実践的ボランティア選択/長月 州
R&W
実践的ボランティア選択
1
ボランティアセンターを初めて訪れた鶴瀬亮一に、静田弥生はのんびりと訊いた。
「それで、どんな活動をやりたいのかなぁー?」
ボランティアセンターは市役所の東庁舎に隣接したビルにあり、亮一は大通りに面した自動ドアからビルへ入った。吹き抜けのエントランスホールを横切り、奥のエレベータで七階に上がると、ボランティアセンターと表示された扉があった。
おずおず扉を押し開け、眼があった職員に来意を告げると、会議スペースで待つように言われる。壁面に貼られた二〇一九年五月のボランティア募集を眺めていたら、後に人の気配を感じ、振り返ると、低い壁の上に真丸い笑顔が浮かんでいる。驚いて立ち上がろうとしたところ、笑顔の主の弥生に手で制された。
弥生は会議スペースに入ってくると、ためらいなく亮一の真横に座った。肘と肘が触れるほど近い。
思わず亮一の体がこわばる。もし、これが美人だったなら胸も騒いだことだろう。しかしあいにく世の中そんなに甘くなく、弥生は顔付きも体付きつきも、ころころ丸くふくよかだ。絶対善い人だ、と多くの人はいうだろうが、綺麗な人だね、とはまず言わない。醸し出す雰囲気が行きつけのクリーニング店のおばあさんに似ている。けれど年は三十後半ぐらいだろう。いやいや、そんなことはどうでも良い。女性目当てに来たわけではない。目的があってきたのだ。
亮一は簡単に自己紹介してから、どんな活動がやりたいの、という弥生の質問に威勢よく答えた。
「ボランティア活動をやりたいんです!」
「そうなの。そりゃそうよね。だってここはボランティアセンターだもんね」
目元に笑い皺を浮かべ、弥生はクリーニングを出しに来た近所の奥さんと世間話するみたいに言った。
亮一は少しむっとした。もちろんここがボランティアセンターなのはわかっている。十年以上住んだ東京から先月愛知の実家に戻ったのを契機に、ボランティア団体を作ろうと決心したのだ。それでいろいろ調査して、市の社会福祉協議会の中にボランティアセンターが設置されているとわかり、こうして訪れているのだ。
「ボランティアセンターがどういう所かはおおよそ調べてきました。ボランティアに関する相談を何でもお受けします、とホームページに書いてあります」
「へぇー。そんなこと書いてあるんだ。何でも、ね。職員の私が言うのも何だけど、ホームページをあんまり見ていないのよ。ふっ、やっぱりネットより紙の情報の方がよくない。だって形があるもの。ボランティアって人と人の関わりじゃない。高齢者とか、パソコンを使えない人もある程度いるわけだし。念のため言っとくと、私は大丈夫よ。――なんて、大したものじゃないけど、書類程度は問題ないよ」
亮一は呆れながら真顔を作った。
「ホームページに書いてあるのは、嘘じゃないですよね」
「もちろんよ。嘘なわけないじゃない。ほんと、嘘だなんて人聞き悪いわね。ただちょっと書き過ぎかもね。でもこういった紹介文って、やっぱり見た人がいいじゃない、とか思わないといけないわけでしょ。だから大げさなのよ。きっと」
胸を張って弥生は続けた。
「さーてっ、嘘じゃない証拠に何でも相談に乗るわよ。で、どんな活動をやりたいのかなあ?」
「だから、ボランティア、をやりたいんです」
亮一はメリハリをつけて言った。
「あのねぇ、一口にボランティアといってもいろいろな活動があるのよ。たとえばね、分野で言うと福祉関係とか、清掃活動とか、まちづくり活動とか、本当にいろいろ。鶴瀬さんはどんな活動に興味があるの? 具体的にこんなことをやってみたいとかある?」
どんな活動――そう訊かれて初めて、具体的な活動をイメージしていないことに気づいた。迂闊にも思えるが、突然芽生えたボランティア団体を作りたいという衝動に突き動されるままに勢いでここまでやって来たのだった。
「活動は特に何でもいいんですけど、自分でボランティア団体を作りたいんです」
「自分で作る? またいきなりね。心掛けは立派だけど、物事には順序ってものがあるよ。例えばまず、そこのポスターにあるような活動から興味のあるものを選んで徐々に始めるとか」
「普通はそうするのが良さそうですね。でもだめなんです。僕の場合。きっと納得できないです」
「やってみないとわからないと思うけど……。でもどうしてそう思うの?」
「えーっと。少し話が長くなるけど、いいですか」
弥生はうなずき、さらに間隔を詰めた。
亮一は一度深く息を吸った。
「東京で大学を卒業した後、とある有名企業に就職しました。七年前です。まわりの友達も同じようだったので特に疑問もなかったです。だけどすぐわかりました。会社勤めに向いてないって。人間関係が煩わしいとか、愛社精神が湧かないとか、残業が多いとか、先輩や上司に魅力がないとか、確かにそういうのはありました。でもそれが原因ではないです。組織の一員である会社員に向いていないって、はっきりわかったんです。それでも一年辛抱しました。だけどやっぱり気持ちが変わらなかったので会社をやめました。迷惑かけた人には申し訳なかったです。仕事が嫌だったのではなく、人に使われるサラリーマンという立場が性に合わなかっただけなんです。身に染みてわかりました。それで一から自分で組織を作ってみたらどうだろう、と思いついたんです」
