第6話

 西方帝国帝都、商業街区・ロット家




「お姉ちゃん、本当に行くの?」




 不安そうな弟の声に少しためらう気持ちが生まれたけれども、私は行かなくてはならないのです。




「ええ、お世話になった方がきっと困っているのだからお手伝いしないとね。それに身の危険もあるわ……あなたも感じたでしょう?」


「うん、変なおじさんが家の前をうろうろしているし……」




 まだ子供と言っても良い弟に未開の地への道連れを頼むのは気が引けるけれども、2人きりの家族、離れ離れになることの方が考えられない。


 ましてや命の危険を感じている今、あの方が私のために諍いを起こした相手が私たち姉弟を見つけて何もしない事は無いでしょう。




「さあオルトゥス、支度を手伝って。荷造りは終わっているのだから」


「うん!」




 弟もようやく踏ん切りが付いたのか、用意した2頭のロバに私たちの少ない家財道具を積み込み始める。


 私はプリミア・ロット18歳。


 帝都に暮す帝国の市民、そして弟オルトゥス・ロットは私より5つ下の13歳。


 父と母は由緒正しき帝都の一般市民でしたが、両方とも流行病で世を去り、私は帝都の宿屋で給仕や受付、経理や事務の仕事をしながら、残された弟の面倒を見てきました。


 それ程裕福ではないけれども、2人で暮して行くには不自由のない給金を貰い、平和に暮していた私たちの運命を変えてしまったのは2ヶ月前のこと。




 私は瀕死の重傷を負ったのです。




 いえ、一度は死んだのかも知れません。


 あのとき帝都治安官吏のあの方が尽力してくれなければ私の命はなく、弟は糧を失って路頭に迷っていたことでしょう。


 受けた恩は全力で返さないと行けませんし、その原因を作った相手が非常の手段出でる前に、私は家族である弟を何としても守らなければいけません。


 あの時助けて戴いたのみならず、またご迷惑を掛けるのは気が引けますが、他に頼れる人は居ません。


 ですから私はあの人を追って、北方辺境へ向かうことにしたのです。


 もちろん、あの方に私の一生を懸けても良いと思っています、いろんな意味で! 










 数ヶ月前、西方帝国帝都、商業街区・中央大通り






「おらあああ、どけどけどけえええ!!!!」




 突如現れたのは大通りを疾駆する6騎の騎馬。


 乗っているのはいずれも身なりは良いが場違いな嬌声を上げ、周囲を威嚇して下品な笑いを上げている。


 買い物客で賑わう大通りはたちまち喧噪に包まれ、人々は騎馬に撥ねられまいと悲鳴を上げて左右に逃げ惑う。


 私は勤め先の料理長に頼まれた食材の買い出しの帰り。


 たくさんの荷物を抱えとても機敏に動き回ることなど出来はしない。


 何とか道の端へと思ったけれども考えることはみんな同じで、一斉に駆けだしてしまったものだから何人もの人がはじき出されてしまう。




 かく言う私もその内の1人。


 特別鈍い方ではないけれども重い荷物と突然の事態が私の身体を縛っていたのは事実。


 私は周囲の人々に突き飛ばされ、はじき出されてしまって不運にも疾走してくる騎馬の前へふらふらと押し出されてしまう。




「ああっ!!?」




 私は悲鳴を上げると同時に先頭を走っていた騎馬に撥ね飛ばされた。


 鈍い打撲音の後に宙を飛び、再び鈍い音と共に道ばたへと倒れる私。


 そこからの記憶は曖昧、と言うかはっきりしない。


 なぜなら私は自分の身体を見下ろす位置に居たから。


 あの記憶が定かであれば私は確かに一部始終を見ていたけれども、とても現実とは思えない。


 それでも後で顔見知りの人たちや官吏の人から聞いた内容と私の見たことは一致しているので、私の見ていた事が事実なんだと分かる。




 






 周囲の人々が悲鳴を上げる中2人の男が私の身体に駆け寄った。




「誰か応急手当が出来る者はいないか!!」




 青色の制服に身を包んだ1人の男が路傍にしゃがみ込み、倒れている私の様子を見て取って周囲へ必死に呼びかける。


私が息も絶え絶えにか細くうめく様子を見て顔をゆがめている。


 無理もない、素人の私が見ても助からないくらいの重傷だと直ぐに分かる。 


 付近には私が買ってきたパンや果物、野菜が散乱していた。


 私の身体はごぼっと気味の悪い咳と共に血の塊を道ばたへと吐き出した。


 私は何も感じていないけれども、見開かれた私の身体の瞳はくすみ、うつろであるが涙が流れっぱなしになっている。




 人だかりは出来ているものの、遠巻きにその様子を見ているばかりで助力を申し出てくる人はだれもいない。


 帝都市民で賑わう大通りは一瞬で静まりかえっていました。














「……乗馬から降りて下さい。」




 同じ青色の制服を着たもう1人の帝都治安官吏は、目の前で騎乗している5名に守られた人物に対して怒気を隠そうともせずに言っていました。


 騎乗の人物は金髪碧眼ですらっとした背の高い美男子ですが、目には退廃の光があります。


 身なりは良いのに裏路地に巣くう与太者と同じ目をしています。


 周囲の護衛達もどこか荒んだ雰囲気をまとっていて、護衛丈を構える官吏さんを見て嘲笑を浴びせていました。




「ふん……治安省か?貴様にそのような権限があると思ってるのか?オレはヴァンデウス・エルト・ルシーリウスだ」




 名前を聞いて私は思わず息を呑みます。


 帝都でも鼻つまみ者として有名なルシーリウス家の放蕩息子、いわゆるどら息子です。


 しかしその一族は帝国の上部に居並ぶ高官揃いで、彼の父親は元老院で貴族派貴族の筆頭にあるのですが、余りの素行の悪さに誰もが眉を顰める札付きの不良です。


 いかな帝都の治安を預かる官吏であるとは言え、あの官吏さんが相手取るには些か荷が重い人物であると思いました。


 それでも目に怒りの火を灯した官吏さんはその名を聞いても退きません。




「存じ上げております。ですが騎馬で人を撥ねた事について取り調べを致しますので速やかに詰め所までの同道を願います」


「断る!庶民1人撥ねたところでオレに何の罪があるというんだ?」




 努めて平板に言葉を紡ぐ官吏さんを挑発するルシーリウス。


 庶民だって生きています!


