました」












 闇の組合長が配下の者達を率いて元老院へと入った。




 もちろんルシーリウス卿から依頼のあった件を果たすためである。


 闇の組合長は直ぐに元老院控え室へと向かい、警備の私兵を押し退けてその扉を何の前触れも無く勢いを付けて開け放った。




「なっ!?」




 しかし、そこにあるのはいくつかの寝台に毛布、食事後の食器が乱雑に置かれているだけで、目当ての、本来この部屋に閉じ込められていなければならない人物達は誰1人として存在していなかった。


 一緒に入ってきた私兵も目を丸くする。




「こ、これは……」




 続いて入ってきた配下の者達も部屋の様子を見て絶句した。


 闇の組合長は無言のまま部屋へ入り毛布や食器に触れていく。


 そしてふと壁の窪みに気が付いた。


 そこには何気なく毛布が被せられ、その上には汚れた食器とぶちまけられた食べ残しが異様な臭いを放っていたのである。




 部屋の他の場所も似た様子ではあるのだが、言葉に表せない違和感を感じた闇の組合長が、恐る恐るその汚れて腐臭を放つ毛布を取る。




「……ここか」




 果たしてその毛布を取り除いた場所の壁から、石を外されてぽっかりと開いた穴が現れた。




「長……他の部屋にも議員達が居ません」




 別の部屋へと向かっていた配下の者がそっと報告する。




「皇帝執務室は見てきたか……」




 ぼそりとつぶやくように言った闇の組合長に無言で頷きつつ、今報告したのとは別の配下が口を開いた。




「遺骸は毛布ごと持ち出されてしまっておりました……」


「そうか……」




 闇の組合長は配下の者達に目配せを送ると、自分の横で呆然として部屋の中を眺めている私兵の喉元へ短剣をあて、すっと横へ引いた。




「ぐぼ」




 たちまち周囲で似たような光景が繰り広げられ、私兵達は闇の組合員に全員が瞬殺されてしまった。


 血の泡を吹き、喉から息を漏らしてどさどさと倒れる私兵達を尻目に、闇の組合長は踵を返す。


 皇帝執務室でも今頃同じ光景が繰り広げられていることだろう。




「……帝都を抜ける」




 短く言い放った闇の組合長は、足音を消したまま配下を率いて帝都の闇に紛れていった。


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