第10話

 香澄が現世へ留まっている理由、それは未練と呼ばれるやり残したことがあるからであろうと思われる。そのために香澄は僕のところへとやって来た。


 だとするならば、その未練が満たされていくにつれ、香澄はこの地へ留まる理由を失くしていくことになる。香澄の望むことを叶えてやるにつれて、香澄は満たされていく。その分だけ香澄の姿は薄くなっていく。


「香澄」


 僕は部屋でくつろいでいる香澄の前へかしこまって座った。


「何?」

「これ以上、僕と居ると、香澄は消えてしまうかもしれない」


 香澄は自覚していないのか、僕の言葉を鼻で笑った。


「何言ってるの?」


 僕は香澄に詰め寄った。


「気付かないのか? 段々と薄くなって……」

「違うよ」


 香澄は僕の言葉を制した。


「違う?」


 香澄は背筋を正して僕に向き合った。


「消えてしまうかもしれないって、そんなの最初から分かっていたことでしょ?」


 最初っから分かっていた……。


 いや、僕には分かっていなかった。分かっていたけれど、分かっていなかった。


「わたしはそのためにここに来たんだよ。いわば、消えるためにここに来たってことでしょ」


 香澄はきっぱりと言った。


「そんな……」

「確かに和孝がわたしのわがままな願いを聞いてくれる度にわたしは心残りを解消していく。それで未練はなくなっていく。でも……」


 香澄は僕を真っ直ぐに見つめた。


「でも、それだけじゃないんだよ」

「それだけじゃない?」

「そう、それだけじゃない」


 香澄は手を広げて自分の体を見つめた。


「ほら、こんなに薄くなってる。それは自覚しているよ。けれどね、わたしはむしろこの薄さが嬉しいんだよ」

「嬉しい?」


 僕は意味がわからなかった。


「嬉しいだって? 何がだよ、そんな状態の何が嬉しいってんだよ!」


 声を荒げる僕を香澄は見つめた。とても穏やかであって、切ない瞳だった。


「わたしはね、和孝と喋りたかった。仲良くなりたかった。それが願いだった。一緒に出掛けて、笑い合って、一緒にいることが当たり前になって」


 香澄は僕に微笑む。


「それを経験できてわたしはとても幸せなんだ。けど、けどね、それはスタートであって序章の願いなんだ」


 香澄は僕に近寄って僕に触れようとする。触れられないけれど、その仕草を僕に見せる。


「確かにそれらを叶えられたからこの体が薄くなったとも言えるけど、実際は違う」

「違う?」

「そう。この薄さの本当の意味は……」


 香澄は僕に顔を近づけた。


「和孝がわたしを想う気持ちなんだよ」



 僕は震える口で言葉を漏らした。



「僕の……気持ち?」



 香澄はゆっくりと頷いた。


「わたしの本当に叶えたい真の願いは、和孝がわたしを好きになってくれることだった」


 日記にも書いてあった。確かにそう書いてあった。


「だから和孝がわたしを想ってくれるほどに、わたしの体は満たされて、薄くなっていく」


 香澄はゆっくりと首を振った。


「だからわたしは薄くなる度に嬉しいんだ。それだけ和孝の想いが強まっているんだから」

「そんなの……」


 僕はやるせない気持ちが爆発した。


「そんなのってあるかよ!」


 そんな理不尽なことがあってたまるか!

 想いを募らせるほどにその相手が消えていくなんて、納得できるか!


「だったら僕は、香澄と距離を置いてこれ以上……」

「やめて!」


 香澄は僕の言葉をさえぎった。


「やめて……、それだけは」


 僕は納得できなかった。


「どうしてだよ、香澄が消えてしまうんだぞ!」


 香澄は眉を下げて悲しそうに僕を見つめた。


「和孝に冷たくされたら、それこそわたしはここにいる意味がない……」


 香澄は悲痛にそう呟いた。


「だから今までのように……、わたしに優しくして……」


 香澄は目に涙を浮かべながら僕に微笑んだ。


「こんな幸せなことはないじゃない。好きな相手の気持ちを自分の体で直接感じることが出来るんだよ。徐々に高まっていく感情をわたしは感じられるんだよ。最高の幸せじゃない」


 香澄はそうやって僕に瞳を潤ませながら微笑んでいた。




 香澄の体が日に日に薄まっていく。僕はそれを止めたいと思う気持ちにさいなまれて、香澄のことを考えないようにした。

 しかしそれはうわべだけの取り繕いであって、実際は香澄への想いが募るからこそに出る感情制御であるから、香澄の体は正確なバロメーターとしてより薄まっていった。


 香澄と長く居たいのに、それを望めば香澄は消えていく。そんなジレンマがより香澄を愛しくさせていく。

 僕はその高まる感情とそれに対する結果の反比例に発狂しそうになった。


 香澄は変わらずに毎日を笑顔で送っている。もう既に香澄には色がない。血色の良かった肌も、赤らめる頬も僕には見えない。


 香澄が消えてしまう。

 香澄がいなくなってしまう。

 僕は寂しくてたまらない。


 香澄は自分の薄さを自覚しているけれど、それを恐れてはいない。僕はこんなにも恐ろしいのに。香澄には自分の体をコントロールすることはできない。だからこそ僕に委ねている。


 僕が香澄の体を消す。

 僕次第で香澄は消える。


 だからといって、僕にもコントロールできない。

 僕は香澄を好きになっていっているのだから。


 感情が渦巻く中で、僕は香澄を想った。笑顔をなくした僕を香澄は悲しむだろう。苦しむ僕を香澄は嘆くだろう。先延ばしにしたところで、腫れ物に触れるようなそんな怯えた日々は幸せに過ごせない。



 だからこそ僕は、香澄を想うからこそ僕は、

 香澄を目一杯好きになることに決めた。


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