 とても酷い話ですがこれが帝国の現実、悲しいことですが今の世の中貴族に逆らって生きていける帝国人は何処にもいません。


 でも官吏さんは屈しませんでした。




「大通りでの騎乗走行は禁じられております。また例え故意で無かったという場合にせよこの件は不注意による傷害の罪に問われます。尤も人の多い中央大通りで暴走行為をしていたのです、不注意とはとても言えません。被害に遭った方に対する保障と救護を命じます、お抱えに腕の良い医師ぐらい居るでしょう?直ぐに呼んで下さい」




 私は本当に感動しました。


 官吏さんみたいな帝国官吏もまだいたんだなあ、と。


 言葉を発することは出来ませんでしたけれども、私は私の為にそこまでして頂かなくても良いです、どうか退いて下さいと思いました。


 例えこちらが正しくとも貴族の意見に逆らってしまえばどんな仕返しをされるか分かりませんから。


 あの官吏さんが私の事で辛い目に遭うのは嫌だったのです。




「断る!庶民にしてやる必要を感じない。」


「……重ねて命じます。この方に対する保障と救護をしなさい」




 貴族の拒絶にも動じず、敢然と命令する官吏さんは本当に素敵でした。




「ふふふはあっは、オレに楯突くのか、面白い。確かに戯れに大通りを駆けた事は認めよう、しかしその女がとろいだけじゃないか、騎乗者の前を遮る行動は禁止されているはずだろ?」


「それは軍使や急報などの緊急時、公的な任務の時だけの話です」


「緊急だったんだよ!糞を漏らしそうだったんだ」




げひゃひゃひゃひゃひゃ




ひーひひひひ




 取り巻きが下卑た笑いを上げ、周囲の市民達はその成り行きを固唾を呑んで見守ります。


 正論で説得しようとする官吏さんに対して不良達の態度は悪く、不真面目さが全開で、さらに屁理屈を捏ねて官吏さんを馬鹿にしています。




 許せない。




「公務といやオレそのものが公務だ、オレは帝国貴族だからな」




 一寸考えた後どら息子の口から出た言葉に私は呆然としましたけれども、官吏さんは心底あきれたみたいです。




「ではどうあっても同道願えないのですね?」


「はっ、当たり前だ。オレは悪くない!」




 勝ち誇ったように言う貴族のどら息子。


 しかしその瞬間馬の上に官吏さんは乗っていました。


 えっ?どうやって?




「なっ!?」




 そして驚愕に目を見開くどら息子を馬から蹴り落とすと、色めき立って飛び掛かろうとする取り巻きの5人を杖でたちまちの内に棒杖で叩き伏せてしまいました。


 容赦なく振われた杖によって取り巻きの人たちは全員伸びてしまったようですが、どら息子だけは手加減をされたのか頭を振って立ち上がります。


 それでも強烈な蹴りで馬から落とされたのですから無事なわけはありません。


 ふらふらと立ち上がりはしたものの、どら息子は再び地面に情けなく尻餅をついてへたり込んでいまいました・


 ザマアミロですね。




「ルキウス、その娘の容態はどうだ?」




 官吏さんはどら息子の様子にしばらくは立ち上がれないと見たようで、素早く馬から下りると私の下に駆けつけてくれました。




「余り良くない、このまま手当を施さなければ命に関わる」




 官吏さんの同僚で私の身体を懸命に介抱して下さった方が、首を左右に振りながら沈痛な表情で答えます。


 確かに私の身体はもう保ちそうにありません。


 何せ意識は既に外へ出てしまっていますし……


 官吏さんは大胆にもまさぐるように私の服の下の胸に手を当て、それから脇腹や背中に触れていきます。


 こんな時に不謹慎かも知れませんけれども私は思わず赤面してしまいました。




「腕と足だけじゃ無くて肋骨も折れている、肺も傷付いているかもしれない」


「ああそれは分かるが、俺たちじゃあ手に負えない」




 官吏さんの言葉に同僚さんが顔をゆがめます。




「いや出来るだけのことをしよう……すいません!そこの軒先を借りますよ!ルキウス、アエノバルブス医師を呼んできてくれ!」


「分かった」




 官吏さんはそう言って私の身体を近くの商店の店先に運び、同僚さんに言って医者を呼ぶように言いました。


 その頃には他の官吏さん達も駆け付けていて、ルキウスと呼ばれた同僚さんは他の官吏さんに医師を呼びにやらせたようです。


 何をなさるのでしょうか?


 私が興味深く見ていると、官吏さんは私の手や足の骨折部分を引っ張り折れていた骨をつなぎ合わせているようです。


 それから同僚さんの持ってきた副え木を付け、更には折れた肋骨を引っ張り出しているようです。


 更に官吏さんは私の口や鼻から血の塊を吸い出し、息を吹き込みます。


 その瞬間私は酷い痛みに襲われて思わずうめき声を上げてしまいました。




「ううっ……?」




 ほっとしたように私を覗きこむ官吏さんの顔が間近に……きゃっと思う間も無く、再び襲ってきた酷い痛みに私はむせ返り、咳き込み、血の塊を官吏さんの服に飛び散らせてしまいます。


 それでも官吏さんは少しも嫌な顔をせず、にっこりと微笑んで私の顔の血や汗、涙を同僚さんが用意した布で丁寧に拭い取って下さいました。




「もう大丈夫かな?とりあえず折れた骨は取り繕っておいた」


「では、後はワシの仕事だな?」




 官吏さんの後ろから赤いもじゃもじゃの髭を生やしたアエノバルブス医師が現れました。


 このお医者さん、偏屈ですが腕は確かで帝都中でも知られたお医者さんです。




「アエノバルブスさん、すいませんっ、お願いします」


「おう、任されたわい」




 官吏さんの言葉に鷹揚に頷くアエノバルブス医師。




「ふん、まあ、応急手当はしっかりしたようだな。後は内臓の損傷だけか……これ、娘、頑張るのじゃぞ」


「はい……ありがとうございます」




 何とかそれだけを言葉にすることが出来ましたけれども、その直後に私は気を失ってしまいました。


 弟から聞いた話では私を家まで送り届けてくれたのは同僚さんとアエノバルブス医師らしく、官吏さんはいなかったようです。










 それから1月半後、私の怪我は不思議なくらいの早さで治りました。




 体力も回復し、職場にお礼と謝罪をかねて出向いた際に官吏さんの運命も知りました。


 私の職場の同僚にあの騒ぎを見ていた人が居たのです。




 官吏さんは騒ぎを聞きつけたどら息子の父親が差し向けた私兵にも堂々とした口上でどら息子の非を鳴らし、最後は取り調べに応じなければ逮捕するとまで言い切り、その目の前で逃走しようとするどら息子を殴りつけたそうです。


