023 彼の描いた物語。
ミアはパチリと目を覚ました。
眠りと覚醒の中間は存在せず、彼女は目を開けたその時には既に覚醒の中枢にいた。
ただ昨日はいろいろな事があったせいか、体の方には未だに疲労が残っているようだ。
温かい泥のように心地よいこの微睡みの世界に居たいと訴えかけてくる。
しかし、彼女はそれを良しとしなかった。
一気に上半身を起こし、ベッドの木枠に寄りかかった。
それからそっと胸に手を当てる。
(……やっぱり変わらない)
一晩眠り、その上で彼女の意志が揺らぐことはなかった。
ならば行動しよう。
決断が遅れ、好機を逃すのは愚か者のすることなのだから。
ミアの心は決まった。
「…………」
そのとき、ふと脳裏にルークの姿が浮かんだ。
どんなに良い解釈をしたとしても、昨日の彼が『善人』であるという評価に至ることはない。
それはミアも分かっている。
分かっているのに───何故か惹かれてしまう。
自分自身でさえも理解できない感情。
彼女の内側でルークの言葉が何度も反芻するのだ。
『───俺の『駒』にならないか?』
分かっている。
これは決して耳をかしてはいけない悪魔の囁き。
もしかすれば、自分は騙されているだけなのかもしれない。
ルークの言動が善意からくるものでないことなど彼女は理解しているのだ。
しかし、
「……もう、無理だよ」
抗えないのだ。
どうしても抗えないのである。
それは、一度黒に染ったものに他の色をいくら加えても黒のままであるように。
彼女の心はもう覆ることなどないのだ。
ミアは身支度を素早く整えた。
それは雑という意味ではない。
一つ一つの行動に無駄がなく、それでいて迅速に行われていくのである。
最後に鏡の前に立ち、髪の毛をブラシで梳いた。
特に前髪を入念に整えれば完成だ。
ミアは扉を開けた。
ルークの部屋へと向けて勢いよく歩き出す。
最初は良かった。
だが次第にその速度は失われていった。
「な、なんて言えば……」
感情が思わず声に出た。
彼女が我に返ったのはその瞬間である。
(ば、バカじゃないのか私は!? こんな朝っぱらから男の部屋を訪れてなんて言うんだ!? あなたの『駒』になります……って!? 頭おかしいと思われるでしょ!!)
ミアは叫び出したい衝動に襲われた。
両の手で頬を触ってみればやたらと熱い。
心臓の鼓動が全身に広がっていく気がした。
身体が熱くなるのと反比例して頭は確実に冷えていく。
冷静で明瞭な思考は、彼女が如何にマトモではなかったかという事実をつきつけた。
感情がごちゃごちゃとしている。
それでも、と彼女はもう一度半ば強引に心を鎮めた。
(でも、この勢いのまま行かないと言い出す機会を永遠に失う気がする……!)
そうだ、と思い直す。
昨日あんなことがあったというのに、何も話さないまま朝食の席でばったり鉢合わせしてしまったりしたらどうするというのか。
その方が何倍も気まずいではないか。
ミアは無理やり自分を肯定した。
「…………っ!」
一歩、踏み出した。
鎖に繋がれているのを引きずって行くかのように重い。
もう一度止まってしまうような事があれば、今度こそ自分の部屋へ戻ってしまう。
そんな気がした。
だからミアは魔力を練り上げ、それから一つの魔法を発動させた。
───『飛行』
その瞬間彼女の体がふわりと浮き上がり、そして加速した。
ルークの部屋へ早くたどり着かなければ。
その一心で彼女は廊下を飛ぶ。
ここが寮で、今はまだ朝早いため寝ている学生がいると判断できる理性が残っていなければ、『うぉぉぉぉ』っと叫び出していたかもしれない。
そして、彼女の素晴らしい魔法技術も相まってあっという間に到着した。
いや、到着してしまった。
ミアは魔法を解除し足を着いた。
「…………っ」
ルークの部屋は目の前だ。
あとはノックするだけ。
そのノックするだけが果てしなく難しい。
ミアはスカートの端を強く掴んだ。
(やりなさいミアっ! もう決めたことでしょっ! さぁ! さぁ! ……ぅぅ)
このような思考をひたすらに繰り返し、彼女は肌寒い廊下で5分間立ち尽くした。
