第3話 気づき
そうやって、ハクちゃんはいつもまりんの『常識』を――それまで『日常』だったことを――予想の斜め上から壊してくれた。
ずっと『ひとり』が当たり前だったまりんの傍にいてくれた。
気づけば、ハクちゃんが隣にいることが『日常』になってて、まりんとハクちゃんは『幼馴染』という関係になっていた。そんな存在ができたことは、まりんにとって……奇跡に近いことで。思いもしなかった幸運で。パパもママも……もちろん、まりんもハクちゃんに感謝してた。
そうやって、まりんは『感謝』だけしてれば良かったのに。
いつからかな。
いつから、まりんは強欲に――それ以上を求めてしまうようになったんだろう。
きっかけ……とすら言えない、まだ『違和感』とでも言うべき、その些細な変化を感じたのは、中学に入ってすぐ。
ハラハラと桜散る、麗かな春の日。気慣れないセーラー服はブカブカで動きづらかったのをよく覚えている。
中学の入学式――それから数日後のことだった。
「
「へ……」
見知らぬ先輩だった。
昼休み、声をかけられたのだ。担任の先生が呼んでいる、と言われて……。
微塵も疑わなかった。よく考えればおかしかったのに。担任の先生が校舎裏で呼んでる、なんて。
「あの……あれ? 先生は……?」
あまりに突然で。状況が全く掴めなかった。
人気のない校舎裏で、いるはずもない先生の姿をキョロキョロと探すまりんに、その先輩は「ああ……それ、嘘だから」とまるでなんでもないかのように言って、
「ちなみに、俺、
「は……はい……?」
小学校にはまるでいないタイプの人だった。明るい髪色で、口元を歪めるような笑い方をして。制服も着慣れた感じで、ボタンも全部外した学ランの下にはパーカーを着込んでいた。
これが『先輩』というやつなのだな――と漠然と感じながら、その威圧感にすっかり呑まれてしまった。
失礼します、とさっさとその場を去ればよかったのに。足が竦んで身動きが取れなかった。
そんなまりんに構わず、先輩は歩み寄ってきて……得体の知れない恐怖に襲われ、ゾッと悪寒が背筋を走った――そのときだった。
「まりーん!」
地響きを起こしそうな怒号が辺りに鳴り響いた。
ぎくりとして、声のした方を――頭上を振り仰げば、
「どうした!? 大丈夫か!?」
二階の窓から、ひょっこりと見慣れた顔が覗いていた。
彫りが深い顔立ちに、キリッと鋭い眼つき。きっと世間一般では『強面』と呼ばれるその顔を見るなり、ほっと安堵して、ピンと背筋に張っていた緊張の糸がぷつりと切れた……感じがした。全身から力が抜けて、へにゃりとその場に座り込んでしまった。
「まりん!?」と、たちまち、その声は鋭さを増し、「お前……まりんに何をした!?」
「は? 『お前』って……!?」
先輩は途端に思い出したように声を上げ、
「テメェこそ、いきなりなんだ!? 関係ねぇだろ! すっこんでろ!」
「すっこめん! 俺は
「は……なに? お……幼馴染? 幼馴染……だからなんなんだ!?」
「幼馴染は幼馴染だろう! 他にどんな意味がある!? まりん、そこで待ってろ! 今、行くからな!」
「は? 今行くって……!?」
刹那、嫌な予感がした。
ハクちゃんならやりかねない、と瞬時に思った。
ハッとして振り仰げば、案の定、ハクちゃんは窓枠に足をかけ、今まさに降り立たんとしていた。二階から――。
ハクちゃんはまりんとは正反対。病気とは無縁で、運動神経は抜群。屈強な身体はちょっとやそっとじゃ傷一つつかない……ようにすら思えた。
高い木から飛び降りて平気そうにしているのも見たことはあった――けど、さすがに二階から飛び降りたら無傷じゃ済まない。
あわや、複雑骨折!? と血の気が引いた瞬間、