 私兵たちも官吏さんの迫力に怯み、またその正当な主張に無理を通せず、それでも泣き喚いて助けを求めるどら息子に困り果てて最後は父親であるルシーリウス卿を呼んだそうです。


 ルシーリウス卿は息子の非を認め、5日後に官吏さんの詰所へ息子を出頭させる事を約束してどら息子を引き取ったそうです。




 官吏さんも非を認め当人を出頭させるとまで言っている高官に、それ以上主張することも出来なかったのでしょう、どら息子を解放したのですが……


 その3日後に官吏さん……名前はハル・アキルシウスさんは北方辺境へと旅立たされてしまいました。


 密かに今回の騒ぎの顛末を楽しみにしていた帝都の市民達もがっかりしていました。


 市民は皆貴族の横暴には辟易していましたし、だらしない官吏にも愛想を尽かせていたのですけれども、ハルさん達の様な清廉な官吏もまだ居たのだと少し期待したのです。




 しかし現実は厳しいもの。




 ようやく現われた正義の味方は敢え無く貴族に敗れて左遷。


 本当に現実は厳しいのです。


そしてその厳しさは私の身にも降りかかってきました。












「プリミア……私兵っぽい人達があなたの事聞き回っているわ」


「え?」




 職場の上司からの言葉に驚く私に同僚も声を掛けてきます。




「私もあなたの事聞かれたの……この間の件じゃ無いかしら?気をつけてね……」


「実は私も……」




 職場の同僚達が相次いで口にした驚愕の事実。


 更には近所の人達からも貴族の私兵が私の事をかぎ回っていると知らされました。


 それに加えて知らない間に家の扉が開いていたり、大事な手紙が無くなっていたり、不審な状況は続いています。


 最近では姿を隠す事すらせず、あからさまに私やオルトゥスの後を付けたりもするようになって来ました。


 このままでは……


はっきり身の危険を感じた私は決心しました。


 ハルさんを追って北の地へと旅立った同僚さんから、万が一の事があれば北へ来てくれれば良い、頼って貰っても良いと言ってくれています。




 はっきり言いまして、今より他に帝都を脱出する機会は無いでしょう。


 最早なりふり構っていられませんし、こんな貴族の横暴がまかり通る帝都にもう未練はありません、私はハルさんのお世話になります!




「お姉ちゃん、その官吏さんの事好きなだけじゃないの?」


「そうじゃないわっ」




 ませた事を言う弟の頭をぽかりとやった私の顔は多分真っ赤。


 でも決意は揺らぎません。














帝都市民街区・アエノバルブス病院






「アエノバルブスさん、手紙です」


「おう」




 朝の体操を終えたアエノバルブスが汗を布で拭きつつ玄関先で休んでいると、西方郵便協会の職員がアエノバルブス宛の手紙を手にやって来た。


布で手に付いた汗を拭き取ってから手紙を受け取ると、その差出人名を見て方眉を上げる。




「……辺境護民官ハル・アキルシウス?」




 宛名を読み上げてみたアエノバルブスは手に持っていた布を首に掛け、しばらく顎に手を当てて考える。


 そして歪めていた口を丸く開けてぽんと手紙を持ったままの手を打った。




「おう、あの時の治安官吏が確かアキルシウスとか言う変わった名前だったわい」




うむうむと腕を組んで頷いたアエノバルブスは、家に入りながら手紙の封を切る。


 その内容を自分の部屋に向かいながら読み進めるアエノバルブスは、途中まで呼んだところでおもしろがるような表情になった。


 そこには自分のした事でアエノバルブスを巻き込んで申し訳なかったという詫びの言葉と、北の辺境へ左遷された事が綴られている。


 改めて封書を見ると、手紙が出されたのはコロニア・リーメシアである事を示す印判が押されていた。




「ほほう、なるほどなあ……まあそうだな」




 アエノバルブスがすいっと手紙を持ったまま自分の病院の外へと視線を向けると、不穏な空気を纏った数人の男達が目に入る。


 騎馬に撥ねられた宿屋の娘を治療している時からちらほら見かけるようになったが、最近は監視している事を隠そうともしないので非常に不快だ。


 アエノバルブスとしては医業に従事する者として当然力を尽くしたまでの事だが、貴族達にはそうは受け取られなかったらしい。


 おそらく自分達の意向に逆らった不埒な医者と言った所か、全く不毛な事である。




「ふむ……」




 今現在は病院に患者が多く訪れるているために手出しまではしてこないようだが、今後は分からない。


 家族は居ないが弟子は多数取っているアエノバルブス。


 折角自分を慕って集まってきた者達に危害が及ぶのはどう有っても避けたい。


 街中で最近活躍しているという群島嶼出身の治安官吏から、度々犯罪や事故の被害者を診るように依頼されている内に懇意にしていたが、自分でも気付かないうちに彼の正儀に深入りしてしまったようである。


