第4話
眠たい目をこすり、階段を下りる。
食卓に父親がついている。
変わらない朝、変わらない日常がそこにある。
玄関を開けて、学校へ向かう。
平穏な一日が始まる。
「なんか久々の学校だなぁ」
しかし隣には香澄がいる。白装束と頭巾をそのままに僕の横で喋り掛けてきた。
「何だか行くのが楽しみだなぁ」
僕の横で遠足にでも行くような顔をしていた。
「わたしも行く」と言われて心配が募ったが、まぁ、記憶を取り戻すために通っていた高校を訪れることは、必要なのかもしれない。
「言っても3日振りくらい?」
香澄は眠たい僕と違って元気に体を跳ねさせた。
「授業を受けなくてもいいし、気ままに散策できるし、普段の通学とは気分が全く違う。超気楽っ」
そんなもんかね。
香澄は朝の食卓にいたが、母親のことを聞いてこなかった。まぁ、今どき片親なんて珍しくないだろうが。
僕ははしゃいでいる香澄の姿を見つめる。
街行く人は香澄の姿に反応しない。わかっていてもそれが不思議でならない。こんなにはっきりとここにいるのに。
友達や恋人のように伴なって歩いているのに僕にしか視認できない。香澄はここにいる。ここにいるのにここにいない。誰も香澄を見てやれない。そう思うと何だか気の毒になる。
そんなときに前から女性が犬を連れて歩いてきた。その柴犬は僕たちに近づくにつれ激しく吠え始めた。
「うわっ、何?」と香澄は体を仰け反らせた。
飼い主がリードを引っ張りながら、「コラッ、やめなさい」と犬をたしなめた。それでも犬は飛びかかる勢いで、明らかにこちらに向かって吠え、香澄は怯えながら僕の陰に隠れた。
飼い主は僕に向かって「ごめんなさいね」と会釈した。犬はそれでもずっとこちらに吠え続けながら通り過ぎた。
犬が去ると、怯えていた香澄はようやく縮こまらせた体を戻した。
「なんなの、あの犬!」
香澄は不機嫌そうだったが、僕は何だかとても嬉しかった。
「ちょっと、笑わないでくれます?」
香澄は僕に不満げに言った。香澄が見えていたであろうあの犬が、香澄の存在を認めてくれたようで、僕はそれが嬉しかったのだった。
道中に公園の前を通った。砂場とすべり台くらいしかない小さな公園。朝早くともあって誰もいない。香澄はそこでふと立ち止まった。
「公園……」
「どうしたの?」
香澄は考え込んでいる様子だった。
「何か思い出せそう」
何の変哲もない公園だから、似たような公園で遊んだ記憶があるかもしれない。
「どう、何か思い出せそう?」
香澄は目をぎゅっとつむってから、勢いよく開いた。
「無理!」
無理なのかよ。
駅へ着いて階段を上がる。香澄は僕の横に添ってついてくる。僕は香澄の足元を見つめた。裸足で階段を昇っている。
「不思議なんだけど」
「ん?」
「階段は昇れるんだ」
「は?」
「だって壁をすり抜けるし、僕は触れられないのに、階段は昇れるって不思議じゃんか」
香澄も自分の足元を見つめた。
「確かに」
「僕の部屋は二階にあるのに、一階に落ちないし」
「まぁ」
「どういう仕組み?」
香澄は冷ややかに目を細めた。
「……なんか馬鹿にされてる気がする」
おっと、また幽ハラと言われてしまう。
「いや、興味本位だよ、ただの」
「知らないよ、わたしに分かるわけないでしょ」
「感触はある?」
「……しつこいな」
「気になって」
香澄は渋々と答えた。
「……まぁ、なんか空気を踏んでいる感じはあるなぁ」
「へぇ、そうなんだ。ひんやりした感覚は?」
「……ない」
「そっかぁ。そういうホバー的な仕組みなのかぁ。便利だな。僕なんて冷え性だから裸足でどこでも歩けるなんて羨ましいよ」
香澄は白い目を僕に向けた。
「やっぱり馬鹿にしてるでしょ」
あまり怒らせると、仕返しに呪いでもかけられるかもしれない。気を付けよう。
電車の中でいつものようにぎゅうぎゅうの人の渦に揉まれていた。圧し潰されそうになる僕の横で、香澄はすいすいと車内を動き回りながら、遠くのほうで何度もジャンプして僕に手を振った。
