あの教室

 今日の授業の体育で使った体操服を教室に忘れたのを思い出し、一緒に帰る予定だった彼氏とは時間の都合がどうしても合わず玄関で別れた。4階にある自分の教室まで気乗りしない気持ちと鉛のように重たい足を動かしちんたらと上がるが、のぼりっきたとことでやっと気が付いたすすり声。夕方でまだ眩しいほどのオレンジの丸があったとはいえ、流石に鳥肌ものだ。恐怖を若干感じながらも橙の廊下を渡った。自分の教室に向かうとだんだんと大きくなってくる声。間違いなく自分の教室からだ。補習?部活動で使うことなんてあったか?ただ自分は体操服を取って帰らなければ楽しみにしていた歌のスペシャルライブ番組に間に合わない。そのためだけに好奇心と逸る気持ちを抑えつつゆっくりと開けっ放しのドアからこっそりのぞいた。


 そこで彼は泣いていた。


 クラスメイトは誰もいない。グラウンドから聞こえる部活生の掛け声と金属とボールがぶつかる音が鳴り響く。

 一番左から2列目、前から5番目の席に彼はいた。

 こなれた着崩し学ランにダークグリーンにブラック、レッドのアクセントが入ったマフラーを鼻のあたりまで巻き付けているのが特徴的だ。名前は確か、山本 圭太。成績普通、友人関係もそこそこ広い。ルックスもいい(らしい)どこにでもいる普通の学生。黒髪でセットしなれた少しつんつんした髪の毛が女子受け高く隠れた人気者でもある。まさかこんな一面を見れるとは思わず、つい見ほれた。別にタイプの人間だとか惚れたとかいうわけでもなく涙を拭かず垂れ流し続けるその様子があまりにも様になっていた。椅子に浅く腰掛け、背もたれにひっくり返そうな程体重をかけたまま天井を見上げていたのが本当に絵になる。きっと有名写真家が撮ればそれなりの作品になりそうだ。

「くしゅん」

 静かな教室に彼のくしゃみがこだました。何と可愛らしいものか。今日は想像を超えるものをたくさん見つけてしまったようだ。だがこのまま教室の外から一部始終を見守る私ではない。早く帰りたい。今日1日の収穫はもう十分だったため、教室から少し離れ鼻歌を歌いながらさも今来ましたよと言わんばかりのふりをして教室に入り、その体勢を維持し続ける彼に声をかけた。

「あれ、帰らないの?」

 あえて涙を流していることには触れず、いつも通りに。

「あ!荒田?…どうした、忘れ物したのか?」

「あ、うん!体操服を忘れちゃってさ。」

「そうか!てか寒っ早く帰ろっと」

 よほど見られたくなかったのか突然立ち上がりその勢いのまま回れ右。どんな表情をしているかはこちらからは見えないが彼の声は空白の多い教室を巡った。彼はきっと思い更け涙を流していた。教室の窓全てを全開にしていたことに気が付かないほどに。平然を装う声は上ずり、鼻をすする音はさっきまで泣いていましたと自己申告しているようなもの。彼はこれでも隠し通せていると思っているのだろう。そんな一面がまるで幼い弟かのようだ。私は一人っ子だがもしいたらきっとそうだ。

とりあえず、自分の席に行き体操服をとると教室の窓を後ろから占める彼の手伝いを反対側から始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る