006 アベル。


 ───これはありふれた悲劇の物語。



 ミレスティア王国において、平民なら二つ、貴族や王族ならば三つの名を持つ。

 しかし少年は『アベル』という名しか持たない。

 そう、孤児なのである。


 アベルは小さな村の小さな教会で育った。

 そこでの暮らしは決して楽ではない。

 日々畑を耕し、薬草を集め、何とか生計を立てる。

 それでやっと辛うじて空腹を満たす食事ができる。

 裕福とはかけ離れた生活だ。


 しかし、アベルはただの一度も自分が不幸などと思ったことはなかった。

 教会のシスターや他の孤児は本当の家族のようであり、最年長であったアベルはとても慕われていた。

 村の皆も孤児だからという理由で差別する者は誰一人としていなかった。


 貧しくもその心には思いやりがあり、皆助け合いながら生きていたのだ。


 アベルはどんなに辛くても笑顔の絶えないこの村のみんなが大好きだった。


 幸せだった。


 本当に幸せだったのだ。


 この幸せがずっと続いていくのだと信じていた。



 しかし───それはあまりにもあっけなく終わりを迎える。



 ある日、笛の音が聞こえた。

 思わず立ち止まってしまうほど美しく、それでいて悲しげな音色。

 だがそのすぐ後、重い足音と共に『フォレスト・ジャイアント』と呼ばれる魔物が突如として現れ、村を襲った。この魔物は圧倒的巨躯を持つだけでなく、知能も高いため集団で狩りをするという特徴がある。

