第2話 クビ宣告
結局、その姿を見つけたのは西校舎の四階だった。
まりんが吹奏楽部で三年間過ごした音楽室。毎日のようにフルートを吹くその姿を覗きに来たものだ。そんな思い出深い教室で、向かい合う男女の人影があった。
ピアノの傍らで佇む、学ランの男とセーラー服の少女。
扉の小窓から覗く俺の方からでは、男の顔しか見えないが……それでも、その後ろ姿だけで俺には十分だった。
「まりん!」
ガラッと勢いよく扉を開けて駆け込む。
すると、男はぎょっとし、少女は肩をびくんと震わせてからゆっくりと振り返った。
小柄で華奢で。その身に重々しい紺のセーラー服を纏った姿は、なんとも儚く慎ましく。出会った頃と変わらぬ真っ白な肌は、まるで雪のよう。窓から差し込む陽の光で溶けてしまうんじゃないか、とさえ思える。
胸まである長い髪は――彼女は癖っ毛だ、と嫌がるが――ふわふわとウェーブがかって、その顔立ちはあどけなさをたっぷり詰め込み、ぱっちりとして澄んだ瞳は硝子玉を嵌め込んだかのよう。もはや、その背に翼が生えていないことに違和感を覚えるほどの――圧倒的な尊さ。
そんな彼女が、音楽室でよく分からない男と対峙しているこの状況。幼馴染たる俺が取るべき行動は一つ――。
「大丈夫か、まりん!?」
くわっと目を見開き、まりんの元に駆け寄ろうとした、そのとき。
「ひいっ!」と情けなく裏返った悲鳴が辺りに響き、「
「は……?」
確かに。俺は国矢白馬だが。
ぴたりと足を止め、改めて、そいつを――まりんの向こうで、『ムンクの叫び』の如き表情を浮かべる、ひょろりと痩せた男を睨みつける。
俺と同じ学ランを着て、校舎の中にいるのだ。卒業生か、在校生には違いない。しかし……別に見覚えはない。フルネームで呼び合うような仲になった覚えなどないのだが。
なんて……怪しいやつだ。
「なんなんだ、お前は!?」と俺は検事よろしくビシッとそいつを指差し、声を荒らげる。「まりんに何の要件だ!? この晴れの日に、わざわざまりんに四階まで階段を登らせるなんて、どういうつもりだ!? まりんと記念撮影をしよう、と校庭で待ちかねているまりんのお友達とまりんの親御さんの身にも――」
「な……なんでもないです!」
追及する俺の言葉を遮り、そいつは新兵のように背筋を伸ばして声を張り上げ、
「高良先輩……その、お……お元気で!」
それだけ言って、「あ、待って」と寛大にも呼び止めるまりんの声も無視して去っていく。
高良先輩――ということは、後輩か。
なんだ。別れの挨拶をしたかっただけ……か? それにしても、個別に四階まで呼び出すとは……どうなんだ? やりすぎじゃないだろうか。
どうも引っかかる。
横を通り過ぎようかというそいつをきっと睨みつけると、そいつは「あわわ」と青ざめた顔を伏せ、逃げるように去っていった。「本当に『番犬』来るんだ〜」とよく分からないことを呟きながら……。
「なんなんだ?」
振り返り、階段を駆け下りていくそいつの背を見送っていると、
「ハクちゃん!」
ぴしゃりと叱りつけるような鋭い声が飛んできて、ハッとして振り返る。すると、まりんがぷりぷりとした顔で、俺のほうへと歩み寄ってくるところで。
「今の、吹部の後輩の貝塚くん! 大事な話がある、て呼び出されたの!」
「大事な話?」
「そう。大事な話!」
俺の目の前まで来て立ち止まると、まりんはいじけたように唇を尖らせ、腕を組んだ。
身長175の俺と、155のまりん。その二十センチの差を埋めようと、必死に上目遣いで睨みつけてくる様は、どんなに怒った顔をしていても、ただただ可愛らしいだけである。
切れ長の鋭い目に、威圧感のあるらしい濃い顔立ち(まりん談)。短く切った髪は、生まれつき明るく茶色がかり、まりんを守るために鍛えた身体はがっちりと逞しく仕上がって――そんな俺は、まりん曰く、信号待ちで突っ立っているだけでも、まるで地獄の門を守る鬼の如く。ただならぬ雰囲気を醸し出し、周りに要らぬ緊張感を与えているらしい……。
