第4話 血筋
河辺鈴明は四年前に父を失った。
鈴明の父の実家は、瀬戸内海に面した土地の旧家だった。江戸時代には網元であったといい、いわば地域の名家だったという。
父はそこのひとり息子だった。そのかれが鈴明の母と結婚しようとしたとき、身内じゅうが反対したらしい。
同居することを条件に、父はようやく母との結婚を両親に認められた。
なぜそこまで反対されたのか、いまもってわからない。
母は身寄りがいない孤児同然の身の上でこそあったが、けっして、そこまで嫌われるようなひとではなかった。
つねに控えめで、子供のこと以外は、どのような言いがかりをつけられても黙って耐え忍ぶ人だった。
父の死後、母は鈴明と、おなかに宿っていた妹の春美をかかえて地元を離れた。
追い出されたのだと、当時八歳でしかなかった鈴明にもわかっていた。
――おまえのせいであれが死んだんじゃないのか。
――「うそつき」の嫁など迎えるべきじゃなかった。
祖父母や叔父たち……父方の親族は、父の葬式の席で母をなじった。嫌悪と憎しみを満面にたたえて。
面罵されてもうつむいて黙っている母の小さな姿に我慢しきれず、鈴明は母をかばった。泣きながら手をひろげて立ち、おかあさんはうそなんかつかない、と叫んだ。
とたん、嫌悪のまなざしは、鈴明にもそそがれた。
――うそつきの血め。
その週のうちに母は荷物をまとめ、鈴明の手を引いて家を出た。
『おかあさん、わたしたちうそなんかつかなかったよね。おじいちゃんたちおかしいよ』
鈴明の確認に、母ははっきり『やましいことはないわ』と言った。
しかし、哀しげな笑みを浮かべて、こうも言った。
『おじいちゃんたちが私たちを嫌うのには、事情があるの』
『じじょう……』
『大きくなったら説明してあげる』
説明することのないまま、一年前に母は倒れた。働きづめで無理をしたあげくの脳溢血で、それきり目を覚ますことがなかった。
父も母も失って、鈴明は妹とふたりきりになった。
● ● ● ● ●
「ごめん、一日遅れちゃって。昨日なんとかするはずだったんだけど」
山内くんは鶴豆やに連れてきた鈴明にあやまる。
教えてもらった彼女の自宅の電話番号――「夜にはけっしてかけないでください、おねがい」と奇妙な念押しをされた――に、放課後かけたのだ。さいわい鈴明は家にいた。
「べつにいいですけど……このあと、あのパン屋さんに行くんでしょうか。あまり時間がかかることになるのはちょっと。三歳の妹を家に待たせてるのでまずいんです」
鈴明は向かいの席で淡々と言った。
まなざしは伏せられ、関心が薄い口ぶりである。
(この子、なんか……自分のことなのにどうでもよさげだな)
いや、たぶんそういうわけじゃない、と山内くんは気づく。
「山内先輩……ですよね。わたしの疑いを晴らすことなんてできるんでしょうか。だって、これまでだれも、わたしが無実だって信じてくれなかったんですよ。みんなわたしのことを、うそつきだって……。パン屋さんだって、わたしを泥棒と決めつけてました。今日行ったら、奥の部屋に閉じこめられて何時間も怒られることになるかも」
この子はあきらめている。期待を抱かないようにしている。
反射的に山内くんは言っていた。
「僕は信じる」
彼女の背後にふわふわ漂う毛玉を見つめる。
今日もそいつはそこにいるのだ。
(いっそ、僕自身がこの毛玉をどうにかできないだろうか)
山内くんは「見鬼」だ。常人の目に見えないものが見える。やろうと思えば怪異を自分の手で解決することができるかもしれない。
しかしそれは、紺にはいましめられている。