 それでも自分が迷惑をかけられたとは思っていないアエノバルブスは、改めて手紙に目を落とすと、小さな笑みを浮かべた。




「迷惑などかけられておらんぞ……最近珍しい正義感の強い官吏だと感心しておったが、やはり上手くは行かぬ物だの。わしの身辺も騒がしいし……行ってみるか北へ」




 そして外をもう一度見ると不穏な空気を纏った者が増えている。


 方針は決まった、後は手段だけである。




「さて、どうしたものかな……」




 アエノバルブスは外に向けていた視線を外し、ふと立ち止まると手にしていた手紙を大事にしまい込むと、ふむと息をつくと密やかに準備を始めた。


 普段通りの生活をこなしながら荷造りを行うアエノバルブス。


 普段通り食事をし診察し、業務を終える。




 最後に一番弟子へ後事を託す手紙を診察室の机に残し、アエノバルブスは散歩に出かける風を装って荷物を知り合いの駅逓馬車の御者に預けに向った。


 不審者達も流石に散歩にまでは付いてこないのだ。


 帝都商業街区の外れにある駅に到着すると、アエノバルブスは直ぐに目当ての御者を探し出して声を掛けた。




「ちょっと頼まれてくれるかね?」


「あ、先生!何でしょう!何でも言って下さいやしっ」




 その御者に荷物を預けて金貨を手渡し、アエノバルブスは密やかな声で言う。




「後でまた来るが、北方関所まで行って貰いたい……事情は道行き説明するから、すまんがしばらく荷物は預かっておいてくれい」


「……承知いたしやした、先生には息子を助けて貰った恩がありやすからね。何でも言って下せえっ」




 アエノバルブスの荷物を受け取った御者は、目立たない最後尾にそれを積み込むと力こぶを作って応じた。


 この駅逓馬車の御者は熱病で死にかけていた息子をアエノバルブスに救われて依頼の協力者である。


 秘密が漏れる事はまず無い。


 その後何食わぬ顔で病院へ戻ったアエノバルブスは、午後の診察を終えてから大きく息をつき、徐に弟子達へ告げた。




「……お前らの腕ならもう大丈夫だ、今までよく頑張ったな。ワシがいなくなっても頑張れよ」


「え……何を言っているんですか先生?」


「ははは、まあそう言うことだわい。じゃあワシは風呂に行ってくるぞ」


「えっ……は、はい?」




 最初の言葉と、その後の普段通りの言葉の差異に戸惑いを隠しきれない弟子達を笑い飛ばすと、風呂桶と着替えの入った袋を掛けた外へ出るアエノバルブス。


 その正面に不審者達がいる。




「おう、お勤め御苦労だな皆の者!一緒に風呂にでも行かんか?風呂こそは最高の衛生習慣だぞっ」


「……ふん」


「……なんだ……」




 アエノバルブスが朗らかに声を掛けると、不審者達は鼻を鳴らして立ち去った。




「まだまだあまいのう……」




 完全に彼らが立ち去るのを見届け、アエノバルブスは足早に公衆浴場のある方向へと向かう。


 しかし公衆浴場には入らず、そのまま前を素通りすると御者の待つ駅逓馬車の発着場へと向かった。




「先生、お待ちしておりやしたっ」


「おう、頼んだ……コロニア・リーメシアまでだったな?」


「へい、途中で乗り継いで戴きやすが心配いりませんぜ、あっしの知り合いの気の良い奴ばかりです」


「ふむ、助かる……では行こうか」


「合点でさ!」


















西方帝国新領属州クハリ・秋留村(旧群島嶼連合秋都氏領・秋留村)






 秋留村は夏の農繁期を迎えていた。




 1年に2回稲の収穫がある群島嶼は、現在大陸より一足早い収穫期のまっただ中。


 黄色く熟れ実った水稲で田は覆われており、人々は忙しく収穫作業を行っている。


 ク州でも比較的平地の多いアキル村は、アキル山の麓からクハリ川まで一面に田が広がるク州の中でも屈指の穀倉地帯。


 今年は天候も良く、例年以上の収穫が見込まれそうである。


 人々は朝早く日が昇る直前から夜遅く日が沈むまでを米の収穫に費やす。


 戦乱で痛んだ土地は5年の歳月でようやく元通りになる兆しを見せ、暗かった人々の目にも明るさが徐々に戻ってきていた。


 


 




 収穫も一段落が付き、秋留家では使用人や親族一同全員が屋敷内の温泉で汗と泥を落とした後、屋敷の大広間で収穫したばかりの米を炊き出して小宴を催していた。


 収穫した米の大半は籾のまま貯蔵倉に入れたが、明日からは米酒、米酢の仕込みに保存餅づくりでまた忙しくなる。


 全員が大いに米を食べ、肴をつまんで昨年仕込んだ米酒に舌鼓を打つ。


 その内芸達者な者達が三味線や木笛の演奏を始め、何時しか小宴は本格的な宴会へと変わっていった。




 帝国に敗れて早5年、かつて誇り高き戦士や剣士を多数有し、比較的穏健な民族の多いセトリア諸国では異色の武断国家群として知られた群島嶼連合。


 近隣諸国家との抗争により纏まった群島嶼は戦術を編み、兵を練り込んでその後の帝国との紛争にも耐え抜いてきた。


 かつての誇り高き独立は破られ、今や戦士と剣士は居場所を失ってしまった。


 剣士たちの内、ある者は武の誇りを持って帝国に雇われる道を選び、またある者は誇りを胸に秘めて荒れた土地を耕す道を選んだ。


 独立を喪わしめ支配者となった帝国はしかし、それぞれが納得する道を選ぶ自由を与えたのである。


 そして群島嶼のヤマト人たちはその寛大な措置を疑いながらも受け入れることで、帝国の支配下において平和を享受し始めていた。


 


 独立を喪った。


 誇りを失った。


 家族も失った。


 しかし、今は平和がある。




 ほとんどの群島嶼人は身内や友人を戦災で亡くしているが、元々武を尊ぶ風習から死に対する忌避感が薄いことも相まって、この5年間で人々はそう前向きに思えるまでになっていた。


 そしてハルの故郷である群島嶼南部8州は、戦争による荒廃が比較的軽く済んだ事もあり、土地と人心の復興をいち早く成し遂げつつあったのである。










 秋留源継屋敷、中庭側の濡れ縁






 宴会が行われている大広間から少し離れた濡縁に、美しく若い女が腰掛けてぼんやりと夜空を眺めている。


 涼やかな切れ長の目は長いまつげに縁取られ、すっきり通った鼻筋や細い頤と相まって、ややもするときつい印象を受けるが瞳の色は優しい。


 他の女衆と違い、長い黒髪は群島嶼の男衆がするように後方で結われているが、凛々しさと清楚さが上手く融合し彼女の雰囲気に良く合っている。


 服装もヤマトの剣士が身に着けるような袴に着物で、これも他の女衆が身に着けている足下までの着物とはかなり異なるものの着こなしに違和感はない。




 その若い女は夜空に浮かぶ月を眺めたまま、寂しさを滲ませた声色でぽつりとつぶやいた。




「ハル兄どうしてるのかな?元気にやってるのかなあ……」




 そして視線を下ろし、所在なさげに足を縁側から庭に向かって投げ出してぶらぶらと前後に揺らす。


 庭にはこじんまりとした池が設けられており、時折飼われている魚が飛び跳ね、ぽちゃりという水音と共に波紋が水面に広がる。




「ボクのこと家来にしてくれるって約束、覚えてるかなあ……」




 若い女はしばらく波紋で揺らめく池の水面をぼんやりと眺めていたが、池のふちに当たって跳ね返ってきた波紋が池の中心で被さり、月明かりが乱反射した際に考えていた従兄の顔が映ったように思い、少し驚く。




