第7話

 僕たちは家を出て、国道に面した歩道で帰路へ向かった。建設中の新興住宅の前はトラックが出入りをしていて、警備員に促されて細く狭まった歩行者通路を渡った。


 香澄は僕の横でしずしずとうつむいて歩いていた。



 玄関から物音がして、香澄の部屋にいた僕らは息を潜めてじっとしていた。階段を上がる音が聞こえて血の気が引いたが、こちらには来ずに足音はそのまま階段を下りていった。両親が兄達と交代して、一度家へ戻り、シャワーを浴びたり、ワイシャツや下着を替えているようだった。


 こちらに近づく様子もなく、そのまま一階でごそごそと物音が続き、そうして数十分後に再び玄関の音が聞こえて、家の中は静寂に包まれた。それを確認して僕らは家を抜け出してきた。



 僕は横を歩く香澄に目を向けた。

 香澄は望んでいた通りに生前の記憶を取り戻した。しかし表情は暗いままだ。いや、以前よりもどんよりとしている。


「入学式から僕を知っていたんだ」

「…………」

「僕をずっと見ていたなんて」

「…………」

「何だか複雑な気分だよ」

「…………」


 香澄は何も答えなかった。


「どうしたの、黙り込んで」


 様子をうかがうように香澄はチラチラと僕を見つめていた。


「どう……思った?」

「えっ、何が?」

「何が、って、あんなの見て、わたしのこと……」


 僕は首を横へと振った。


「うーん、何だか嬉しかったよ」

「嬉しい?」

「だって、好意を持たれるって、やっぱり嫌な気はしないよ」


 僕は手に持った香澄の日記を見せつけた。


「後でじっくりと読ませてもらうよ」


 全部を持ってくることは出来なかったが、高校の入学式を綴ってあった『28』から最新の『33』までを拝借してきた。


 香澄は僕の手に持つ日記を見つめると、突然に両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。


「恥ずかしい!」

「は?」


 香澄は顔を赤らめてこちらを見た。


「だってそんなもの、本人に読まれて」

「何を今さら。自分が読んでほしいって言ったんだし」

「だってあんなこと書いてるなんて」


 やたらと乙女だな。その姿に笑いがこみ上げる。


「なんかエッチな妄想も書かれてそうな勢いだね」


 僕が意地悪く言うと、香澄は突然に立ち上がって、僕から日記を取り上げようとした。


「やめてぇ!」


 図星なのかよ。


 しかし香澄の奪い返そうとする手は日記をすり抜けた。

 残念。無念。


「観念しなよ」


 僕は笑いながら、真っ赤な顔の香澄を慰めた。




 僕の家へと戻り、僕は日記を机の上へと重ねた。香澄は膝を抱え、部屋の隅っこでこちらに背中を向けて座っていた。


「ここに来た理由は、やはり僕に会いに来たってことなんだね」


 僕は椅子に座って、丸まっている香澄に問い掛けた。


「……そうみたいね」


 香澄の言い方はふてくされている。


「僕と仲良くなるために?」

「……たぶん」


 香澄を尋問している気分になって、僕も意地悪だと思った。しかしどこかで愉快でもある。


 香澄はふてくされながらも、自分のとった行動を考察した。


「きっと心残りだったんだよ。突然死んでしまって、無意識に和孝のところへ向かったんだよ」


 事故現場から僕の家までの距離は近い。さまよい、真夜中に僕のところへ着いたということなのだろう。


「しかし僕の家、よくたどり着いたね」


 香澄は下を向きながら答えた。


「……前に一度、確認したことあったから、それを憶えていたんだと思う」


 憶えていた?


「生前に?」

「……たぶん」


 生前に確認した? 憶えていた?


「えっ、まさかのストーカー!」


 香澄はすぐさまこちらに身を乗り出した。


「ち、違うってば! たまたま見掛けて」

「たまたま見掛けないだろ。見たとしても家に行かないだろ」

「……ちょっと下見というか、見学というか」

「えっ、怖いんですけど」


 香澄は立ち上がって僕に両手を振ってみせた。


「違うよ! 別にそんなつもりじゃ……」


 僕が大げさに身をすくめてみせたので、香澄は訂正をしながらも言葉を止めた。


「ただ……」


 そして力なく座り込んだ。


「ただ、わたし……」


 香澄はうなだれて呟いた。


「本気で……好きだったんだ……」



 香澄が抱えていた想いが伝わってくる。先程からの仕草を見ていても、それは充分なほどに真剣だったことが伝わってくる。

 僕は香澄のそばへと寄って、しゃがみ込んだ。


「ありがと」


 僕は素直にそう思った。


 人からそれほどに想われたことはなかった。しかも喋ったことのない相手に、僕の中身も何も知らない状態でここまでに想われるなんて。


 そして死んでしまっても、何よりも誰よりも先に僕に会いに来た。家族や仲の良い友達を差し置いて、闇雲に僕を目指した。想いの大きさを知る。


「嬉しいよ、本当に」

「和孝……」


 香澄は純心に僕を見つめていた。僕への想いを取り戻した澄んだ眼差しをしていた。僕が拒むことを恐れていたようだったが、それが無いと分かって心底ホッとしたようだ。


 香澄は顔を和らげた。


「でも……何でここに来たのかを忘れてた。和孝に会いに来たのに、和孝を好きだったことを忘れてた。それでもわたしはここに来た。わたし、だって……」


 香澄は僕に微笑んだ。


「ずっと和孝と喋りたかったから」


 無我夢中で僕のところを目指したのは、僕と会って喋りたかったから。日記にもそう書いてあった。それが香澄の望みだったから。

 香澄はずっとそれをしたかった。


 僕の睡眠を妨げるほどに『喋ろうよ』と催促してきた初日を思い出す。その欲望だけは消えずにいたのだろう。


 僕への想いを忘れてしまっていたからこそ僕に気兼ねなく喋りかけられたのかもしれない。香澄はただ僕に喋りかけたくて会いに来た。そんなとりとめのない、些細な望みを胸に。


 僕は香澄に微笑みかけた。


「じゃあ、これからもっといっぱい喋ろう」


 触れられない肩に手を添えた。


「色んなことをたくさんさ」


 香澄は僕を見つめ、嬉しそうにうなずいた。


「うん!」




 時計は午後1時を過ぎていた。きっと今頃あの寺ではしめやかに告別式が行われていることだろう。もうすぐ肉体は空へと舞ってしまうだろう。


 それでも目の前の香澄は晴れやかな顔で、無我夢中に僕に喋りかけていた。僕もまたそんな香澄に晴れやかに喋りかけた。


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