可愛さの権化たるまりんとは、まるで正反対。月とスッポン――いや、かぐや姫と閻魔大王、とでも言うべきか。
「大事な話ってなんだ? あんな、逃げるように去って……怪しいことこの上ないぞ!」
「そりゃあ、ハクちゃんに睨みつけられて、『何の要件だ!?』なんて言われたら、誰だって逃げるよ!」
「そんなことはないだろう」
「そんなことあるでしょ! いっつもそうでしょ!」
ぴっと人差し指を立て、まりんは俺の鼻先に突きつけてきた。
「わたしが誰かと二人きりになると、必ず、ハクちゃんがどこからともなく現れて、皆、追い払っちゃうんだから! おかげで、『大事な話がある』って呼び出されても『大事な話』までいかないんだよ!」
そうだったのか――。
「それは悪いことをしたな」とガシガシ頭を掻きながら謝り、「これからは、静かに傍で控えることにするな」
「お控えなすっちゃダメなの!」
もう、ぷんぷん! といった勢いで、両手を握りしめて、まりんは精一杯大声を張り上げた。
「ハクちゃん、学校で何て言われてるか知ってる? 『まりんも歩けば、白馬に当たる』だよ!?」
「なんだ、それは。言い得て妙だな」
感心してハハッと笑う俺に、「笑い事じゃないよ!」とまりんは顔を真っ赤にして声を荒らげ、
「ハクちゃんは嫌じゃないの? 気にならないの!?」
「何がだ?」
「何がって……」
「別に誰に何を言われてもいいだろう」
ふっと苦笑混じりにため息吐いて、ぽん、と俺はまりんの頭に手を置く。
「まりんが……こうして無事ならいいんだ」
ちょこんと目の前で佇むその姿を目に焼き付けるようにして見つめ、噛み締めるように呟くと、
「はぐうっ……!?」
「な……どうした、まりん!?」
妙な呻き声を漏らしたかと思えば、胸を押さえてくるりと背を向けるまりん。
無事――じゃないのか!?
「さっきの奴に、変なきび団子でも食わされたか!?」
「変なきび団子って何!? 食べないよ――って、違うよ! 貝塚くんじゃなくて……ハクちゃんだよ!」
「俺……!?」
どういう……ことだ? 俺が一体、何を……!?
「俺が何をしたと……!? まりんに何かした覚えなど、何も無いのだが……!?」
「そうだよ! ハクちゃんはまりんに何かしたりしないよ!」
「ああ、その通り。なぜなら、俺は幼馴染……」
「分かってる――だから嫌なの!」
「は……?」
なん……だって? 何が……嫌だと?
意味が分からず、ポカンとしていると、
「もう……嫌なの」とまりんは呟くように繰り返し、ゆっくりとこちらを振り返った。「もう……こういうの、嫌なの……」
「こういうの……?」
まりんは――興奮したせいか――赤らんだ顔を切なげに歪め、水面のように揺れる瞳で俺を見つめていた。
そして、意を決したようにすうっと息を吸い、
「だから……今日で終わり! ハクちゃんは今日をもって、幼馴染、クビです! これからは、ただの同中だから!」
「ぬあ……!?」
なに――!? というその叫びが、果たして声になったかすら、俺には分からなかった。
「どういう……ことだ?」
そういうことだから、サヨナラ! ――と捲し立てるように言い捨て、まりんは音楽室から逃げるように去ってしまった。
残された俺は、ただ、呆然と立ち尽くすことしかできず。
今、起きた出来事が信じられなくて。まりんの言葉が信じられなくて。まさか……幼馴染をクビになる日が来るなんて、夢にも思っていなかったから。
というか……幼馴染歴、早十年。幼馴染をクビになることがあるなんて知らなかった。
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