僕の目には鮨詰めの人の頭越しに香澄がひょっと顔を出す姿が見えて、笑いをこらえるのに苦労した。かと思うと急に目の前に現れて僕を驚かせて、僕は思わず声を発しそうになって息を呑み込んでギリギリ我慢した。
それでも香澄は飽き足らず、僕の目の前で変顔の百面相を繰り出した。僕が思わずプッと満員の中ひとりで吹き出してしまうと、香澄はいたずらっ子のように勝ち誇って喜んでいた。
さっきの僕に腹を立てたための嫌がらせのつもりらしかった。
なんとも子供じみた仕返しだが、ある種、呪いよりタチが悪かった。
「学校ではあまりはしゃがないでよ?」
電車を降りてから僕は香澄に言った。
「さあね」
香澄はとぼけて答えた。
「こうして喋っていることだって周りには不自然なんだから」
香澄もそれは気に掛けていたようで、少し元気をなくした。
「ホント、誰もわたしが見えないのかな」
「さっきの犬くらいだな、今のところは」
「不思議だよね」
「他の……その……幽霊さんは見えないの?」
「あのおじいさん以外は出会ってない」
幽霊同士も互いを認識できないのか。
そもそも誰もが香澄のような存在になるかもわからない。
学校へ向かう道中も誰も香澄の姿に反応しない。声量も大きいはずなのに誰の耳にも届いていない。まるで僕が空想で造り上げた存在のようだ。
しかし香澄は確かに数日前まで存命していて、香澄の画像が僕のクラスにも回ってきていて見せてもらったが、村瀬香澄本人だったことは疑いようがない。
こうして実体を持たない姿になって僕の前に現れたとしても、そんな超常的なことを鵜呑みに出来ない堅い頭だったとしても、彼女がここにいることはもはや疑う余地はなかった。
しかしなぜだろう。なぜ僕だけ見えるのだろう。聞こえるのだろう。霊感が強いわけではない僕がなぜ香澄を見ることが出来るのだろう。
「もしかしたら他に見える人が学校にいるかもよ」
香澄は後頭部で手を重ねた。
「別に見えなくてもいいけどぉ」
香澄は口をとがらせた。
もし僕が見えなかったなら、香澄はきっと寂しい思いをしたに違いない。こうして余裕な表情で答えることなく、無我夢中に自分を見てくれる誰かを探していたかもしれない。
そう思うと僕は、彼女に少しは安らぎを与えているのだと、香澄が見えることを誇らしく感じた。
けれど学校でも結果、誰も香澄を見つけることは出来なかった。これだけの人数がいれば一人はいるだろうと高をくくっていたけれど、その期待は水泡と帰してしまった。
休み時間にA組を覗いてみたが、香澄の席であろう机の上の花瓶が目に入り、クラスメートも皆が沈んでいたために声を掛けられなかった。
仲良かったであろう女の子がずっと泣いている。その姿を見ているだけでやるせない思いに胸が張り裂けそうになる。
雰囲気からしても、香澄はクラスメートと打ち解け、親しまれていたのだろうと推測できる。わずかでも、イジメやトラブルがありはしなかったかと疑ってしまった自分が情けない。
そんな落ち込む僕に反して、香澄は学校の中を好き放題に駆けずり回っているようだった。
授業中でも僕のクラスで落ち着きなく大声ではしゃぎ、黒板の前に立ちはだかって僕にノートをとらせない嫌がらせをしたり、現国教師の体をすり抜けたり重なったりして僕を笑わせたりと散々に暴れ回っていた。
昼食のサンドイッチを僕は中庭のベンチで摂ることにした。教室だと香澄のせいで落ち着かないし、返事をしないと「無視するな」と答えるまでしつこく問い掛けられたりするので、ひとりになる空間へと逃げた形であった。
「ぼっちの昼ごはんだね」
香澄はそんな僕を罵ってくる。
「誰のせいだよ」
「わたしに気にせず教室で食べればいいでしょ」
「答えないと不機嫌になるのはそっちだろ」
「だって話を振ってるのに答えないんだもん」
「だからこうして話せる場所に来たんだろ」
クラスメートとの会話の最中も茶々を入れてくる香澄に仕方なく相槌くらいは打ってあげるのだが、それでもクラスメートには相当奇妙に見えたようで、あからさまに気色悪がられた。