「そう。ボランティアをやろうなんて人は変わった人が多いのよ。鶴瀬くんもそうね。私もそういう所があるから分からなくはないけど。といってもねえ……」
呼ばれ方がさん付けからくん付けになった。真丸の顔が少し角ばった。
「そんな顔しないで、相談に乗ってください。ボランティアに関する相談なら何でも受けてくれるんでしょう。ボランティア団体を自分で作るにはどうすれば良いですか?」
めげずに亮一は言った。
「まったく、仕方ないわね。そうねぇー、自分で作るとなると今あるものと同じ活動だとやる気のある人はもうそっちに行っちゃってるから、この地域にまだない新しい活動がいいかもね」
「まだない新しいものですか。……それじゃあ、ホームレスの支援なんてどうです?」
「それなら一応もうあるわね。生活保護者の支援という枠組みで幅広くやっている団体が」
弥生は思案顔で続けた。
「新しいのがいいと言ったけど、よく考えると大概の活動があるわね。やっぱりどこかの団体に所属することから初めたらどう?」
亮一はポスターに眼をやった後、しばし瞳を閉じた。
「……ひらめいた! 新しいのが。――あなたのうらみ晴らします、なんてどうでしょう? 他になさそうですよね」
「うらみ晴らします? なにそれ。また斬新過ぎよ。そんなにぶっ飛ばなくてもいいのよ。この地域にまだないやつでいいのよ。それにボランティアなんだから、人のためにならないといけないから」
「うーん、人のためにはなりますよ。きっと。だってうらみをため込んで苦しんでいる人がいるじゃないですか。でも気が小さかったり、相手が怖かったりして何もできない。だからその人たちの気持ち晴らすお手伝いをすれば、ためになるじゃないですか」
「なんか強引な理屈ね」
「昔のドラマで必殺仕置き人ってやつがありましたよね。それの現代版みたいなのはどうです。人は殺しませんよ。当たり前ですけど。それにもちろん違法なこともしません。できる範囲で困っている人の気持ちを晴らすお手伝いをする。まさにボランティアじゃないですか。うん、話していると、どんどん良いアイデアに思えてきました。やる気になってきました」
「いやいや。そうじゃないでしょう。あぶなく説得されそう」
弥生は、くすくす笑った。
「ぜひやろうと思います。間違いなく人のためになります」
亮一はきっぱり言った。
「まあまあ、そうあせらずに。落ち着いてゆっくり考えてみて。他にもいい活動はいくらでもあるから」
弥生は亮一の肩を軽くたたいた。
「そうですね」と亮一は気のない返事をしてから言った。
「なんだかすごくすっきりしました。帰ってもう一度よく考えます。今日は本当にありがとうございました」
「そう、それがいいわ。ホームページにあるように、いつでも相談に乗るからまた気軽にいらっしゃい」
弥生は穏やかにほほ笑んだ。
「はい。ありがとうございます。来てほんとに良かったです。また来ます」
亮一はさっと立上がり、足取り軽くボランティアセンターを後にした。
2
【気持ち晴らし】
心中のわだかまりが苦しい方へ。
あなたの気持ちを晴らす、お手伝いをいたします。
きれいさっぱり、わだかまりを解消し、晴れやかな気分を取り戻しませんか。
ボランティア活動ですので、一切費用は不要です。
個人情報、依頼内容を固くお守りし、秘密厳守いたします。
まずはお気軽に連絡お願いします。
(ご注意事項)
陰湿な復讐はお受けしません。
違法行為はいたしません。
スタッフ人数の関係上、お手伝いできる案件の数には限りがあります。
当面、活動地域は愛知、岐阜、三重の東海三県とさせていただきます。
ボランティア
亮一はパソコンのエンターキーを押し、ホームページをネットに上げた。
ホームページはまずまずの出来栄えで、ボランティア団体設立に向け、これが最初の一歩になる。今は自分一人だけど、活動を徐々に大きくし、賛同する人を募っていけば良い。正直うまくいくかどうかわからないけど、やってみないことには何も始まらないし、考えているだけではだめで、小さなことからでも、まずはやってみることが肝心だと思う。
先日、うらみを晴らす、でグーグル検索するとたくさんのサイトが出てきた。うらみを抱いて悶々としている人が多くいることの一つの証だ。ボランティアと追加して検索すると、合致するサイトはなく、これはいける、と亮一は意を強くした。
検索で見つけたサイトは、『うらみ』を、『怨み』や『恨み』という漢字で表記していた。その字面のイメージは、亮一がやりたい活動とは違う。なので、《気持ち晴らし》のホームページには、あえて『うらみ』という言葉を入れなかった。
