第5話 自覚

「柑奈ちゃん、忘れ物って……?」


 ぐいぐいとまりんの腕を引き廊下を進んでいく柑奈ちゃん。無言のまま一階へ降り、お土産屋の前を通って大浴場の前へ。そうして、ようやく立ち止まったその背中におずおずと声をかけると、


「国矢くん」と柑奈ちゃんはおもむろに口火を切って、くるりと振り返った。「この前、三年の女子とキスしてた」

「……え!?」


 何を突然? キ……キス……? ハクちゃんが……!?

 その瞬間、言語という言語が頭から吹き飛んでしまったようだった。

 突然、巨大な隕石が落ちてきて、宇宙に放り出されたような――そんな気分。何もない真っ暗闇の虚空の中、上も下も分からず、ぷかぷかと漂うのみ。頭の中は「?」マークでいっぱいで、思考もままならず。

 ただ、目をパチクリとさせ、呆然としていると、


「――なんて言ったら、どうする?」

「『どうする』……?」

「そーそー」と柑奈ちゃんは切れ長の目をスッと薄め、険しい顔つきでまりんを睨め付けてきて、「国矢くんだって、一応、年頃の男子。そりゃあ、チャンスと隙さえあれば、どこぞの誰かの唇だって奪っちゃうものよ」

「そ……」


 そう……なの――!?

 ハクちゃんが誰かの唇を奪っちゃう? あの……ハクちゃんが!?

 『ハクちゃん』と『キス』なんて、まりんの頭の中で遠くかけ離れた単語で。決して、結びつくことなんてなかったのに。まさか、『ハクちゃんがキス』なんて文章が成り立つことがあるなんて考えたこともなかった。まして、どこかの誰かと。まりんの知らないとこで……。

 きゅうって胸が締め付けられて、経験したことのない息苦しさに襲われた。


 初めて、そのとき、想像したんだ。


 想定したこともなかった未来――ハクちゃんが誰とも知らない女の子とキスするとこを。


「そんなのヤダ……!」


 ハッとしたときには、子供みたいなそんな言葉が口から飛び出していた。

 あ、と思って口を押さえたけど、目の前の柑奈ちゃんの顔にはニンマリと勝ち誇ったような笑みが浮かんでいて……。


「大丈夫よ〜ん」と柑奈ちゃんはわしゃわしゃとまりんの頭を撫でてきた。「ま、少なくとも、ウチの学校で国矢くんを狙うような女はいないからさ。『まりん伝説』が語り継がれる限り、国矢くんは皆の恋愛対象外よ」

「ま……まりん伝説、て……」

「とはいえ、あんたはちょっとは自覚しろ」


 自覚――。

 その言葉にぎくりとした自分がいて。ほんわか、頬が熱くなるのが分かった。

 なんとも言えないむず痒さを覚えて、まりんは柑奈ちゃんの視線から逃げるように俯いていた。


 だって、仕方ない。はっきり、イヤだ、て思ったから。

 奪われたくない、て――その気持ちは、もうずいぶん昔、まだ子供だった頃も覚えた記憶はある。他のお友達と遊ぶハクちゃんを公園で見かけたとき、まりんはすごいイヤだった。でもそれは……『ひとりぼっちになりたくない』っていう、危機感があったからだと思うんだ。その頃、ハクちゃんはまりんにとって、たった一人の友達だったから。ハクちゃんを誰にも奪われたくなかった。

 でも、中二のその夜、気づいた気持ちは――自覚したそれは、もっと卑しい感じがした。


 ハクちゃんを奪われたくなくて……そして、ハクちゃんを欲しい、と思った。


「さて、それじゃ……」ふいに、柑奈ちゃんがすうっと息を吸うのが分かって、「きゃあ、大変だー! まりんが謎の火照りに襲われているー!」

「えっ……!?」


 いきなり、大声で(しかもひどい棒読みで)叫んだ柑奈ちゃん。

 なに言ってるの!? とぎょっとしたのも束の間、ガッタンガタン、と大きな物音が柑奈ちゃんの背後――のれんが垂れ下がる大浴場の扉の向こうからして、


「まりぃいいん!?」


 ガラリと扉が開く音とともに、のれんから飛び出すように出てきたのは、ほくほくと湯気を肩から昇らせる上半身裸のハクちゃんだった。

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