そりゃそうだ、空中に向かって僕は喋っているのだから。こうして中庭でひとりで食べながら喋っている僕も、誰かに見られたら相当に近寄りがたい奇行に映るだろう。
「ったく、迷惑な話だ」
僕はついポロッとそう言葉を漏らした。すると香澄はそれを聞くなり、あからさまに寂しそうにした。多少本心は混じっていたが、それは香澄に言ってはいけないことだった。
「ごめん……、そんなつもりじゃないんだ」
僕は弁明したが、傷ついてしまったようだ。香澄は地面を見つめてしゃがみ込んで黙っていた。
「悪かったよ」
僕はもう一度謝った。香澄はしばらく沈黙していたが、うつむきながら突然にボソリと呟いた。
「……わたしの居場所、もうここには無いんだよ」
それは学校を駆けずり回った香澄が知った現実だった。それを結果、痛感してしまったようだ。
どんなに自由に校内を散策出来ようとも、僕の横しか彼女には居場所がなかった。
A組の自分の机には花瓶が供えられていた。クラスメートの心ある
今こうしてここにいることを誰も認知せず、過去の人物として片付けられてしまっていく。写真の中のクラスメート。そんな置いてきぼりの寂しさが香澄にはあるのかもしれない。
「花瓶、やめてもらおうか?」
僕は香澄に提案してみた。香澄はかむりを振った。
「いいよ、そんなことしたら和孝が変人扱いされるだけだよ」
確かに『本人が望んでいる』なんて言っても、どだい信用されないだろうし、むしろクラスメートの気持ちを踏みにじる行為とされ、総スカンを食らってしまうだろう。
「ただ、実感しちゃうんだよなぁ。もう生きた世界にわたしは必要ないんだって」
香澄は僕の横で自らの膝を強く抱いた。すらっとした背中を丸めた。
「そんなことないよ」
僕は香澄にそう声を掛けるしかなかった。
本当なら香澄の肩に手を当ててあげたい。そうして励ましてやりたい。けれど僕には触れられる力がない。それは何とももどかしかった。
「きっとみんなも本当なら今の香澄を見たいはずだよ。そう考えると、僕はツイてるってことかな」
そうなのだ。
僕にだけ見えているということは、僕にだけ与えられた特権なのだ。こうして香澄が見えている。それは喜ばしいことじゃないか。
香澄はしゃがみ込んで僕に顔を向けた。
「ツイてるっていうか、取り憑いてるのは確かだけどね」
皮肉めいて言うので僕はプッと吹き出した。香澄もつられてようやく堅い表情を和らげた。
香澄は好きで駆けずり回っていたわけではなかった。誰かに気付いて欲しくて、そんな人が居やしないかと、あえて騒々しく探し回っていたのだ。けれど誰も居なかった。僕以外に誰も香澄が見えない。聞こえない。
だとするならば、そんな唯一の僕が無視したら、香澄は不安がるに決まっているではないか。僕が聞かなければ、誰が香澄の話を聞いてやれるって言うんだ。
僕は愚かだ。無神経すぎた。
「ねぇ」と僕は問い掛けた。香澄は「ん?」と訊き返す。
「今日の夜、お通夜があるそうなんだけど」
今の香澄には最も酷な現実なのかもしれない。
「行っていいかな?」
僕はしかしながら香澄にあえて尋ねた。この関係に隠し事は出来ないのだし、だからこそ本音を香澄にぶつけておきたい。
香澄は案の定、表情を暗くさせて黙っていた。
「僕は君の生前を知らない。会っておいちゃダメかな?」
ここにいるのと同じ人物なれど、僕は『彼女』に会いたい。村瀬香澄という人間に会っておきたい。いや、会っておかねばならない。そんな気がした。
「生身の香澄に会っておきたいんだ。ダメかな?」
僕が念を押すと、僕がからかって言っていないと分かってくれたのか、香澄は口を膨らませて答えた。
「……別にいいけど」
香澄は恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「死に顔見て笑わないでよ?」
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