翌日、パソコンを立ち上げると五件メールが来ていた。
一件目。『おまえはバカか』
――いきなり、これ。
二件目。『殺してほしい人間がいます。確実に息の根を止めてください』
――まじ? そんなことできる訳ないじゃん。
三件目。『もう学校に行きたくありません。先生ともども学校をまる焼きにしてください。ただちにお願いします』
――なんか誤解しているよ。
四件目。『あほなことすんな』
――これは関西人から。
五件目。『おまえ、死ね。日本も死ね』
――なんじゃこれ。だいぶ古いし。
ため息を吐いて、亮一はパソコンを閉じた。
一週間後、亮一がアルバイトから帰ってパソコンを立ち上げると、新規メールが一五件あった。一件目から一四件目までは相変わらずひどいものばかり。すっかり慣れてしまい、もうため息も出ない。
一五件目に、『別れた夫が養育費を払わず頭に来ています。食費を切りつめても月々のお金に不足し、うらめしさが募る一方です。なんとかこのうらみを晴らしてもらえないでしょうか?』
ようやく真っ当な依頼が来た。うらみを晴らすのを真っ当というと少し違う気もするが、当事者にとっては真っ当な思いに違いない。詳細を聞こうと思った。
『ボランティア
メールを打ち終えたとき、「ただ今」と階下で声がした。自室から一階リビングに降りると、「すぐごはんにするから少し待っててね」と母親の鶴瀬瑤子が言った。
瑤子は亮一が五才の時に離婚し、看護師をしながら、亮一を東京の私立大学にまで行かせた。亮一が会社をやめ、東京でふらふらしていても寛大だった。三か月前に瑤子の母(亮一の祖母)が亡くなり、一人暮らしになった。亮一は四十九日の席で初めて、戻ってこないか、と瑤子に言われた。東京に執着する理由も特になかったので、亮一は瑤子の言葉に従った。
「アルバイトもいいけど、正社員も考えてみたら」
いつもの話が始まりそうだ。
「いずれね。でもしばらくはこのままでいいんだ」
「いずれって、正社員になるなら、早いほうがいいよ。何才になると……」
「あっ、電話だ」
亮一はタイミングの良い電話に感謝し、瑤子の話を断ち切った。
階段を上りながらスマホ画面を見ると非通知で、亮一は、「はい」とだけ答えた。
「《気持ち晴らし》の鶴瀬さんですか」
「あっ、はいっ」
「さっきメールを頂いた中島といいます」
「あっ。そうですか。はい」
メールで返事が来ると思いこんでいて、心の準備がなかった。電話で、しかもこんなに早くなんて。情けないことに声が上ずった。落ち着け、と念じスマホをしっかり握り直す。
「電話ありがとうございます。別れた旦那さんへの対応ですね。話せる範囲で構いませんので、いきさつなど教えて下さい」
亮一がそう訊ねると、中島はやや早口で説明した。
中島は現在二七才。二十才で結婚し、翌年子どもを授かる。二五才で夫の浮気が発覚し、離婚。親権は中島にある。養育費は、離婚後半年間だけしか支払われなかった。いくら督促してもなしのつぶて。先月偶然出くわした共通の知人から、元夫の再婚予定を知った。結婚する余裕があるなら、養育費を払ってほしい。こちらだけが日々の暮らしにも事欠くのは納得がいかない。うらめしい気持ちを晴らして欲しい。
「おおよそわかりました。依頼をお受けします。今後、個人情報など重要なことを共有することになります。信頼関係が大事です。元の夫の詳しい情報も必要です。一度お会いして話させて頂けますか?」
言葉を選び亮一がそう言うと、中島は一呼吸置いてから言った。
「わかりました。必要なことだと思います。最後にひとつ教えていただけますか。どうして鶴瀬さんは気持ちを晴らす活動をボランティアでやっているんですか?」
「心の中にわだかまりがあるのはとてもつらい、と身に染みてわかっています。その気持ちを晴らすお手伝いができれば、僕自身、幸せな気持ちになれるんです」
もちろん本心ではあるがそれだけでもない。自分でもうまく言えないし、わかっていないような気もした。
中島と会う日時と場所を決め、亮一は電話を切った。
3
鳴海駅近くのコメダ珈琲店は、八割方席が埋まっていた。初めて入る店だが、コメダはどこも似た作りで、ソファ席で落ち着いて話できる。愛知県人の第二のリビングと言われるだけのことはある。亮一は入口近くの席に腰を下ろした。コーヒーを注文すると、ナッツが付いてきて愛知に帰ったのを改めて実感する。
約束の時間を二十分過ぎても、依頼者がこない。いたずらだったのかと思い出したころ、入口の扉が勢いよく開き、初夏の眩い光を背に、慌ただしく女が入ってき、店内を見回した。
亮一は立ち上がり、声をかけた。
「中島さんですか?」
女は一瞬戸惑い、返事した。
「えっ、はい」
「こんにちは。ボランティア
さわやかに亮一は言った。
「すいません。遅れてしまって。事故があったみたいで、バスが全然こなくて。あせりました」
「いいです。いいです。そんなに待ったわけじゃないですから、気にしないでください。――まあ座りませんか?」