「何してるんだ!?」
野太い声が校舎から漏れ聞こえた。
ちょうど、廊下を通りがかった先生だった。ハクちゃんはすぐさま窓から引っぺがされ、おかげでことなきを得た。でも、他にもその現場に居合わせた生徒がいて、いつの間にか、その騒動は学校中に知れ渡ることになる。『二階から国矢』という諺となって。
『二階から国矢』――その意味は『高良まりんに告白しようとしても無駄に終わる』ということ。
まりんに近づけば、どこからともなく、ハクちゃんが現れて邪魔して阻むから。
そうして、中学を卒業する頃には、ハクちゃんは学校中に『番犬』として恐れられる存在になっていったわけだけど。
その全てのきっかけとなったこの日、まりんは訊いたんだ。その理由を――。
「失礼します!」
昼休みも終わる頃。生徒指導室から出てきて、ピシッと頭を下げるその姿を見るなり、まりんは駆け寄って、
「ハクちゃん! 大丈夫だった?」
「まりん? 廊下を走っては危ないぞ!?」
「今日ばっかりは、ハクちゃんに言われたくないよ! ――先生、なんて?」
「二階から飛び降りてはいけない、と」
「うん……まあ、そうだよね。それ以外に何も言えないよね」
「すっかり頭に血が上った」とハクちゃんは腕を組んで、さすがにばつが悪そうに言い、「――まりんはマネしてはダメだぞ」
「しないよ!」
もお、と頬を膨らまして憤慨しながらも、なんでだろう? てそのとき不意に思ったんだ。
「さあ、早く教室に戻ろう。まりんまで授業に遅れてしまっては大変だ」
そう優しく促し、身を翻したハクちゃんに、
「なんで……血が上ったの?」
ぽつりと、そう訊ねていた。
「ん? 何がだ?」
きょとんとするハクちゃんに聞き返されて、何か……かあっと込み上げるものを感じた。小恥ずかしいような、照れ臭いような。胸の奥がモゾモゾして、落ち着かない感じ。
何を訊いてるんだろう? て自分でも思った。そう思いながらも、引くに引けなくて、「えっと、だから……」と目を泳がせながらまりんは続けた。
「なんで……飛び降りちゃいそうになるほど、頭に血が上ったのかな、て……」
「ん? ああ、そりゃあ……」
ちょうど、チャイムが鳴り始めたときだった。それに少し気を取られながらも、ハクちゃんは当然のように言ったんだ。
「奪われたくないと思ったから――」
「へ……」
ドキリとした。
ふわあって胸の奥で花でも咲き誇るような。一気に心が華やぐ感じがした。
『奪われたくない』、て――。
「それって、つまり、まりん……」
「ああ。まりんの財布だ」
「え……!?」
財布?
夢見心地だったところを、ガンと思いっきり頭でも殴られたような衝撃だった。
「お……お財布って……まりん、持ってきてないけど……」
「やっぱりか! 俺もそう思ったんだが……まあ、財布が無い、と知って、あの男が大人しく引き下がる保証も無い。何はともあれ、まりんが無事でよかった」
心から安心しきったようにまりんを見つめるハクちゃんの眼差しに、やっぱり胸の奥で疼くものを感じた。
ぽわんと温まるようで……キュウッと締め付けられるような感じ。嬉しいようで、寂しいような。言い知れない憤り。
ああ、そっか。先輩と二人きりでいるまりんを見て……悪い人に絡まれている、と思って、ハクちゃんはまりんの身(とお財布)を案じてくれたんだ。――それは、至極当然というか。ハクちゃんらしい動機だった。
それなのに、そのとき、まりんは『ありがとう、ハクちゃん』って素直に言えなかった。
今なら分かる。
あのとき初めて感じた『憤り』の正体――まりんはがっかりしたんだ。
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