第11話

 短期間のうちに僕らは目まぐるしく思い出を作った。

 遊園地へ行き、水族館へ足を運び、サッカー観戦をし、海岸から夕陽を眺めた。香澄としたいことを詰め込んで、それらを片っ端から遂げていく。


 僕の見たいのは香澄の笑顔、聞きたいのは香澄の笑い声、それ以外は考えない。香澄が楽しめば僕も楽しい。それにつれて香澄を愛しく想う。

 それだけ。僕の出来ることはそれだけなのだ。



 そうして思い出を重ね、二人の時間を楽しみ、幸せな時間を過ごしていった。






 そして香澄はついに淡い光のように、体のシルエットがかろうじて見えるほどに透明になっていた。


「つらくないか?」


 僕は部屋の中で香澄に尋ねた。


「大丈夫。痛みも何もないから」


 香澄はそうおどけて笑った。表情ももはやうっすら見える程度だ。声も遠のいて聞こえる。


「和孝」


 香澄の細い声が僕を呼ぶ。


「何?」

「もうそろそろだと思う」


 僕はその言葉に目の前が暗くなる。


「もうあと、1、2パーセントくらいかな」


 香澄は自分の体感を伝えた。


「たった、それだけ……?」


 僕は震える声で吐き捨てた。


「うん。もうすぐ満杯だよ」


 香澄は優しく微笑んだ。


「ありがとう、和孝」


 なんだよ、そんなセリフ。


「わたし、本当に幸せだよ」


 やめろよ、そんなセリフ。


「好きだった相手とこうして一緒にいられて」


 話をまとめるなよ。


「その相手にこんなに想われて」


 勝手にまとめるな。


「わたしはもう何も……」

「まだあるだろ!」


 僕は香澄の言葉を書き消して叫んだ。


「まだやり残したことがあるだろ!」


 香澄は驚きながら目を丸くしていた。


「な、なに、やり残したことって」


 僕はおもむろに香澄に近づいた。


「ち、ちょっと……」


 香澄は戸惑っていた。僕は構わずに顔を近づけてゆく。


「な、なに?」


 僕はシャツを脱ぎ、上半身裸になった。立ちすくむ香澄の頬の輪郭を手でなぞった。


「香澄……」


 香澄は体をビクッと震わせた。


 香澄は目を忙しなく動かしながら、ゆっくりと僕を見つめる。二人は顔を互いに見合う。


 僕は香澄の肩に手を添えた。きっとそう、それは思い違いなんだろうけれど、香澄の鼓動の早さが手に伝わるような気がした。


 僕は体を寄せて、香澄を包み込むように手を広げた。至近距離の香澄の顔。もううっすらとしか見えない香澄の表情。


「香澄……」


 僕は香澄に囁いた。伝わりそうな温もり。掴めそうな感触。

 香澄は僕に包まれて、そして香澄も僕を包み込むように両手を僕の体に被せた。


 しかし、すり抜ける手。掴めない体。


 それを実感した。痛いほどに実感した。

 香澄はそう、それを切々と実感した。


 香澄は僕の体に手を覆い、腕や、胸や、首筋を撫でるように動かした。それでも感触を持たない自らの手。香澄はその手を震わせて、堪えきれずに顔をくしゃくしゃに崩した。


「触れたい……」


 香澄は声を震わせた。


「触れたい、触れたい、触れたい!」


 香澄は喉を鳴らしながら叫んだ。


「和孝に触れたい!」


 香澄はそう言って泣き出した。




 思い出はたくさん出来た。たくさん言葉を交わした。けれど僕らは触れたことがない。ただの一度も触れたことがないのだ。


 僕は香澄をぎゅっと抱きしめた。


「感じるよ……」


 僕は香澄を力強く抱きしめた。


「香澄の温もり、感じる」


 香澄は僕の胸で肩を震わせていた。


「香澄……」


 僕は香澄に顔を寄せた。香澄は顔をくしゃくしゃにしながら僕を見つめた。


「香澄も感じて」


 僕は香澄の口元に唇を寄せた。香澄は嗚咽を漏らしながら僕の唇を見つめた。そして目を閉じて香澄も僕に唇を寄せた。互いの唇が触れ合うところで僕も目を閉じた。


「きっと伝わるよ」


 僕はそう囁いた。


「……うん」


 香澄もそう囁いた。


 これだけ近くに居るんだもの。これだけ僕らは互いを想っているんだもの。




 その時に、僕は、


 僕は確かに感じた。

 香澄の吐息、息遣い、温もりを。



「感じる……」


 僕は囁いた。僕の体温ではない、人の温もりが口元から体から溶け入ってくる。


「わたしも……感じる……」


 香澄はそう言った。


 僕の勘違いではなかった。確かに今、互いの吐息が触れ合い、温もりの感触があった。


「和孝を感じるよ……」


 香澄が声を高ぶらせて言った。僕の目から涙が溢れた。


 香澄を感じる。香澄も僕を感じてくれている。


「香澄!」


 僕は叫んで目を見開いた。香澄は、









 香澄は…………。










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