女はソファに腰掛け、ハンカチで額をおさえた。うっすら顔が上気している。面長で大きな瞳は湿っぽく、鼻と口がやや大振りだ。
「電話ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
女はしきりにハンカチを使う。緊張しているのだろうか。亮一は本題に入る前に、久しぶりに愛知に戻るとコメダの良さが改めてわかる、とたわいない話をしてみた。
女は時々、唇をなめた。注文したオレンジジュースが届く。グラスにすらりとした指を添え、ストローを口にする仕草がどことなく艶っぽい。
「それでは依頼の話を始めていいですか?」
意を決したように女が亮一を見つめる。
「実は……メールには中島と書きましたけど、本当は川出真希といいます。すいません。偽名なんか使ってしまって」
「そうですか。やっぱり不安がありましたか?」
「はい。メールするにもずいぶん勇気が要りました。うらみを晴らす、なんて普通じゃないし、申し訳ないですけど信用できるかもわからないし、それで少しでも怪しいと思ったらすぐにでもやめようと思って。でも電話で話して、こうしてお会いして、心を決めました。相談しようって」
「正直に言っていただいて、ありがとうございます。それじゃあ改めて話を聞きなおした方がいいですね」
「いえ、電話で話したのは、偽名以外は全部本当です。娘は莉緒といい、元夫は日坂蒼介といいます」
「ありがとうございます。それでは、日坂さんについて教えてもらえますか?」
真希は淡々と要領よく説明した。亮一は時折簡単な質問を挟むだけでよかった。
日坂は、現在三三才。東海三県が地場の居酒屋グループの社員。二年前の離婚時は、新栄店の店長だった。住所は名古屋市中川区中村本町×××一〇四号。童顔で人当たりがよく一見誰にも好感を持たれるタイプ。ただ反面、親しくなるにつれ顔だけでなく性格にも残された幼児性にいやでも気づく。興味がない人の話をまったく聞けないだとか、思い通りにならないとすぐ不満を言うだとか、仲間でつるむのが好きだとか、そういったことらしい。
「どういう、うらみでしょう?」
亮一は端的に訊いた。
「とにかく許せないんです。浮気男と結婚してしまったのは、自分が浅はかだったとあきらめもつくんですけど……。離婚の時に約束した養育費を払わないなんて。強制的に払わせるには離婚協議書だけではだめで公正証書が必要なんです。そのときは別れたい一心で、そういうことを知らなかったんです。向こうが養育費を払うと言ったので、とにかく早く離婚しようって」
「そうですか。精神的に大変なときに、なかなかそこまで頭が回らないですよね」
「……何せ初めての離婚でしたから」
店内はほどよく冷房が効いているが、真希はまたハンカチで額をおさえた。何度目かの唇をなめ、赤い口紅がついたストローを口にした。喉を潤すと顔をゆっくり上げ、上目づかいで言った。
「これで次はうまくやれるわ。お金持ちと結婚してがっちり慰謝料をもらうの」
冗談に違いないが、それだけでもないような感じがし、亮一はうまく笑えなかった。
「経緯はわかりました。それで具体的に、どうしたいとかあります?」
「日坂の結婚相手に、約束した養育費を払わない男だって知らせて欲しいの。日坂の本当の姿がわかるわ」
「わかりました。やってみます。他にはどうしましょう?」
「それだけです」
「それだけでいいんですか?」
「はい。それだけです。結婚相手への見栄で、ええかっこしいの日坂はしぶしぶでも養育費を払うような気がします」
亮一は背筋を伸ばして言った。
「わかりました。確かに依頼をお受けします」
真希は妖艶にも見える微笑みを浮かべた。
4
テレビ塔近くの雑居ビル内の居酒屋で、鶏の唐揚げを前に、亮一は生ビールを飲んでいる。カウンター越しに見えるキッチンで立ち働いているのは八人程度。ときどき指示を出しているのが日坂だろう。もみあげから顎にかけて髭があるが、それでも童顔に見える。見た目からでは、悪人とも善人とも区別がつかない。わかりきったことだ。それでは何のためにやってきたのか。亮一は相手の顔すら見ないでうらみ晴らしをするなんて、とてもできなかった。
日坂を目にしても、やる気は増しも減りもしなかった。額に汗して働く、ごく普通の居酒屋の店長に見える。養育費くらい払えるだろうに、きちんと払えば良いのにと思った。
中年二人連れが店に入ってき、亮一の二つ向こうの席に座った。会社の飲み会からの流れのようで、身振りを交え、職場の悪口を言い合っている。大柄な方の男が振り上げた手が、通りかかった店員にあたり、運んでいたビールがこぼれ、男にかかった。すかさず店員が謝るが、男は大きな声で怒り出した。
トラブルに気づき、日坂がやってきた。口調は丁寧だが、座った眼で男を見据える。童顔とあいまり不気味な迫力がある。男は気押され、ぶつぶつと何かつぶやきながらもおとなしく飲み始めた。
キッチンへ戻り掛けに日坂は、「ご迷惑をおかけしました」と亮一に声をかけた。「いえ、いえ」と笑顔で亮一が言うと、二割引きのサービス券をくれた。