「えっ?ハル兄?」




 しかしすぐに波紋は散り、池の水面は平穏を取り戻す。


 自分が発した驚きの言葉に対し自嘲気味な微笑みを浮かべると、彼女はぱっと濡縁から軽やかな身のこなしで立ち上がって空を仰いだ。




「よっし、しっかりしなきゃ!」




 そこへ大広間と別の方向から老爺の声が掛かった。 




「お~い楓、晴義から便りが来とるぞ!」


「えっ、ハル兄から?分かった、すぐ行くっ」




 若い女、秋瑠楓は、老爺の声に素早く反応して濡れ縁を軽やかに駆け渡り、老爺の居る鑓水で仕切られた離れの建物へ黒髪を翻してぽんと飛び移った。




「これっ、行儀の悪い!従兄からの文は逃げたりせん。きちんと橋廊下を渡ってこんか!」


「ごめん源爺!でもハル兄の手紙早く見たいよっ」




 息せき切って部屋へ駆け込んできた自分を見て顔をしかめる大叔父の秋瑠源継に、楓がぺろっと舌を出して誤ると、とたんに源継は相好を崩す。




「むむ、まあよい……許そう、しかし次からは気を付けい。いくら心待ちにしておった晴義からの文が届いたとはいえ、そちは秋瑠家の姫君なのだからな、所作に気を付けよ」


「うん、分かった……それで、ハル兄からの手紙は?どこ?」




 あまり悪びれていない楓の様子に苦笑しながらも源継は可愛くて仕方ない甥孫をそれ以上叱る事もせず、帝国風に縦巻に封緘された手紙を楓に差し出した。




「わあ~帝国風だ~すっご~い」




 楓は受け取った手紙を興味深げに眺め回すと、左右の封蝋を外して中身を取り出した。


 しばらく時間をかけてハルからの手紙を読み下す楓は、一度顔を上げ怪訝そうに源継を見ると再び手紙を読み直す。




「よく分かんないんだけど……左遷って、駄目だよね?」


「お?晴義めは、左遷されたのか?」


「うん、そうみたいなんだけどさあ……領地貰ったっぽいよ?」


「ん?……それは左遷なのか?」




 楓と言葉を交わした源継も楓と同じような顔で首をかしげる。




「領地を貰って左遷とは些か考え難いのう……今まで晴義は衛士であって領地持ちでは無かったのじゃろう?」


「うん、帝国の都で皇帝陛下の衛士やってるって、言ってたよ」


「ううむ、奇怪なことじゃ……」




 郡島嶼では官吏という者が存在しない為に生じた誤解である。


 群島嶼では地士や土豪から推薦された若者がまず、大氏の衛士として領地を持たない兵士や文官として出仕する。


 その後戦功を挙げたり顕著な功績を挙げた者だけが、領地を貰って新たな地士や土豪となるのである。


 そのまま衛士としてしばらく勤めた後に自分の故郷へ戻って地士や土豪の後継者となる者も少なくは無いし、そうでない者も衛士としてのみ勤め上げ、退職金を貰って故郷で引退生活を送る程度であり、領地持ちの地士や土豪に取り立てられる事は非常に稀な事であった。




 また郡島嶼において土地は個人所有が基本であり、帝国における総督や貴族の支配権や官吏の統治権について理解できないための誤解でもある。


 それ故に辺境護民官として統治権を持って赴任したハルは、帝国では左遷の措置であっても、群島嶼では領地を与えられた大出世にしか思えないため、手紙の内容に楓と源継は混乱したのであった。




「晴義は帝国の衛士として勤めていたのじゃから何らかの手柄を立てたのではないか?そのへんどうじゃ?」


「ハル兄、帝国の貴族と諍いを起こして左遷?されて殖領を与えられたみたい」




 殖領とは新たに開拓される領地の事である。


 一般的に領地を与えられる場合でも、何も無いところから開拓を始めなければならない土地であるため格下の褒美とされる。




「ふうむ諍いを起こしたとな……なら左遷の理由は分かるが、それで殖領か?それでも帝国で領地持ちじゃろ?領地を与えると言うのは出世ではないのかのう?なぜ左遷なんじゃ?」




 楓と源継は2人でハルからの手紙を挟んで腑に落ちない顔をしている。


 楓はしばらく悩んでいたが、結論は出そうに無い。




「まあ、左遷は左遷で構わん、ひとまず領地持ちになったと言う事は分かったのじゃからそれでよしとしようぞ?」


「う~ん、まあいっか……元気にやってるみたいだし……」




 源継の言葉に一応納得した楓。


 それから手紙に書かれていたもう一つのことを尋ねた。




「それから領地が遠くて仕送りが当分出来ないから、まとめて金を送るってかいてあるよ?届いたの?」


「おお、それなら届いておる。かなりの額じゃが……お蔭さまで、もう今年から晴義の給金に頼らずとも暮らせそうなんじゃがな」




 源継はハルから送られてきた、帝国金貨の詰まった奥の木箱を振り返って見てそう言う。


 この5年間はハルが送金していた給金で一族が何とか食い繋いでいる状態であったが、今年は雨期も日照も申し分なく、地力が完全に回復していないとはいえ米の作柄も蓄えが可能になるくらいまでにはなった。




「えっ、本当?」




 楓がうれしそうに返す。


 と言うのも、ハルが帝都へ出仕したのは戦災で荒れた農地が元に戻るまでの当分の間と言う話であったためである。


 優しく強いヤマトの剣士であり、秋留一門の当主である従兄が故郷に帰ってきた段階で楓はひとつの計画を立てていた。


 彼の補佐役たる一門衆筆頭家来の地位である。


 正直すぎて少し抜けた所のある従兄は、自分がしっかり補佐してやらなければならないのだが、年の近い自分の方が何かと相談もし易いだろう。




 まあ本当のところはそれ以上の計画もあるのだが、それはまだ誰にも言っていない。




 そしてその表の計画を知っている源継は口角をゆがめながら言葉を継いだ。




「うむ、それ故に晴義をそろそろ呼び戻そうと思っておったんじゃがのう……このような手紙を送ってよこすとは、すぐには戻せんか、残念じゃが……」


「ええ~何で~?」




 源継の言葉にがっかりした様子を隠そうともせず楓が脱力する。




「当然じゃ、領地持ちになったからには責任があろう?」


「でもっ」


「もう晴義は帝国に出仕した身じゃ、ましてや理由はどうあれ賜った領地を捨てることなぞできぬだろう?そこらは汲んでやれ」


「うう~ん……納得いかない~」




 源継の説得や説明に頬を膨らませてなかなか納得した様子を見せない楓に、源継はため息をつくと楓に対する切り札を切った。




「……主君を待つのも一門衆の勤めぞ、それでは良き剣士になどなれん。晴義にお主の仕官の話はできぬぞ?」


「い、嫌だよっ、ボクはハ、ハル兄の家来にっ!!」




 そしてあわよくば……である。


 慌てて縋る様な顔で源継に言いたてる楓。


 かわいい甥孫をいじめているような気持ちになってしまった源継であったが、ここでわがままを押さえておかねばと、心を鬼にして説得をする。




「であれば我慢せよ。見ず知らずの地である帝国を縦断し、何もない殖領で奮闘する晴義の元へ行くのは不可能じゃし、第一足手まといになるだけであろう。であるからして一段落するまではここで自重し、修身しつつ良き家臣たる者の心得をであるな……」