だが気づいたのだ。
昨日の序列戦、なぜ自分が敗北したのか。
ロイドはとても強かった。
シンプルな実力差もあるのだろう。
しかし最も大きな敗因は───己の心の弱さである。
そんな自分を変えたくて今ここにいるのではないのか。
「……ふぅ、ふぅ。───よし」
心は決まった。
何度か大きく深呼吸する。
それからミアはゆっくりと手を伸ばし、そして弱々しく数回ノックした。
ノックしてから待っている時間。
それはミアにとって、一秒が何十倍にも引き伸ばされた時間であった。
やがてゆっくりと開かれるその扉。
小さく開かれた扉から一人の男が顔を覗かせる。
ルークだ。
それを認識した瞬間、ミアの心はこれまでが序の口だったと言わんばかりに掻き乱された。
心臓の鼓動がやたらと早くなる。
当然、今の彼女に『おはよう』と言えるだけの余裕はなかった。
だから自分が言わなければならないと、何度も心の中で繰り返していた言葉を言ったのだ。
さながら原稿を読むかのように。
「その……なってもいいよ。───ルークの『駒』ってやつに」
「…………」
ルークはほんの少しだけ目を見開いた。
様々な想定外が重なったからである。
加えて、このノック音で目覚めたばかりなのだ。
思考がぼやけている。
これらの理由によりルークは数秒言葉を失った。
しかし、ミアはそんなこと知るはずもない。
意を決して声を出したというのに、未だルークから返答がない。
心にあるのはそれだけだ。
またしても彼女の鼓動は早くなる。
「───そうか」
ようやく言葉が返ってきた。
「よく決心したな。嬉しいぞ」
「……ぁ」
ルークの『嬉しい』という言葉。
それは麻薬のようにミアの脳をおかした。
これまでの全てを肯定されたかのような高揚が全身を貫いたのだ。
次はミアが言葉を失う番だった。
口をパクパクとさせるだけでまるで音がでない。
何かを言わなくては。
早く何かを。
そんな思いに駆られていると───
「───面白いことを言うのね、ミア」
別の女の声がした。
その声が誰のものであるかをミアが理解するよりも早く、ルークによって小さく開かれていた扉がその第三者によって大きく開かれた。
「……あばばばばば」
ミアの思考はそこで完全に停止する。
なぜか。
見てしまったからだ。
───全裸のアリスの姿を。
なんでルークの部屋にいるのか。
なんで服を一切着ていないのか。
なんでそんなにドヤ顔をしているのか。
あらゆる疑問が濁流のように押し寄せ、尚且つ視界から得られる情報のあまりの衝撃。
それは、他人がキスをするところでさえも照れて直視できないミアにとって到底理解できるものではなく、受け入れられるものでもなかった。
ゆえに彼女は選んだのだ。
意識を手放すという選択肢を。
バタリ、とミアは倒れた。
アリスには一切の恥じらいというものが存在しなかった。
己の『美』に対する絶対的自信。
見られて恥ずかしいところなど、彼女には何一つないのである。
「……なんで出てくるんだ」
「彼女があまりに面白いことを言うものだから、つい」
ルークはため息をつきつつ、ミアをこのままにしておくわけにもいかないと判断。
朝から身体を動かさなければならない億劫さを噛み締めながらも優しく抱きかかえ、己のベッドにそっと寝かした。
++++++++++
───ギルバート領都市『ギルバディア』
交易都市としての一面を持つこの街は夜でさえも活気があり、人通りも多い。
様々な国の商人や冒険者がこの街を訪れる。
この日とて例外ではない。
皆が忙しさの中にやり甲斐を見出しており、その表情には疲労と共に明るさがあった。
そこには、この都市で暮らす者なら誰しもが知る豪華で荘厳な屋敷があった。
クロードの屋敷である。
そして、人知れずその屋敷の扉は開かれた。
中から出てきたのは4人の男だ。
「足元にお気をつけ下さい」
まず、この家の執事を務めるアルフレッド。
「うん、ありがとう」
「…………」
次にヨランド。
そしてゴルドバという魔法師団長を務める寡黙な男が続いた。