日坂の結婚相手の名前が判明した。真希の知り合いが、式に出席する友人からそれとなく聞き出した。名前から連絡先を調べるのは容易かった。SNSが発達している。
亮一はシンプルに事実だけを知らせることにした。匿名で連絡しようかとも思ったが、本名を名乗ることにした。そうしないと信じてもらえないと思った。
『突然のメールで失礼します。鶴瀬亮一と申します。大変恐縮ですが、一つお伝えしたいことがあります。もしかしたらいやなお気持ちになるかも知れませんが、ご容赦お願いします。あなた様に対する悪意はまったくありませんし、あなた様を貶める意図などもありません。何かを要求するものでもないです。あなた様以外の他のどなたにも、一切何の連絡もしません。ただ一つの事実だけをお伝えさせてください。
日坂蒼介さんは二年前に離婚されました。子どもの親権は別れた妻が持ち、日坂さんは養育費を支払うことにとなりました。ですが別れた妻からの再三の督促にも関わらず、一年半前から養育費の支払いがなされておりません』
亮一は送信ボタンを押した。達成感のようなものはない。これでうらみが晴らせたのか? 実感はない。ほんとうに人の役に立ったのだろうか。とにかく真希の依頼をきっちりやったことだけは確かだ。
依頼事項を実行した、と真希にメールした。エビデンスに、日坂の結婚相手に送信したメールの写しもつけた。
亮一はアルバイトを気に入っていた。電化製品の配送、取り付け、故障品回収、不要品買い取りの仕事で、朝早くから夜遅くまでの対応が売りだった。店長と五人の従業員。あと亮一以外にも十人程度のアルバイトがいた。体力があり時間に自由が利く亮一にとって、働きたい時にたくさん働け、休みたい時は柔軟に休めるのが好都合だった。
アルバイトの合間に次に請け負う案件を検討した。日々いろいろなメールが入ってくる。相変わらずのいたずらメールは無視し、有望な案件に問い合わせを入れるが、満足いく回答がなく、次の案件を決められないでいた。
夜の配送を終えて帰ると、気になるメールが二通あった。一通目には切実さがある。
『中学生の時に教師に殴られたことがあります。体育教師でした。叱られる理由はありました。隣にいた友達がふざけてちょっかいをかけて来たのでついじゃれ合ってしまい、教師の話を聞いていませんでした。確かに良くないです。でもその程度なら中学生にはよくあることです。なのにいきなり平手打ちされました。教育的効果を意図したものではなく、明らかに突発的な感情によるものでした。機嫌が悪かったのでしょう。
ずいぶん昔のことで、大人になった今、そんなことはとっくに忘れていました。ですが最近あることがきっかけで、その記憶が鮮明に蘇りました。そして頭からずっと離れないんです。土気色に日焼けした土偶のような教師の顔が毎日瞼に思い浮かびます。つらくなってメンタルクリニックにかかりましたが、一向に改善しません。このままでは埒があかないので、それならいっそその教師にうらみを晴らしてみたらどうだろう、と思いました。そうすれば、教師の土偶顔から逃れられる気がするのです。相談に乗ってもらえないでしょうか?』
メールを読み終え、亮一は高校のテニス部を思い出した。大学生になった先輩が毎日のようにやって来て、後輩指導の名目で亮一たちをしごいてしごいていじめ倒した。そいつは大学生活での満たされない思いを、後輩をいじめる行為によってうっぷん晴らししていた。当然部員は反発した。ぶつかり合いがあり、一人やめ二人やめし、ついには全員がやめテニス部は廃部になった。
メールとは状況は違うが、根底には同じものがあると思った。依頼者の気持ちが理解できる。『あることがきっかけ』というのも心に引っ掛かる。依頼者に連絡を取ろうと決め、二通目を読む。
『ひどい男で、とても許せないです。どうすればいいのか分からないけど、このまま何もしないでいることなんてできません。私と同じ目に合う新たな被害者も出るかもしれません。法律では何ともならないと思うし、公にはできない事柄です。そいつには天罰が必要です。お願いです。うらみを晴らして下さい』
危ないにおいがする。意味深だが、具体的なことは書かれていない。これだけでは取り組む価値があるかないか判断のしようがないが、切迫感がある。この短い文からでも、助けを必要としているのが伝わる。
二つの案件を同時にできれば手掛けられれば良いのだが、融通が利くアルバイトの身とは言え母親の手前もあり生活費を稼がなくてはいかないので、一つずつ順番に取り組むしかない。早く気持ち晴らし活動を軌道に乗せ、スタッフを募って組織化できればいいな、と改めて思う。そのためには活動実績を積み上げて行かなければならない。
5
アルバイトを終えた亮一は、イアホンで音楽を聞きながら、駅に向かっていた。ビリー・アイリッシュが、『Fool me once, fool me twice』(最初は騙したそっちが悪いけど、二回目は私の自己責任)とひずんだ声でささやくように歌い、『no time to die』(死ぬ暇さえないんだから)でクライマックスになった。
