第八話 小さな絵画

「これなんですけれどね」

 そう言って今回の依頼者である香織が取り出したのは、小さな絵画だった。湖畔が描かれており、どこか長閑のどかで優しい風景画だ。ほとりには小屋があり、その前にある木の椅子には男性が座っている。

「絵のことはよく分からないけれど……いい絵ね」

 鞠絵はそれを見て答えた。

「ここに描かれている……といっていいのか……この男の人がね」

 香織はこの絵を持ち込んだ理由を話し始めた。


 彼女には叔父がいた。「いた」というのには少々事情がある。彼はもともと風来坊な器質があった。若い頃、株で一山儲けたなどといった話もあるが詳しいことは分からない。そんな叔父は国内外問わずあちこちの土地を巡って暮らし、長くその地に留まらない生活をしていた。各地から送られてきた絵葉書で彼の動向を知るのが香織一家の日常だった。


 香織が中学生の頃。叔父がふいに彼女の家に訪れた。

「大きくなったなぁ」

 そう言って笑う叔父はどこか寂しげで、絵葉書に書かれていた文章から感じる人物像とは少し乖離かいりしていた。

 香織の父親は、叔父にとって兄にあたる。

「何年ぶりだったかな。お前もいい加減家庭でも持ったらどうだ」

 笑いながら父親が言うと

「いやぁ……そんな気分でもなくてね」

 と叔父は苦笑いで答えた。

 昔の話で盛り上がる夕食の席だったが、香織にとっては少々退屈な会話だ。早々に部屋に戻ろうと席を立とうとしたとき。

「香織、お前に土産があるんだ」

 そう言って叔父が取り出したのが例の絵画だった。とても小さなキャンバスで、手のひらに載せても十分持てそうなサイズだ。

「これ……絵?」

 中学生の香織にはピンとこない土産。湖が描かれており、美しい絵だとは思うが、大喜びするようなものでもない。とはいえ、部屋に飾るのも悪くなさそうだと香織さんは礼を言ってそれを部屋に持ち込んだ。

 

 ひとまず机の上に置き、しばし眺めた。ピンとこないのは相変わらずだが、眺めているうちに不思議と愛着が湧き、ひとまずスマートフォンスタンドをラック代わりにして飾ることにした。

 その夜。

 香織が眠っていると、ふいに部屋の扉が開く気配で目が覚めた。

「おお、起こしたか。すまんすまん」

 入ってきたのは叔父。身内とはいえ、若い娘の寝室にいきなり入ってきた彼に警戒心を覚えたという。

 そんな姿に気を止めることもない様子で叔父はスタスタと部屋を横切り、香織の机の上に飾られた例の絵の前で足を止めた。

「じゃあ、元気でな」

 叔父がそういった瞬間。彼の姿が消えた。

「え!!」

 驚いて飛び起きた。……と思ったらどうやらそれは夢のようだ。布団の中で目覚めた彼女は扉が閉まっているのを確認し、奇妙な感覚を覚えつつ再び眠りにおちた。


 翌朝。リビングにいくと両親が不可解そうな顔をしている。事情を聞くと、叔父がいなくなっているそうだ。

「あいつ、挨拶もなしに帰りやがったのか」

 眉間にシワを寄せてつぶやく父。しかし、詳しく聞いてみるとどうもおかしい。それは両親も感じていることだった。

 叔父のために用意された客室の布団は使用された気配がないそうだ。昨夜遅くまで話し込んだあと、客室に入っていったあとから姿を見ていないという。その時はリビングに荷物を置いていたそうだが、その荷物もない。鍵はといえばしっかりかかっており、もちろんチェーンロックも同様だった。外からチェーンロックをかけるなど、ほぼ不可能だ。かといって他の窓も鍵がかかっており、誰かが出た気配はない。


 困惑している両親とともに朝食を終え、香織は部屋に戻った。机の上に目をやると昨夜の絵がある。幻のように消えた叔父だが、なごりのように絵は残っていた。

「あれ??」

 香織は違和感を覚え、絵を覗き込んだ。

 湖。

 小屋。

 ベンチ。

 そこまでは昨日見た記憶がある。しかし、そのベンチに男が座っている。昨日見た時は男の姿は描かれていなかったように思う。よくよく見ると、その姿は叔父のそれに似ているような気もする。うつむいていて顔は分からなかったが。

 両親にその話をすると、まさか、と笑われてしまった。

 しかし、その日以来叔父との連絡は途絶えた。月に一度は送られてきていた絵葉書もこない。


 それから10年ほどの年月が経ち、父親はついに失踪宣言を提出することに決めた。これがつい先日のこと。香織さんの祖母、つまり父兄弟にとっての母が叔父のことを気にかけており、もし亡くなっているのなら葬儀をあげてやりたいと何度も言っていたのがきっかけだった。

 棺も骨壷もない葬儀を終え、自室に戻った香織さんは今は丁寧に飾っている絵を改めて眺めた。

「!?」

 強烈な違和感。普段からよく見ていた訳ではないが、明らかに異変がある。ベンチに座っていた男が顔をあげており穏やかに笑っている。香織さんは慌ててその絵を手に取り、両親に見せようと思ったが少し考えてやめた。


「これ、一体なんだろうって思うんですよ」

 話を終えた香織が鞠絵に尋ねた。

「うん……ちょっと不思議な力がかかってるわね」

「力?」

「叔父様の想いというか……そういうのが」

「処分したほうがいいのでしょうか」

「いえ、これってあなたの部屋に飾ってるっていったかしら」

 鞠絵の問いに香織がそうだと答えた。

「これね、リビングに飾ってあげて。叔父様、きっと喜ぶわ」

 鞠絵の答えに不安そうな顔をする香織。

「大丈夫、悪いものじゃない。むしろいいものよ」

 そう鞠絵が言うと少し安心したのか、礼をいって香織は帰っていった。


 後日、香織から連絡があった。

 絵をリビングに移し、その会話の流れで叔父から10年前まで届いていた絵葉書を取り出し家族で話に華を咲かせたという。

 鞠絵には確信があった。最期を寂しく迎えたであろう彼女の叔父。しかし、彼のことを忘れずに香織さん一家が暮らすことできっと彼の魂は慰撫いぶされるだろうと。

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