「───クク」
最後に、ギルバート家現当主クロードその人である。
アルフレッドはヨランドという男がここを尋ねてきたその瞬間に思った。
この男は『悪』であると。
しかも彼が最も嫌悪する類の『悪』であると。
しかし───
(───チッ、気持ち悪ィ)
その嫌悪が今となっては和らいでいたのだ。
アルフレッドはそれが何となく気持ち悪かった。
そして、ヨランドは思っていた。
(チョ、チョロい……ギルバート侯、とんでもなくチョロかったなぁ。最初はあんなに警戒されてたのに、ルーク君のことを話した途端スムーズに事が進んだよ)
ヨランドがクロードの元を訪れた理由は、彼が『あの日』描いた物語を実現させる為だった。
それは───ルークを『王』にするという物語である。
(フフ、ルーク君。僕が君より勝っていることがあるとすれば、それは僕の方がほんの少しだけ早くこの世に生まれたということだね)
ルークが学園に拘束されており、ヨランドにはある程度の自由がある。
そうでなければこの状況そのものが成立していない。
ヨランドは『あの日』初めて、ルークという自身と同格以上の存在と出会った。
それが、真の意味でずっと孤独だった彼にとってどれほどの喜びだったか。
どれほど輝いて見えたか。
彼もまたルークに魅入られていたのである。
(君は───『王』こそが最も相応しい)
そして、それだけではない。
この計画には、ヨランド自身がルークの『駒』となり側に居続けるという欲望を満たす目的も含まれているのだ。
(学園を卒業するその時までに作ってみせるよ。君が僕を手放せない『理由』を)
また、クロードがヨランドの計画に賛同したことでこの物語はさらに加速した。
ではなぜクロードはヨランドに賛同したのか。
当然、彼の親としてルークを愛する心が常軌を逸しているというのも要因のひとつだろう。
しかし、それだけではない。
ヨランドの話はクロードの内に秘めていた野望を呼び起こしたのだ。
ルークが生まれたことで泡のように儚く消えた野望。
それは『王位簒奪』である。
若かりし頃、彼もまた自分こそが王に相応しいという燃えるように傲慢な野心を抱いていたのだ。
ヨランドの計画はそれを再び呼び起こしたのである。
「貴様が『武力』を、私が『派閥』を磐石なものにする。それでよかったな?」
「えぇ、そうです。僕が魔法師団を中心にルーク君の勢力を大きくします。貴族を纏めるのはお願いしますね」
「お前は無能と聞いていたが。どうやら見る目がない者共の戯れ言だったようだなァ」
「あはは、恐縮です。───それで、3年でどのくらいできますか?」
ヨランドはほんの少し挑戦的な表情をした。
「クク、笑わせるな。私を誰だと思っている。これ以上はないというほど、磐石な派閥を作り上げてやろう。貴様こそ失望させてくれるなよ」
「えぇ、期待していて下さい。それでは、あまり長居はできませんのでこれで失礼致します。本日はお時間を作って頂きありがとうございました、ギルバート侯」
「あぁ、また何時でも来るといい」
「感謝致します」
ヨランドは深々と頭を下げ、それから空へと飛び立った。
ゴルドバもそれに追従した。
しばらく静かに飛び、そして───
「ハハハハハッ!! あぁ、忙しくなるなぁっ!!」
己の胸の内で爆発する喜びの感情を吐き出した。
「私にできることがあれば、なんなりと」
「うん、君にもしっかり働いてもらうからねゴルドバ。心の準備はしておくように」
「はッ!!」
ゴルドバの返事には偽りなき覚悟と気迫が込められていた。
(ルーク君、僕は見たいんだ。君が王となり何を成すのか。魔法力に依存し、人間至上主義を掲げる古くさいこの国をどう導き、どう変えていくのか。んー、でも自由を奪ったら怒られそうだなー。優秀な文官も取り込まないとね。あぁ、本当に楽しいなぁ───)
これから楽しいことがたくさん起こるであろう未来に思いを馳せ、ヨランドは無邪気な子供のように───嗤った。
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