『生きるか死ぬかという場合ででもないかぎり、決してあの人食い神の力を使おうとするな』紺はかれにデコピンしながら、厳しく言い渡したものだ。『ぜったいにだぞ。今後、あの神の力を借りれば、それだけおまえは「向こう側」に近づくんだ。生きている人間が踏み込んではならない彼岸へと。
山内くんはため息をついた。やはり紺を待つしかない。
「盗んだのは君じゃない。それを確信してるし、なんとかしてみせる」
もういちど言い切って鈴明に顔を戻すと、鈴明は目を見開いていた。おどろきの表情は一瞬で、彼女はすぐに目を暗く伏せ、「……ありがとうございます」とぼそりとつぶやいた。
山内くんはすこしでも励ましたくて、言葉を継ぐ。
「僕の知り合いがもうすぐここに来る。頼りになるやつだから、なんとかしてくれる」
結局、昨日は紺が恥ずかしがって逃げてしまった。山内くんは鶴豆やの勘定をすませると彼女を追ったのだが……運が悪かった。
大手前公園で追いついた山内くんが見たのは、瀬知子さんにつかまって気まずそうにしている紺だった。
清麗のOBで、現代短歌を教えている瀬知子さんは、紺の下宿先の大家さんである。
『偶然ね。短歌教室が終わったのでこちらに買い物に出ていたのよ。そうしたら紺さんを見かけまして』
『山内くんもおひさしぶりね。またうちにお茶を飲みにいらっしゃいな、美味しい葛切りがあるのよ』
『ところで、もうそろそろうちの門限も近いのだけれど……紺さんになんの用があったのかしら?』
なにしろ瀬知子さんは、紺を清麗にふさわしい一人前の淑女に矯正してみせると意気ごんでいる。
瀬知子さんとも面識のある山内くんは、比較的無害な「友達の男の子」というポジションで紺に近づくことを許容されている。しかし、それ以上の関係だと……不純異性交遊だと認定されれば、「卒業するまで君とあの子は会わせません」と瀬知子さんは言い出しかねない。
というわけで山内くんは、笑顔の瀬知子さんの監視の前で紺と話すはめになった。くわえて紺がまだ動揺をひきずっており、微妙にぎこちない態度であった。そのせいで瀬知子さんの疑いのまなざしはいよいよ鋭さをまし、山内くんは背に汗をかくことになった。
むろん『さっきはいかがわしいことしようとしたわけじゃないから。あと君に告白してないから』などと言いだせるわけもない。
翌日あらためて(常識的な時間に)会うことを約束するだけでせいいっぱいであった。
(あんなハプニングで解決を一日遅らせちゃったのが惜しい)
山内くんはすするコーヒーの苦さを噛みしめる。
紺が来たのはそれからすぐだった。
「悪い、待たせたな」
入り口のベルが鳴る音とともに彼女の声がして、山内くんはふりむいた。
「鈴明さん、こちらが僕の友達……の……」
開いた口がふさがらなくなって言葉が消える。
「はじめまして、山内からだいたいの話は聞いてる」
「オレは山内の同級生のコン太。よろしく」
にっこりして鈴明に自己紹介した紺は、賢真学院――山内くんの通う男子校――の学生服に袖を通していた。
言うまでもなく学生服は男物だ。
早熟にはりつめた胸のふくらみにはさらしをしっかり巻いて、ボリュームを隠しているようだった。本格的な男装。
黒い長袖制服でここまで来るのはさすがに暑かったのか、彼女はやや汗ばんでいる。だがその涼しげな美少年っぷりは、服装の暑苦しさを、そばで見る者にいっさい感じさせない。
さすがに生まれてからずっと
(こ、こいつ……また僕の家によって学生服の控えを持ちだしてきたな)
〈陰陽校舎事件〉で彼女は男装して賢真学院に乗りこんできた。そのとき味をしめられたようで、たまに山内くんは紺に学生服を
(そりゃ、その格好なら清麗の生徒だとはわからないから便利かもしんないけどさ!)