 なんの武力もありはしない村人達に逃げ場などあるはずもなかった。


 シスターは子供たちを別々の場所に隠れさせた。


 誰か一人でも生き残れるようにと。


 その言葉に従いアベルも隠れた。


 だが、隠れていても聞こえてくる。


 村人たちの悲鳴。

 グチャり、と何かが潰される音。

 耳障りな笑い声。


 当時のアベルにとってそれはとても耐えられるものではなかった。


 耳を塞いだ。

 それでも聞こえてくる。

 誰かが殺し、誰かが死ぬ音。



 聞きたくない。


 聞きたくない。


 聞きたくない。



 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ───。



 そう───これはありふれた悲劇の物語。



 ++++++++++



 ラムリー子爵家は領土を持たないため王都で暮らしている。

 しかし、次女『リリー・エイクリル・ラムリー』はそこに何の不満もなかった。

 この美しい王都の街並みが好きだったからだ。


「爺や、散歩へ行くわ」


「かしこまりました、お嬢様」


 身支度を整え、外へ出る。

 これは彼女がもう何年も続けている日課であり、代わり映えしない世界に少しでも彩りを与えるためのもの。

 散歩ルートのパターンも既に確立されている。


 ただ、


「……えっと、きょ、今日もエルカさんの所に行くわ!」


「かしこまりました、お嬢様」


 約1年前、長年変わることのなかったそのパターンは大きく変わった。

 ここ最近はエルカの道場に赴き、そこで幾許かの時間を過ごし、そして帰る。

 これが彼女の『散歩』なのだ。


「……迷惑、と思われるかな?」


「いえ、そのようなことは全くないかと。お嬢様自ら赴かれるのですから、むしろ光栄でしょう」


「そ、そうよね! 喜ぶわよねきっと! 行くわよ! 爺や!」


「かしこまりました」


 爺や、と呼ばれる執事のポールは代々ラムリー家に仕えており、リリーが物心つく前から側で成長を見守ってきたのだ。

 多少甘くなってしまうのも仕方がない事だろう。


 数人の護衛を連れ、リリーは街を歩く。

 美しい街並みだが見慣れたものだ。

 そこに大きな感情の波はありはしない。

 それでも、リリーの足取りはとても軽やかだった。


 しばらく歩けば目的の場所が見えてきた。


「ヤァァァァァァッ!!!」


 耳を劈く怒号。

 最初は野蛮と思っていたリリーだが、今となっては慣れたものだ。

 そして、なんの考えもなくここへ来た訳ではない。

 休憩に入る時間帯は把握しているのだ。


「ここまで。一旦休憩とする」


「ハァ……ハァ……ありがとう、ございました……」


 中から声が聞こえてきた。

 どうやらタイミングは良いようだ。


「爺や」


「かしこまりました」


 ポールはその威厳溢れる四脚門をノックするために歩みよるが、その必要はなかったようだ。


 ギイィィ、という音を立て開かれた。


「よく来た。入るといい」


「え、えぇ……」


 出迎えてくれたのは元王国騎士団団長、エルカ・アイ・サザーランドその人である。

 リリーはほんの少しだけエルカのことが苦手だった。

 今回もそうだが、全てを見透かされているような不気味さがあるのだ。


 なんでいつも来るタイミングがわかるのかと聞いたこともあるが、笑いながら『何となくだよ』としか言われなかった。

 それがなんとも不気味だ。


 とはいえ、苦手なだけで嫌いという訳ではない。


 リリーは促されるままに道場の中へと入った。

 中に入り、最初に目に付いたのは地べたに大の字となって横たわるボロボロな黒髪の少年だった。


 その姿にリリーはほんの少しだけ笑みを浮かべた。


「今日も随分とやられたようね、アベル」


「ハァ……ハァ……リリー」


 少年───アベルは肩で呼吸しながらリリーを見た。


「何? 来たら悪いのかしら?」


「ご、ごめん。そんなことない、嬉しいよ」


「フフっ」


 ちょっと強い口調を使えばアベルはドギマギとしてしまう。

 その様子が可愛いのだ。

 だからリリーはついからかってしまう。


「……やはり、訓練を続けているのね」


「うん」


 アベルは縁側に座り、ゴクゴクと水を飲み干した。

 礼儀作法のれの字もないが、リリーに気にした様子はない。


「──『アスラン魔法学園』を諦める気はないのね」


「うん」


「…………」


 アベルの返答は早かった。

 剣聖に匹敵する剣の腕を持ちながら、伝説の魔法使いでもある神話の英雄『アスラン』。

 その名を冠する『アスラン魔法学園』は言わずと知れた王国最高の魔法学校である。


 受験資格は『魔法の適性があること』のみ。


 だが、それはあまりに言葉足らずだ。

『属性魔法の適性があること』と言う方が正しいだろう。

 それは言わずと知れた不文律。

 完全実力主義のその学園において、誰もが当たり前と考えて疑わない真実である。


 それほどに属性魔法を使える者とそうでない者では差があるのだ。

 ゆえに、小競り合いのような戦争に属性魔法使いが利用されることはない。


 なぜか。

 死者の数が跳ね上がるからだ。


 もしも幾人もの属性魔法使いが動員される程の苛烈な戦争が起きたならば、その戦場は死屍累々の世界へと変わり果てるだろう。


 アベルはなぜそんなにもアスラン魔法学園にこだわるのか。

 王国騎士や冒険者じゃダメなのか。

 どんなに剣の腕を磨いても、多少無属性魔法が使えようとあまりに無謀だ。



 どうしてそこまで──強さにこだわるのか。



 リリーはアベルが傷つく姿を見たくなかった。

 どうすれば諦めてくれるのか。

 最近はそんなことばかり考えていた。


「無駄だよ」


「……え」


「誰に何を言われても僕は僕の道を曲げない。──決めたんだ。もうずっと昔に」


「…………」



(ほんと、エルカさんに似てるわね……)


 全て見透かされているようだった。


「僕は強くなる。それだけは死んでも妥協しない」


 リリーはアベルを見る。


 その目の奥。


 そこにあるのは光や希望などでは決してない。



 ドロりと蠢くそれは───『闇』だ。



 深く底の見えない、全てを飲み込んでしまいそうな程の闇である。


 ゾワりと背筋に冷たいものが走った。


「……ハハっ。ごめんね、急に。変なこと言って」


 だが、その危険な雰囲気は一瞬にして霧散した。

 いつもの少しドジで呆れる程お人好しなアベルがそこにいた。


「全く、身の程知らずにも程度というものがあるわ」

「あはは……だよね」


 バツが悪そうにアベルは頬をかいた。


「──でも、少しだけ尊敬するわ」

「え?」


 出会った当初、リリーは傲慢な貴族そのものだった。

 それを知るからこその驚きだった。


「なんなの! 何をそんな驚くことがあるのよ!」


「だってリリーが……」


「あぁ、もういいわ!」


 リリーは気恥しさを紛らわすように勢いよく立ち上がった。


「今日は報告があってきたのよ。私、『水』の適性があるんだって」


「え、本当に!? おめでとうリリー!! 凄い!! 本当に凄いよ!!」


「そ、それほどでもないわよ」


 それは屈託のない笑み、賞賛だった。

 もし逆の立場だったなら、とリリーは考えずにいられなかった。

 こんなにも心から賞賛することができるだろうか。


「だから──私も『アスラン魔法学園』を目指すわ。これからはライバル、覚悟することね」


「……はは」


 アベルは嬉しかった。

 こんなにも才能溢れるリリーが自分を“ライバル”と言ってくれることが。

 だが、その程度で満足してはダメだ。


「負けないよ」


 ちょっとくらいカッコつけたい。


 だからアベルは笑った。


 きっと険しい道だ。


 細く、一歩間違えばすぐさま谷底へ落ちてしまうような。


 そんな道。


 いや、それどころか道すら無いのかもしれない。


 それでも、アベルは決めたのだ。



 もう──何者にも奪わせはしない、と。

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