第1話 放置された桜の淑女

 妹がアメリカにするなんて、直前まで知らなかった。


 ひたすら息を切らせながら走り空港へ急ごうとしているのは、見送りが目的ではない。


 死別する訳でもないのに、俺は何を急いでいるんだろう。

 振り返るに、をしに行きたかったんだと思う。


 何故妹が俺に留学の話を教えてくれなかったのか、その理由だけには気付いてしまったから。

 俺のせいだって、わからせられてしまったから。


 そんな想いを胸に家から駆け出して数分後、横断歩道で足止めを食らった。


「クソっ」


 赤信号を睨みつけイライラしながら待っていたが、足踏みしながらも一息吐いて平静を保てた……気がする。


 きっと俺に余裕がなかったからだろう……気付けば横断歩道を境に対面する少女に目を引かれていた。


「あれは……」


 少女の端正な顔と纏う美しさに見惚れたからなのか、落ち着きをしたのだ。


 或いは、ふと脳裏をよぎった既視感に戸惑ったのかもしれない。


 表情はぼんやりとしているが、彼女を象徴するようなストロベリーブロンドの髪がたおやかに靡いている。


 その瞬間、やっと彼女の名前を思い出した。


(……つき


 高校入学早々からと呼ばれ、周囲から慕われている同級生の女子だった。


 すぐに気付けなかったのも無理はない。

 今の姿からは明らかにプライベートの雰囲気を感じたから。


 淑女と呼ばれる割に、大きなピンクのリボンが付いた可愛らしいバックパックを背負っている。パッと見では自然に溶け込み、噂に聞く名家のお嬢様らしい風格は見受けられない。


 信号が青になる瞬間を今か今かと待っていると、突如として対面する香月が歩きだした為、俺も自然と足を進ませた。


「急がなきゃ……あれ?」


 しかし、既に横断歩道の中央へと足を進ませてやっと、未だ信号が赤のままであった事に気付いた。


 他人の欠伸を見て移るように、焦っていた俺は香月の歩行に釣られて無意識に走りだしてしまったのだ。


 ふと横を見れば迫り来るトラック。

 そして耳元で鳴った馬鹿でかいクラクションが煩かった。


(え、ちょっと待て! 待て待て……死ぬっ!!)


 恐怖からなのか、または勢い余ったからなのか、無我夢中で足を走らせた先、俺の目の前には少女の驚いた顔があった。


「……へ?」


 次には、忽然として世界が九十度回転した。

 勢いを殺しきれず前のめりになった身体が間一髪、車に轢かれずには済んでいた。


 しかしどうやら香月と衝突してしまい、そのまま押し倒してしまったみたいだ。


「きゃっ……!」


 彼女の喘ぎが火事場の馬鹿力の代償を取り立ててきたように感じてしまう。


 転ばせてしまった少女は背負っていたバックパックがクッションとなって腰を地面にぶつける事にはならず無事だ。


 とはいえ、俺が転ばせてしまった事に変わりない。

 何処か怪我でもさせていたなら、責任を取る必要がある。


 急いでいたからとか、香月の歩行に釣られて車にぶつかるところだったとか、そんな言い訳が頭に浮かびながらも……まずは謝罪をすべきだと思った。


「ご、ごめん! 大丈夫?」

「えっ? はい、おかげさまでーー」

「良かったぁ!」


 安否について心配する言葉は本心だった。

 だがそれよりも、ここから逃げてもいいという、責任を取らなくてもいいという、免罪感に安心していた。


 本当なら次に取るべき行動は謝罪の意味も込めて詫びる事だ。


 けど残念なことに、ここで引き留められている余裕が、俺にはなかった。


(空港へ急がなきゃいけない)


 それは自己暗示したような絶対遵守すべき命令として本能を刺激する。


「あ、あの……助けてく――」

「本当に申し訳ないんだけど香月さん、俺急いでいるから!」

「えっ?」


 具合が悪くなったのか、なんだか赤っぽくなった香月の顔に再び罪悪感を覚えたが、腕時計を見ると最早話す余裕すらないという事実に思考を塗り替えられる。


 まるで悪いことをして逃げるように、話を切り上げた俺は彼女を置き去りにして走り去った。


 そして全てをかなぐり捨てるようにして向かった空港。

 空を見上げてみれば、既に離陸した飛行機の姿がそこにあった。




 翌日、休み明けの学校、図書委員の仕事を終えて帰宅しようとして、再び彼女と対面する。校門前で再び顔を合わせることになるとは思ってもみなかった。


 待ち伏せをしていたらしい香月は俺の顔を確認して近付いてきたのに対して、顔には出さないものの、心の中では顔を引きつらせる。


「あの! 昨日はその……ありがとうございました」

「……? ありがとう、なのか」


 ふと、意味不明さに頭が真っ白になった。

 正直なところ、怒られると思っていた。

 酷い男だと罵られる覚悟をしていたつもりだ。


 それが、感謝されるなんてどういうことだ?