うめく山内くんにかまわず、紺は椅子をひいてきてかれの隣に座った。
ぺこりとおじぎする鈴明に、彼女はほがらかに話しかけはじめる。
「まず、いろいろ確認させてもらうからな。どんな質問でも正直に答えてくれるか?」
「は……はい」
「手にとった覚えのないものが、気がつくと身の回りにある。それを盗んだだろうと周囲の人には責められる――だったな」
「はい。そうです。あの、わたし変なこと言ってると自分でも思いますけど、ほんとで……」
「疑っちゃいないさ。それで、そういう形で手に入れてしまうのは、『自分で盗んだわけではないけど欲しいと望んだ』ものばかり?」
鈴明がうつむく。「はい」
「たとえば? どんなものがいままで身の回りに引き寄せられた?」
「なんでも。新しい消しゴムやペンや、おやつや、それにお金……いちばん厄介なことになったのはお金を引き寄せてしまったときです。おばさんのお財布がいつのまにかわたしのポケットに入ってたり。クラスの給食費が袋ごと机のなかに入ってたこともあって」
鈴明の吐露に、山内くんは内心首をかしげた。
彼女はそれらのものを、欲しいと望んで引き寄せてしまったのだという。
しかし鈴明という少女は、物欲や金銭欲がとりたてて強いようには見えなかった。
(なにか事情でもあるんだろうか)
紺がまた聞く。
「特別な相手の持っていたものだけ引きよせてしまうとか、そういうパターンはあるか?」
その問いに対しては、鈴明は首をふった。
「持ち主を選んでないと思います。
お店で『そうなっちゃう』ことが多くて……えっとですね、たとえば図工の授業で使わなくちゃいけないから絵筆や絵の具買いに行くんです。けど、消しゴムもシャープペンシルの芯も切らしてて、あれもこれも買わなくちゃってなって。そうしたら、油断してるとポケットやかばんに入ってるんです。
友達……だった子が家に呼んでくれたとき、お気に入りのぬいぐるみを見せてくれて、それをかわいいなって思ったことがあって。家に帰ったらぬいぐるみがランドセルに入ってました。翌日持って行って返したけれど、その日からはもう友達じゃなくなっちゃった。うらやましいと思いこそすれ、盗もうだなんてぜったい思ってなかったのに」
それまで鈴明は顔を青ざめこそさせていたが、その話しぶりは感情を抑制したもので、冷静だった。しかし友達を失ったときの話では、さすがに涙の気配をにじませた。
顔をあげて、鈴明は紺に逆にたずねる。
「わたしが浅ましく欲しがったから、手に入ってしまってるんですよね……?」
「浅ましいかどうかはさておき、話を聞くかぎりそうだな」
明快な答えを返されて、鈴明は青ざめた。否定してもらえることを心のどこかで期待していたのだろうと思われた。
「じゃあやっぱり、わたしが悪いんでしょうか……」
「いい悪いはいま考えなくていい。責任がどこにあるのかは後回し。くよくよ悩まず、オレの質問に答えていって」
「はい……すみません」
冷たいとすら思える紺の態度に、山内くんはつい口をはさみそうになる。
紺、もうすこし優しくしてあげても、と。
だが紺はかれに顔を向けて口出しを封じた。
「山内。オレはこの子を責めてるわけでも、傷つけようとしてるわけでもねーからな。起きてることをはっきりさせておかないと、なにが原因でそんなことになってるのかわからない。どう対処すればいいかも」
そこでちらりと、宙に浮いた毛玉へと目線をやる。
「だいたいは予想がついてるけどな」
「君にもやっぱりあれ見えてるんだ。あれがなんなのかわかったの?」
「だいたいはつったろ。いま事情を聞いて、考えられる可能性を絞りこんでんだよ。
というわけで続けるぞ、鈴明ちゃん」
「は、はい」
毛玉が見えない鈴明には、いましがたのふたりのやりとりはわけがわからないはずであるが、彼女は従順にうなずいた。