この辺りは物流倉庫が多く、夜十時過ぎには人通りがなくなる。
冷蔵庫を三回も配送したおかげで亮一は全身がだるく、うつむき加減で歩く。狭い道に入ったとき、頬に強い衝撃を受けた。崩れるように座り込み、何事かと見上げると仁王立ちの男がいた。見覚えのある童顔。日坂だ。
「お前、店にきたことがあるな」
日坂は抑揚のない声で言った。
黙っていたら、日坂は亮一の腹を蹴り上げた。
亮一はたまらずに体を折り、丸まって防御の姿勢を取った。
日坂は容赦なく、さらに蹴りを入れる。
亮一はふっ飛ばされ、路上に横たわった。アスファルトが油臭い。
「一体何のために、あいつにあんなメールを打った?」
息ができずうめいていると、日坂は「お前は真希の新しい男か?」と訊いた。
日坂の眼は赤く充血し、瞳孔がやけに大きい。
「……そんなんじゃない」
亮一はかろうじて言った。
興奮した様子の日坂はその言葉を無視し、一方的に言った。
「あのメールのせいで、めちゃくちゃだ。養育費のことは黙っていたのに。おかげで婚約破棄だ。反対していた相手の親ともなんとかうまくやってたのに、一切台無しになった。薬まで切れるし」
言い終えると、日坂はまた蹴りを入れた。みぞおちを直撃する。腹の筋肉がひくひく痙攣したかと思うと、胃から逆流した酸っぱい液体が口からあふれ出た。
吐瀉物を出し切ってから、亮一は言葉を吐出すようにして言い返した。
「……もともとはあんたが養育費を払わないからだ」
「あんな淫乱ジャンキーに誰が払うか」
日坂は亮一の顔面を踏みつけた。
靴底で、顔を吐瀉物の中に押さえつけられながら、亮一は皮肉に思った。うらみを晴らした相手から、うらみを晴らされている。そうか。これはうらみを晴らす活動について回るものなんだ。と。
道路の先に人影が見えた。
「だれかー!」
亮一は精一杯の声で叫んだ。
日坂はいまいましそうにつばを吐いてから、路地の奥へゆっくり消えた。
翌朝、目が開いても起き上がれなかった。脳が動けと指令しても、手足はぴくりともせず、金縛りにあったように天井を眺めるしかなかった。数分後、ようやく少し膝が動くなるようになり、時間をかけて起き上がった。おそるおそるシャツをまくると、腹全体が青紫色になっている。時折咳が出、その度に胸が痛い。
力仕事などとてもできず、アルバイト先に休む連絡を入れた。
真希に昨日の出来事を真希に知らせるべきだと思い、メールした。「すぐにでも詳しい話を聞かせてください」といちはやく返信があり、真希のアパートへ説明に行くことになった。痛む体を引きずり、教えてもらった住所へ車を走らせると、三十分足らずで着いた。
日坂の結婚がだめになったこと、日坂に暴力を受けたことを、大げさにならないように気をつけ説明した。一通り話終わるまで真希は黙って聞いていた。
「大変な目に会わせてしまって申し訳ありません。でもおかげで、さっぱりしたわ。罪悪感なんてこれぽっちもない、悪いことをしたわけじゃないし、本当のことを伝えただけだから。……だけどなんていうか、すっきりはしないの。さっぱりとすっきりの違いって何だろう。きっと一緒よね、そんなの。よくわからないけど、うれしいという気持ちは間違いないの。本当にありごとうございました」
真希は続けて、怪我の様子を見せて欲しいと言った。
「結構グロいから」と亮一は断わった。
真希はじわじわとにじり寄った。亮一のシャツの裾に手をかけると、慣れた様子で捲り上げ、青紫色に変色した腹部を見て眉根を寄せた。「後ろも見せて」と言うと、真希はシャツをすっぽり脱がせ、露になった腹筋、肋骨、胸を、しなやかな指で静かに撫でた。
ゾクッとすると、亮一の体に力が入った。
「いたっ」
「力を抜いて。リラックス、リラックス。癒してあげるわ。私ハンドパワーがあるらしいの。店でもお客さんに評判なのよ」
そう言って真希は、亮一を仰向けにし、衣服をすべて脱がせると、独立した生命体のような指を全身へ這わせた。
亮一は成すすべなく真希に体を預けた。心地良くて眼を閉じる。しばらくそうしていると快感の波が押し寄せ、諸々の痛みは意識の外に追いやられた。唇に柔らかい感触覚え、眼を開くと、真希の真黒な瞳の奥に、自分の顔が浮かんでいた。
次の日、起きたら熱っぽく、測ると三七度五分あった。またアルバイト先に休む連絡を入れてからベッドに戻り、ぼんやりした頭で、実践した、うらみ晴らし活動について振り返った。
確かに、真希のうらみは晴らせた。だけどこれからも、日坂は養育費を払いはしないだろう。おまけに日坂にうらまれ、ひどいことになった。残念だがこれで、うらみ晴らし活動はやめよう。たった一回と活動になり情けないが、うらみを晴らせても、新しいうらみを生んでしまうなら、何をやっているのかわからなくなる。物騒な事態になり得るのもわかった。検討中の二件は気にかかるが、もうやめにしよう。二件の依頼者に連絡する前でまだ良かった。