「当然じゃないですか。あの時、貴方が押し出してくれなかったら私……」

「ん?」


 言葉に事実の食い違いがあると感じた。


 もしかして、車に轢かれるところを助けられたとでも思っているのだろうか。


 当時の様子をそこまで正確に覚えていない。

 意識するほどの余裕がなかったし、記憶に残っているのは馬鹿でかいクラクションの音だけだったから。


 俺の中にある事実は、ただ彼女を転ばせてしまったことだけだ。


 今更助けられましたなんて都合の良い言い方をされても違和感でしかないし……正直困る。

 うん……忘れたほうがいいよね。


「それで、えっと貴方は……」

「うん? ああ……俺は大丈夫だったから気にしないで。寧ろ、転ばせちゃって悪い。何処も怪我していないなら良かったね」

「転ばせちゃったなんて……私は全く思っていないですから! それで、あの……」

「出来るならもっとカッコよく抱きかかえられたなら良かったんだけど。残念ながらそれほど力持ちじゃなかったんだ。それじゃあ、俺急いでいるから」

「えっ……あっ、はい」


 茶化すようにして一方的に話をぶった切り、放心する少女を背に向ける。


 笑い方がわからない、化け物のような顔を見せたくなかった。


 妹に会えなかった無念を誰かに吐き出したくなって仕方なかった。

 図書委員の友人に話を聞いてもらいながらも尽きない悩みに、苛立ちを覚えていたのかもしれない。


 そして、あのまま優しさに触れていたら、暴力的な本性を晒し彼女を攻撃してしまうんじゃないかという、恐怖感があったのだ。


「待って! ……待ってください!」


 だから、背を向けた校門の方角から聞こえる彼女の声にも、聴こえぬフリをしてしまったんだろう。


 周囲に生徒は少ない時間。俺が発した言葉は本音だったけれど、声色は彼女への一切の興味を削いだものだった自覚がある。


 とても失礼なことをしてしまったと罪悪感が募る。


 彼女が俺の名前を聞き出したかった事に気付いていたのに、一方的に話を終わらせて帰宅してしまった。


「やっちまったぁ~……っ」


 無事、後の祭りだった。

 転ばせた次には、あの態度。反省の一切見えない傲慢な態度を振り返る。

 そして自業自得に悶える羽目になってしまった。


 あしらうような態度は冷たかっただろう。

 わかりやすく貴女のことが嫌いですと言っているようなものだ。


 香月は俺の名前がわからないから態々待ってくれたのに、自己中心的な態度が無意識に攻撃していたのも同義だ。


「俺の学校生活、終わった。いや、もう既に終わっていたか」


 香月詩衣は学校の中でも群を抜いて人気者だ。

 それはつまり、好意的な人達ばかりが周囲にいる訳で、俺みたいな態度の奴は近くにいないのだ。


 そんな高嶺の花に対して無下な扱いは、嫌われてしまっておかしくないぞんざいな行為だったと思う。

 流石に嫌われてしまっただろうな。




 だから、日をまたいでホームルームが始まる前。偶然にも廊下で香月とすれ違った時、耳を疑った。


「あっ、浅丘くんもおはようございます」

「……えっ? ああ、おはよう香月さん」


 凛とした声が誰かと思えば、まるで友達に挨拶するように香月が声をかけてくれた。


 先日あしらった事に気付いていない?

 そんな訳ないと思いながら……罪悪感の裏腹に、彼女の優しさを黙って享受した。


 彼女を観察している内に知り合い全員には同じ対応をしている事がわかった。

 いつの間にか名前を憶えられていたし、俺は香月の知り合いになっていたらしい。


 所謂、認知というやつだ……学園のアイドル的存在からの認知を得た。


 そこに特別な意味がないことがわかっていても、当時孤立してしまった俺にとって、何処か救いのような希望に思えた。


「俺みたいな冷たいやつにも、優しいなんて……」


 きっと香月は器が広い女子なんだろう。

 なるほど。容姿だけじゃなくて、内面まで良い子らしい。


 桜の淑女……そう呼ばれ人気になるのも頷ける。


 そして高校二年生に進級。奇跡的に俺は香月と同じクラスになることが叶った。


 そして、今ではほぼ毎朝声をかけられる。ただの挨拶に過ぎないけど、香月と挨拶を交わす度に、胸が高鳴っていった。


 俺、あさおかことは生まれ変わった。

 気付いた時にはもう……彼女の『匿名のストーカー』になっていたのだ。


 平日は毎日最低4時間、俺の瞳に君は写っている……幸せだ。

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