冷徹ではあるがはっきりしている紺の手ぎわに、彼女はかえって信頼を抱きはじめたようだった。
「じゃ、次は聞きにくいこと聞くけど」
紺は、山内くんも気になっていたことをずばりと聞いた。
「そういうふうに何度も『人のものを欲しがる』ことって、めずらしいよな」
「そう……ですか」
「固くならなくていい。イヤミじゃねーよ、ふしぎなんだ。
鈴明ちゃんはそう思ったことが原因で何度も痛い目にあってるだろ。普通は懲りるんだよ。怖くなって、無意識にでも考えまいと気をつけるようになっていく。
でも鈴明ちゃんは何度も万引き騒ぎを起こしてしまった。それだけ何度も『これが欲しい』と思っちまったわけだろ。
オレはこれでも、だいぶ人の相談に乗ってる。なかにはどんだけ痛い目にあっても懲りない、ギトギトの欲望を捨てらんない子供だっていた。でも君はそういう欲望の強いタイプの子には見えねーんだよな」
「…………」
「なにかあるの、人のものを欲しがるようなせっぱつまった理由がさ?」
紺が柔らかい口調でうながすと、鈴明は首をすくめた。
それから、恥ずかしそうに言った。
「生活費をおむつ代やごはん代にまわすと、いろんなものが買えなくなって」
「へ?」
「妹が、いま三歳なんですけど、ちょっとしたことでおもらししちゃうようになってて。おむつを買わなくちゃいけないんですけど、そうしたら妹とわたしのぶんのごはん代が足りなくなるんです。えんぴつや靴下も買わないといけないし」
すこしの沈黙ののち、
(……ん?)
山内くんはもぞもぞと座り直す。
いまなにか、異様なことを聞いた気がする。
横を見れば紺もあっけにとられた表情になっていた。
山内くんは身を乗り出して、初めてかれ自身が質問した。
「ごはん代? どういうこと? 君が家計やりくりしてるの?」
とほうにくれた様子で鈴明はかれを見る。
「あの、わたしと妹ふたりあわせて、一ヶ月五千円です。それで自分たちで用意して食べろって、
それ以上はお金もらえないので、五千円のなかから最低限必要な文房具や新しい衣類も買ってます。
前はおばさんが食事作ってくれてたんです。けど、わたしが何度も万引きで捕まると、おばさん怒っちゃった。
『悪い子』のわたしたちにおばさんは関わってこなくなったので、わたしが自分と妹のぶんを作るようになりました。最近はうまくやりくりできるようになったんですけど……こんどは、妹のおもらし癖がなんでかひんぱんになっちゃって、それでまたきつくなってきました。紙おむつ買わなくちゃいけなくなって。
……お腹すいた状態でお店に行くと、食べ物を『引き寄せちゃう』ことが多くなるんです。ですから、注意してるんですけど……今回騒ぎ起こしちゃったあのパン屋さんに行ったときは、給食のおかげでおなかすいてなくて、それで油断しちゃってました。
あのパン屋さん、美味しそうなお菓子パンいっぱい売ってるから危険です。でも、パンの耳をすごく安く売ってくれることあったから、つい通ってて……もう行けないことになると困るかも」
「ちょっと待って……」
山内くんは吐き気に近いほどの気持ちの悪さを覚え始めている。
あまりに筋の通らないことを目のあたりにしている感覚。
(食費、一日ひとりあたり百円以下?)
女の子ふたり、しかも片方は幼児だ。そう多くは食べないだろう。
平日は給食がある。最悪でも餓死はないだろう。
そういうことを差し引いても、これは……
節約術を知らない小学生に、ぎりぎり足りるかどうかのお金を丸投げして、幼い妹の面倒を見させて放置するというのは、山内くんの感覚では決して筋の通った話ではなかった。
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