わたしが孵るとき

新菜いに

第1話

「どっちがいい?」


 わたしの手を君の手が攫う。適度な湿り気を帯びた指は、ひんやりとしているはずなのに一気にわたしの指を温める。攫われた手は君の頬へ。あいだにあった君の親指はするりと道を開けて、わたしの指の腹にはふっくらとした肉が当たった。


 どくどくと心臓が暴れだす。顔に熱が集まる。わたしと君は子どものはずなのに。性別すらもまだ持たないのに。この緊張は、胸の高鳴りは、一体どこから来るのだろう。


「……ど、どっちでも」


 君が望んだほうに――そう込めたはずなのに、君はどこか悲しそうな顔をした。



 § § §



「――そのためここにいる皆さんは、来月以降順次長期のお休みに入ることになります」


 少し広い、いつもとは違う教室。普段は図工や音楽みたいに専用の教室がある教科以外は自分たちの教室で授業を受けるのに、この日の説明会はお楽しみ給食に使う広い教室で行われた。

 この教室は元々広かったわけじゃなくて、何年か前に普通の広さの二つの教室の壁を抜いて作られたらしい。隔てるものがなくなったその空間の窓には、他の教室とは違って可愛らしい模様のカーテンが付けられている。壁の掲示は給食に関するものばかり。前方の黒板はそのまま、後方にあったはずのロッカーは取り去られて、が随分と薄まっているように感じられた。

 でも、机と椅子は見慣れたもののまま。いつもは四つから六つの机をくっつけてあるけれど、今日は珍しく全部前を向いていた。それがなんだか、今この時はとても特別な時間なんだと主張しているような気がする。お楽しみ給食で使う時はわくわくするのに、こんなにも落ち着かないのはきっと放課後に集められたせいだけじゃない。


 ここに集められたのは今年度の下半期に十二歳の誕生日を迎える子どもたちだ。つまり十月から来年の三月までで、今は九月の終わり。

 法律では十二歳になったら一月以内に性別決定手術を受けなければならないと決まっている。この手術を受けることで無性体として生まれたわたしたちの身体に零次性徴を発生させ、それまでなかった臓器や器官が作られるようになるのだそうだ。


「零次成長期は個人差がありますが、性が固定されるまで半年から一年かかるとされています。その間は心も体も大変なことが多いので、休み中の宿題も少ししか出されません。ああもう、そんなに喜ばないで。それくらい大変だということなんです。遊んでなんかいられませんよ――」


 先生が話す間、みんなは上の空。長期休みなんて魅力的すぎるし、上半期に休んでいた子も早ければ来月から来始めるかもしれない。それに何より自分が生まれ変わる日が近いのだ。これでじっとしていろだなんて無理がある。

 性を持つことは大人への第一歩。零次性徴を起こすことで遅くとも一年後には一次性徴を獲得し、そのすぐあとに第二次性徴を迎える。目に見える変化への期待に胸を躍らせ、みんな口々に自分のなりたい性別とその理由をこそこそと話していた。


「わたしは水泳選手になりたいんだ。男性体の方が速く泳げるだろ?」

「わたしはデザイナーなりたいの。何をデザインするかは決めてないけど、色彩に敏感な女性体の方がいいに決まってる」

「わたしはダンサーになりたい。男性体でもいいけど、女性体用の衣装のほうが好きなの多いんだ」

「わたしは男性体かな。うち両親が女性体なんだけど、女の人の身体は大変だからやめろってうるさくて」


 みんなの話を聞きながら、わたしは静かに机に突っ伏した。あくまで自然に、眠っているふり。

 でも目を閉じると、今度はあの子の顔ばかりが瞼の裏にチラついてしまう。


『どっちがいい?』


 そうわたしに尋ねるあの子の表情は、とても色っぽくて。ああいうのを艶めかしいと言うのだろう。

 あの子の目に見つめられると身体がうまく動かなくなる。触れたところはじんじんと疼いて、まるでそこに心臓が移動してしまったみたい。

 胸の中がむずむずする。それはだんだんとお腹の方に下りてきて、腰から背骨を通って再び胸へと還っていく。繰り返し、繰り返し。そのたびにわたしの鼓動はそわそわした。

 思い出すだけでもそれは変わらない。今は寝たふりをしているはずなのに、身体の内側から湧き上がった静かな熱がその邪魔をする。


「――では、今日の話はこれでおしまいです。来月から上半期にお休みしていた子も戻ってくるかもしれませんが、授業で習ったことをよく思い出して接するようにしてください」


 その声で始まった喧騒にまぎれて、わたしはこっそりと教室を出ていった。

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