喉の渇きを覚え、起き上がってペットボトルの水を飲むと咳き込んだ。咳に合わせて胸が痛む。心配になって整形外科に行くと、医者は開口一番、「一体何したの?」と訊いた。「いやちょっとキックボクシングの試合で……」とでまかしを言った。
レントゲン撮影された後、診察室に入ると、医者は肋骨の画像を見ながら、「ここにひびが入っているね」と言った。亮一の胸部は治具でがちがちに固定された。
6
弥生は、再度ボランティアセンターを訪れた亮一に言った。
「そうなんだ、始めたけどやめることにしたのね。それは残念ね」
相変わらずのんびりで、「でも、まあそんなものよ」と気楽な様子だ。
「いい活動だと思ったんですけど……。やっぱりうらみを晴らすは、ちょっと飛びすぎでした。それでまた何か始めようと思うんですけど、おすすめはないですか? 十分な活動がまだないやつとか」と亮一は訊ねた。
「こないだも言ったけど、まずはどこかに所属してやるのがいいと思うよ」
弥生はやや顔を引き締める。
「そうですか。団体に所属して活動を続けていれば、いずれ新しい組織を作れますか?」
「まあ、ケースバイケースだと思うけど。でも、どうしてそんなに組織づくりにこだわるの?」
「うまく言えないんですけど、……なにかトラウマみたいなものがあって、その影響かもしれません」
「トラウマ?」
弥生はぽかんと口を開いた。
「そうやってトラウマかって聞かれると、ちょっと違う気もします」
「何だ、違うの?」
「なんていうか、昔のことなんですけど、今も微妙に引きずっているんです。中学二年の時に、仲間外れにされたことがあって、いじめられたとは思ってないけど、思い出さないようにしているし、十五年も前のことでよくわからないです。ニュースで見聞きする、最近のSNSを使った仲間外れとは性質が違うと思います。でもひっかかりがないかと言うと、そうでもないんです。あいまいだけど確実にそこにあり、ずっとあり続ける。そういった類のものなんです。それで、仲間外れがない自由で楽しい集まりをつくってみたいと思うようになったんです。メンバーを自分で集めて組織をつくるのが手っ取り早いかなって」
「過ぎた昔のことなんて、どうでもいいじゃない」
弥生はけろりと言った。そして思案顔で言った。
「いきなりっていうのはちょっとどうかなってところだけど、組織をつくりたい、っていうのはありだと思うの。ただその動機が仲間外れの体験から来ているのは違うと思う。ボランティアの出発地点はやっぱり人のためになるって所なのよ。ボランティア活動をやって、その結果として活動した人が幸せを感じる。ボランティアってそういうものよ」
「だとすると結局は自分のためってことじゃないですか」
「そうよ。自分のため。それでいいじゃない。だって突き詰めると自分のためと人のためなんて区別できなくない?」
「そういうものですか?」
「そういうものよ。きっと。自分のためだけど、人のため」
亮一が自分と人の関わりについて考えを巡らせていると、唐突に弥生は言った。
「正直言うとこう見えて私、うらみがないわけじゃないの。ひどい男がいてね。それで、試しにうらみを晴らす依頼を出してみたのよ。亮一くんのホームページとネット上のやつに」
亮一は、驚いて弥生を見つめた。
「そしたら、亮一くんのホームページからは、なしのつぶて」
「もしかして、とてもひどい男で許せません、どうしていいか私には分かりません、ってやつですか」
「そうよ。依頼の仕方がよくわからなくて、意味不明の文になっちゃったけど」
「すいません。すごく気にはかかったんですけど」
「いいのよ。亮一くんには期待していなかったから」
「じゃあ、ネットのやつはどうなったんですか?」
「『悩み解消』というサイトでね、秘密厳守、依頼者の安全保障、失敗時全額返金ってなってるの。それで簡単なプロフィールを入れたらね、何をやってくれるかが出て、無言電話で精神を追い詰める、痴漢冤罪を仕掛ける、ハニートラップ売春で写真撮影するだって。怪しいじゃない。あきらかに。だから当然依頼はしなかったの。それなのに依頼したことをばらされたくなかったら金を払えってメールが来るのよ」
「ひどいですね。それでどうしたんですか」
「お金を払うなんてあり得ないじゃない。無視したわ」
「そうですよね」
「だけどね、いまだにメールが来るの。見え透いた詐欺に違いないってわかっていても、気持ち悪いし怖いよ」
「実害はないんですよね」
「今のところ大丈夫。それでも違うサイトからも連絡があってね、あるお客様から、あなたに対する復讐依頼を請け負いました。酷い目に会いたくなかったら、当方で調停するので、ただちに示談金を払え、だって。また怖くなったわ」
「情報が出回っているんですね」
「そうなのよ。昨日なんて、密教のサイトからで、あなたが恨む相手を、じっくり地獄へ追い込みます。千数百年続く、我々の秘儀で確実に仕留めます、なのよ。気持ち悪いけど、笑えた」