 源継が楓を説得するべく言葉を尽くしてハルの道行が大変なものである事を説明し、故郷で待ち続ける事こそが最良の道であることを説いている。


 楓は神妙な面持ちで下を向いて何事かを考えているようで、源継の言葉に反応を示さないが、源継はそれを理解していると受け取って言葉を続けた。




「……というわけじゃ、分かったかの?」


「……ボク、ハル兄の所へ行くっ!」




 しかしそんな源継の言葉を遮って楓は力強く宣言するように言うと、さっと立ち上がる。


 そしてすぐに準備するからと言い置いて自分の部屋へ向かおうとする楓。




「なあっ!?ま、待てい、待たぬか!む、無理じゃと今話していた所であろうが!そもそも殖領とは何もないからこそ殖領なんじゃっ!まともな生活なぞ全く持って期待できんぞっ」


「駄目、行く、手紙の内容も気になるし、ボクもう待ってらんないしっ!ハル兄はあれで意外と人気者だけど騙されちゃうかもしんないし、変な女に引っ掛かってるかもしんないしっ!」




 慌てて引き止める源継に楓はきっぱりとした表情で言い放つ。




「……あの朴念仁にそんな甲斐性は無いと思うがのう……っと、だあっ、待たんか!」


「決めた!ハル兄の所へ行くっ!行って仕官して家来にして貰ってハル兄と暮らすっ」


「ああ、薮蛇じゃったわい……この源継ともあろう者が失言とはっ……ううむ」




 自分の部屋から飛び出して行こうとする楓の腕をかろうじて掴み止め、源継は情けない顔でこぼした。


 一旦楓を落ち着かせて源継は再度の説得を試みたが、楓は聞く耳を持たない。


 ついには出発の準備や引き連れてゆく人間の選定に関わらされてしまう。




「源爺。後はお願い。ボクは蔭者を10人ばかり連れていくから良いでしょ?」


「うぬぬっ、わしが共を出来れば良いのじゃが、わしがおらねば秋留領を差配できるものがおらぬし……仕方ない、くれぐれも気を付けよ。あと出発はせめて十分準備してからにするのじゃ」


「大丈夫だよ、これでもハル兄に仕えようと剣術は源爺に習ったんだから。ボクだってそれなりに剣術は使えるんだからねっ」




 あきらめた源継が言うと、楓は明るく返事をする。




「ううむ……腕前を見込んで鍛えすぎたのが今は悔やまれるわ」




 事実、楓の剣術はヤマトの剣士であり、ハルの師匠でもあるヤマト剣士総帥の源継が鍛え込んでおり、また陰者の使う陰行術でも並ぶ者が無いくらいである。




「源爺、ハル兄に何か言付けない?」




 楓の言葉に源継はすっと立ち上がると、戸棚から皮袋を取り出して楓に手渡した。




「……ではこれを預けて置こう、晴義にきっと渡せよ。」


「分かった、源爺ありがとう!」




 袋の中身を手触りから察した楓は、そう言うと源継に抱きついた。




「お、おおっ?」




 子供とばかり思っていた楓の、思いがけない女体の感触に驚く源継。


 楓はしばらく抱きついてから満足そうに源継の身体を離すと、今度は橋廊下をきっちり渡り、見送る源継に手を振りながら自分の部屋へと戻っていった。




「帝国に食い込んでおけば間違いはあるまいが……若者が故郷を離れてしまうのは寂しいのう……」




 楓が去ったあと、源継はつぶやく。


 地士という階級が失われてしまい、平民へと転落させられたという負の感情が強い群島嶼の地士や土豪階級の老人たちに漏れず、源継も帝国に良い感情は持っていない。


 しかしながら社会階級的には下がったものの税を支払う先が帝国へと一元化され、相対的に税は減った。




 荒れた農地が復興しさえすれば経済的に潤うことは間違いない。


 また、降伏したとは言え元の敵を雇用する度量の広い帝国であれば、御家再興も叶うかもしれないと、当主の晴義が帝国官吏に採用されるのを止めず、むしろ反対意見を抑えもした。


 今回、左遷されながらも領地を拝領した晴義は期待するに十分な才能を持っている。


 そして分家筋であるが、楓を嫁にしておけば一族の結束も固くなり、元主家の秋都家からの介入も防げよう。


 子孫の栄達を喜び、より大きな帝国での成功を喜ぶ気持ちはあるが、しかしそれでも寂れていく故郷を見るのは忍びないし、子供同然の者が離れていく寂しさは変わらない。




「晴義め、可愛い楓をたぶらかしおって……くっ」




 悔しそうにうめいてから源継は月と庭を少し眺めて心を落ち着けると、とぼとぼと部屋へ戻るのだった。














 西方帝国帝都、第18街区治安官詰所・所長室






 帝都治安省第18街区詰所はただならぬ気配に包まれていた。


 所属する治安官吏達が所長室に詰めかけている。




「所長!処分なしとはどういうことですか?」




 治安官吏のルキウス・アエティウスは、立派な机にふんぞり返って座っている肥満体の中年男、この18街区詰所を預かる中年所長に詰め寄る。


 ルキウスの後ろには意を同じくする18街区詰所の治安官吏たちが続いていた。




「どうもこうも無いぞルキウス。ハルが行った取締りは違法で無効であるという事だ。だからルシーリウス卿のご子息については処分もしないし呼び出しもしない。ルキウス!そんな所でご託を並べているなら、ルシーリウス卿の屋敷へ預かっていた馬を全部返してきてくれ」


「何を言っているんですか?ハルは取締りに際しては最大限以上に法を遵守していましたよ。警告は2度、3度に渡って行っていましたからね!それに馬は預かったのではなく、没収したのですから返す必要などありません!」




 ばんっと所長の机を強く叩くルキウスに、最初は尊大な態度だった所長は、周囲の治安官吏達の怒気もあって若干気圧され気味に身体を後ろへ退く。




「……そ、そう言っても、仕方ないだろう?」




 弱弱しく返答する所長に、ルキウスは激昂して強く問いただす。




「何がです?何が仕方ないって言うんですかっ!!」


「ル、ルシーリウス卿から私宛に正式に書面で抗議とハル・アキルシウスの違法行為に対する訴えが為されているのだ。これを是正しなければ……」




 呆れ返るルキウスと治安官吏たち。


 この所長はいったい何を言っているのだと言う風情で所長を見ると、ルキウスは再度声を張り上げた。




「そんな無茶苦茶な申し入れ、抗議とは言いません。言いがかりでしょうっ!!是正する必要なんか無いじゃ無いですか!」


「そ、そうは言っても相手はあのルシーリウス卿だぞ?」




 ルキウスの剣幕に恐れを抱きながらも反論する所長。


 ルキウスはその言葉に呆れて首を左右に振りながらも、話を続けなければならないという義務感から所長に先を促す。




「それで?なんと返答したのですか!?」


「うっ……ルシーリウス卿はハルの取締りを無かった事にしてくれれば暴行について訴える事はしないと……そう言っている」


「犯罪を犯した相手に対する制圧行為で暴行?所長!あなた正気ですか!?」




 所長がぶちぶちと愚痴めいた言い訳を聞き、ルキウスが言葉を語気鋭く被せると、今度は所長が逆上した。




「ええい、うるさいぃ!!決めたのだ、ここの所長である私が取り締まりが無効と決めたんだから正しいのだ!ハルの取締りは無かったんだ!!」




 ルキウスの正論を聞いた所長はそれ以上真っ当な反論が出来ないと追い詰められたのだろう。


 途端に権限を振りかざし、駄々をこねる子供のようにみっともなくわめき散らした。


 しかしルキウスは怯まない。




「馬鹿な事をっ!被害者はどうなるんですかっ?ハルは何のために左遷されたんですか?貴族を取り締まる代償として、ハルは!!」




 ハルは貴族を取り締まる代償として左遷された。


 当初の説明はそうであった。


 詰所に配属されていた騎馬を1頭、この所長の取り計らいでハルに融通もした。


 しかしそれは良い意味での取り計らいでは無かったのだ。


 ハルがこのまま帝都で勤務し続けてもあの有力貴族であるルシーリウス卿に逆らって無事ですむ訳が無く、それならばいっそ左遷であろうとも遠い地でほとぼりを冷ますのも悪い事ではないと思った。




 だからこそルキウス達同僚の治安官吏達はその時点で反対しなかったのだ。


 貴族の非違行為を取り締まるたびに官吏を左遷させるような馬鹿な話は無いと思ったが、そもそも取り締まり自体を成立させてしまえばこっちのものである。




 貴族であろうが法令の前では平等。




 その建て前が崩れて久しい昨今、それでも取締りを受ける可能性があるとなれば、帝都で貴族も我が侭放題には振舞えなくなる。


 その結果貴族の横暴が減り、少しでも帝都の市民が安寧に過ごせればと思ってしぶしぶハルの左遷を受け入れたのであったが、今やその前提が崩れつつある。


 いや、とっくに崩れていたのだ。


 とうの昔に自分たちが敗北していた事を今更ながら思い知ったルキウスたちが黙り込んだのを、好機と見たのか中年所長が醜く顔を歪め、どもりながらも言い募る。




「わ、わしは何も知らん!あいつが余計な事をしたから、私がこんな抗議を受ける羽目になったんだ。被害者?被害者はただの市民だろう?何の力があるって言うんだ!被害者も貴族というのなら兎も角、貴族に逆らって何の力も無い市民を庇うなんてハルもお前達もどうかしてる!」


「ああ?何言ってんだあんた!?」




 所長の言葉に怒り狂ったルキウスが地を出して即座に怒鳴り返す。




「馬鹿言ってんじゃねえ!!帝都市民を守らずして何の帝都治安官吏なんだこの野郎っ!ふざけんなてめえぶっ殺してやる!!」


「ひいっ!?」




 周囲の官吏達が止めるまでも無く、ルキウスの鉄拳が中年所長の恐怖で歪んだ顔面の中央にめり込んだ。




「ぶへえっ!!?」




 鼻血と折れた白い歯をまき散らしながら中年所長が大きめの椅子ごと後ろへひっくり返る。


 派手な音と所長の悲鳴が部屋に響くがそれ以外は音一つ無い所長室。


 周囲の治安官吏達も呆気に取られる中、うめき声を上げながら涙目の所長が倒れた椅子に縋って立ち上がる。


 そして震える人差し指をルキウスに突き付けた。




「お、お前……ルキウスお前上司に手を上げたな?」


「はあ?上げたがどうしたこのくそ野郎っ、もう一発いくか?ああ?」


「ひっ!?そ、そんな事をしてっ……!お前はもう終わりだっ、クビだっ!!」


「ああ、上等だ!辞めてやるぜ!!」




 悲鳴じみた所長の叫び声に、ルキウスは怒鳴り返す。


 そして治安官吏を示す青色の制服を脱ぎ捨てて所長へ叩き付けた。


 しかし所長は自分の鼻血で汚れたその制服をもたもた取り除き、にやりといやらしく笑う。




「くくく、そうか……いいぞ受理してやる。これでもう俺を悩ますやつはいない。これでおれはルシーリウス様に顔向けできるっ……」


「て、てめえ……!」




 これではっきりした、所長はルシーリウスのどら息子をかばっている。


 全く話にならないと言う以前に、恐らくルシーリウス卿から硬軟両面から懐柔されてしまっているのだろう。 


 自分たちはハルの左遷を阻止すべきだったのだ。


 本当はこうなる事がうすうす分かっていた。


 しかし群島嶼という蕃地出身とはいえ、ハルのような胆力を持った官吏は他におらず、ハルさえ居なくなれば自分たちに累が及ぶ事は無いと考えてしまった事も事実。




 そんな甘い幻想は木っ端微塵に打ち砕かれた。


 ハルの左遷は事件から3日後に決まり、北方辺境へ出発したのは事件から5日後の早朝。


 同じ日にルシーリウスのどら息子が出頭の予定であったが、奴はこれをすっぽかし、ルキウスが出した出頭督促書は受け取りすらされず返信されてきた。


 そして事件から既に10日が過ぎ、取り調べや連行もできないまま今の事態を迎えたのである。


 何時まで経っても事件が進展しないので、ルキウスが所長に今後の方針を質問しようとしたところ、所長は暴走行為と傷害の罪については処分をしないと言い出し、挙げ句の果ては貴族に阿っている事が判明したのであった。