弥生は頬を少し緩めた。気楽そうに見える弥生にもうらみを持つような苦労があるんだな、と亮一は思った。
「それですっかり脱線しちゃったけど、おすすめのボランティア分野の話に戻ると、シングルマザー救済のボランティアなんてどうかしら。実は私もシングルマザーだから大変さがよくわかるの。男で苦労して、子どもで苦労して、お金で苦労するから」
7
金曜日のアルバイトは夕方からで、亮一は部屋で見逃がしていたアカデミー賞を受賞したレヴェナントという映画を観ていた。アメリカ開拓時代の話で、レオナルド・ディカプリオが厳寒の大地の中、息子を殺した敵を追っている。途中死にそうになっているところを、先住民族のポーニー族の男に助けられ、男も家族を殺されたのだが、男は粛然と、「復讐は神に委ねる」と言ったとき、スマホが鳴った。映画を止め電話に出ると、真希からだった。
「ベランダに出たら、向こうの道路のトラックの影に日坂らしき男が見えたの。見間違いかもしれないけど、日坂だったらと思うと怖くて」
掠れ気味の声で真希は言った。
「すぐ行くよ」
亮一はそう応え、急いで車を出すが、バイパスに乗った途端、渋滞に捕まった。先の方にパトカーの赤色灯が見える。こんなときに。気が急くがどうしようもない。
『事故渋滞に捕まり、少し時間がかかりそう』と真希にラインすると、『大丈夫そうだから安全運転で来てね。莉緒のお迎え時間になったから行くね。すぐ戻ります』と返信があった。
五十分後、ようやく真希のアパート前の道路に着くと、真希が莉緒を連れアパートの外階段を登ろうとしているのが、フロントガラス越しに見えた。階段下のプロパンガスボンベの後ろから、のっそり日坂が現れる。紅潮した肌がまだらに赤い。
「ううー」
動物が威嚇するときに発するようなうなり声を、日坂はあげる。
真希は日坂に気づき、莉緒を荒っぽく抱きあげると、階段を駆け上った。真希の後を日坂が追う。
亮一は運転先から飛び出し、階段へ全力疾走する。
部屋に逃げ込もうとする真希に日坂が追いついた。肩に手をかけ、真希を引き倒す。横倒しにされながら、真希は莉緒を抱き寄せ自身の体で覆い隠す。
張り詰めた、日坂のこめかみの血管は脈動でぴくぴく動いている。
日坂は腕を振り上げた。鈍く光るナイフを手にしている。
反射的に真希は、通園バッグをかかげて防御する。
日坂が打ち下ろしたナイフの軌道が逸れ、莉緒の腕をかすめた。むっちり柔らかな腕に赤い線が走る。かわいい口から、似つかわない金切り声が大きく放たれた。
日坂は再度、ナイフを振り上げる。
真希が莉緒を両腕でしっかり抱きしめると、振り下ろされたナイフが真希の右肘にあたり、鮮血がほとばしる。
亮一は二段飛ばしで階段を駆けた。廊下を突っ走り、日坂に飛び掛かかる。渾身の力で日坂を床に打ちつけ、仰向けにし、両膝で押さえつける。日坂は鼻の穴を異様に膨らませ、口の端から唾液を垂らしている。
日坂は歯を剥き出しにすると、ナイフを逆手に持ち、切っ先を亮一に向ける。
まずい、と思った瞬間、ナイフが突き上げられ、胸の真中に衝撃を受ける。勢いで上体が弓なりにのけぞり、息ができなくなる。やられた。だが、鋭利な痛みはない。見ると胸に巻いた骨折用の治具がナイフを受け止めている。
痛む腹筋に力を込め、亮一は上半身全体で日坂の腕を押し返す。日坂の腕がぐにゃりと折れ曲がったすきに、一気にナイフを奪い取る。
流れるように自然に体が動く。
亮一はナイフを振りかざす。小さく息を吸い、日坂を見下ろすと、怒りで血走った顔が悪鬼のようだ。
日坂にナイフを振り下ろすのか。
刺せ。刺してしまえ。たったいま胸を刺された。治具がなければ死んでいたかもしれない。酷く痛めつけられたうらみがある。こいつは真希を刺した。いたいけな莉緒まで傷つけた。まとめてうらみを晴らせ。
亮一はナイフを振り下ろした。顔と胸を避け、日坂の腕に。真希が傷つけられた右腕に。
日坂は獣のように叫んだ。返り血が亮一の眼に入る。
亮一は膝で日坂を押さえ続けた。胸が苦しい。無意識に長く息を止めていた。
我に返って周りを見ると、いつの間にか人が集まっていた。誰かが掛け声を発し、亮一は日坂もろとも取り押さえられた。亮一は決して日坂を離さなかった。
真希は泣き声交じりで、大声を出している。事態を説明しようとしているのだろう。動揺しているせいで、何を言っているのかはわからない。
体を拘束されながら、亮一は場違いな思いに捕らわれていた。
――次は、何のボランティアをしようか?
頭の中に、間延びした弥生の声が聞こえる。
「それで、どんな活動をやりたいのかなぁー?」
そうだ、決めた。
防犯のボランティアか、シングルマザー救済のボランティア。
それがいい。
(了)
実践的ボランティア選択/長月 州 R&W @randw
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