 それでも治安官吏達はわずかな望みに掛ける。


 所長も治安官吏、正義心が全くない訳では無いだろう。




「こんな無法が帝都でまかり通って良いんですか?所長!」


「帝国法は貴族平民を問わず服する法ではないのですか?」


「あんな公衆の面前で犯罪を起こしておいて取り締まれないとなると、これから取り締まり自体が出来なくなりますよ!」




 集まった治安官吏達が、ルキウスを引き留めつつ口々に所長に言葉を浴びせかける。


 しかし所長は耳を両手でふさぎ、首を左右に振って叫ぶ。




「わしは知らん、関係ない!とにかくこの件は終わりだっ!!ルキウスはクビだ!!」












 帝都商業街区、ロット家






「という訳だ、申し訳ない」




 見舞いと挨拶がてらにロット家を訪れたルキウスは、事の顛末を説明した上で詫びた。




「いえ、仕方ありません、貴族に逆らえない事は私も分かっていましたから……」




 馬に撥ねられた女性、プリミア・ロットが、弟のオルトゥスの頭を撫でながら答える。


 その光景を見てルキウスは心を和ませつつ口を開いた。




「ハルからも言伝と見舞いを預かってきた」


「あ、あの時の官吏さんですね……左遷されてしまったと聞きました。私の為に申し訳ありません」




 ルキウスの言葉にプリミアはわずかに頷くと手紙と見舞いを大切そうに受け取った。


 見舞いはハルが出した分に18詰所の官吏達から少しずつ足して金貨1枚にしてある。




「色々よくして頂いて、ありがとうございます」


「いや……礼は……」




 プリミアの礼に言葉を濁すルキウス。


 罪滅ぼしと言うにはあまりにもささやかな品。


 しかし思いやりが詰まったハルの手紙と1枚の金貨にプリミアは微笑んでくれた。


 久しく忘れていた暖かい気持ちに、何とかしてやりたいと言う気持ちが自然にわく。




 しかし手立ては失われてしまった。


 自分はクビになり、ハルは左遷されてしまった。


 はたしてこれで彼女を守ったと言う事になるのだろうか?


 そしてルキウスは左遷された友人の言葉を思い出した。




「あいつ……ハルって言うんだが、あいつが左遷された先に行こうと思っている」


「え?」




 驚くプリミアに、ルキウスは言葉を継いだ。




「うん、そうするかぁ……ちなみにあいつが行ったのは北方辺境だ。北の廃棄都市へ左遷されたみたいだ」


「そうですか……分かりました」




 ルキウスの言葉にプリミアは何かを感じ取ったようだ。


 それまで儚げだった雰囲気が少し変わり、意志が瞳に宿る。


 それを確認したルキウスはにっと笑って言った。




「まあ、そう言うことだから……助けが必要ならいつでも言ってくれ」


「はい、ありがとうございます」


 


 




 ロット家でしばし弟を含めて歓談した後に、ルキウスは詰所へ戻った。


 既に荷物整理は終わっているので、後はその荷物を運び出すだけだ。


 同僚達と軽く挨拶を交わし、荷物を積んだ瑠場所へ向かったルキウスの前に、顔中に包帯を巻いた所長が立ちふさがる。


 その横には見知らぬ男がおり、所長はその男に楽しげな様子で話しかける。




「こいつがハルという蛮族の友達のルキウスというどうしようも無い奴です。もうクビにしましたがね」


「ほう?」


「なんだあ?」




 目を細める男に、訝るルキウスが声を出すと、勝ち誇ったように所長が言葉を発する。




「こちらはルシーリウス家の執事長であらせられる、グラティアヌス殿だ」




 ルキウスが呆けた返事を返すと、所長は傍らに立つ豪快そうな男に目をやり、自慢げにルキウスへと紹介するが、ルキウスは何のことやら分からずに怪訝な表情を返すばかり。


 その様子を見ていたグラティアヌスがふっと笑みを浮かべるが、所長は気付かずに騒ぎ立てる。




「それよりクビのお前がこんな所で何をしている?さっさと出て行け!!」


「荷物取りに来ただけだぞおれは……出て行くに決まってるだろ。お前がわざわざ紹介なんかするから遅くなったんだろ、馬鹿か?」




 嘲るように返答したルキウスに所長は顔を真っ赤にして1枚の紙を突き付けた。




「むぐぐ……うるさい、これが辞令だ!皇帝陛下の承認も得てある、お前は首だ!出て行け!!」


「あん?だから出て行くって言ったろ、馬鹿かお前……何回言わすんだ?」




 更に怒り狂う所長を余所に、グラティアヌスは苦笑を漏らしている。


 ルキウスが周囲を見回すと、申し訳なさそうに見つめる同僚が何人か居るだけで他の者たちはルキウスと目を合わそうともしない。




「そうだなあ……」




 ルキウスはそう言うと、次の瞬間には怒りの表情で辞令を突き出している所長の顔へ固めた拳をぶち込んだ。


 涙と鼻水を飛ばしながら倒れる所長を見て驚いているグラティアヌスを睨み付け、ルキウスは辞令とともに用意されていた退職金の入った木箱を奪う。


 そしてひっくり返っている所長のポケットや机から、金貨や銀貨をかき集めて自分の退職金の入った木箱へぶち込んだ。




「ふん、こんな職場に未練は無いぜ!」




 ルキウスはとどめに自分の机を蹴り返し、所長の上に押しかぶせて啖呵を切って詰所を後にした。












「さあて、どうするかな……」




 生まれも育ちも帝都の下町であるルキウスに寄る辺は無い。


 親は早くに死んでいないし、面倒を見てくれたおば夫婦も既に鬼籍に入っている。


 兄弟は妹が2人居るが、2人とも田舎へ嫁いで今は子持ちのお母さん。


 後は……北の辺境に気の置けない友人が1人。


 方針はもう決まっている。




「しょうがない、ハルのところへ友達甲斐に行ってやるかあ」




 群島嶼から来た元同僚の顔を思い浮かべ、ルキウスはわざとらしく独り言を言う。


 あいつは面白い。


 結果は兎も角正義感が強く、貴族だろうが上司だろうが曲がった事は正そうと動いた。


 下町の悪餓鬼時代ならいざ知らず、大人になってからこんな面白い事が出来るとは思わなかった、だからあいつの所へ行けばもっと面白いのは間違いない。




 辺境護民官ともなれば私兵の1人位雇えるだろう。




「よし、行くか」




 自然とほころぶ口元を隠そうともせず、ルキウスは拳を空に突き上げて帝都の街路を軽やかに歩き去った。

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