第5話
ムゲンの背後から声をかけられたので、ムゲンは反射的に後ろを振り向くと、そこには筋骨隆々とした男が立っていた。
男の肌は浅黒く、大きな角が頭から生やしており、三メートル近い大男であった。
男の顔は酔っ払っているのか顔は真っ赤で、口からはアルコール臭が漂う。
(こいつトロールか……)
即座に男の種族を考えるムゲン。
ムゲンとトロールの男との距離は一メートル程度で、トロールの男が腕を伸ばせば、ムゲンに簡単に届きそうなほどであった。
(この距離で殴られるとタダじゃすまない……どうにか穏便に事を済ませるか……)
ムゲンは心の中でため息をつくと、手に持っていたグラスをカウンターの上に置く。
「悪いけど俺には帰るべき場所はないんでね」
「ふん! お前みたいなガキはなぁ、家出なんかしてねぇでさっさと母親のところに帰るんだよ!」
トロールの男の言葉を聞いたムゲンは、反射的にプツンと切れて殴りかかろうと思ったが、ムゲンの理性が働き拳を握り締める。
ムゲンには親は居ない。しかし孤児だったムゲンを拾い育ててくれた親のお陰で、今のムゲンがいるのだ。
「おい、ムゲン!」
ムゲンが拳を握りしめたのを見たシェイドが、注意するように叱咤する。
バベルで暴力沙汰を起こせば、その場に居るコントラクター全員を敵に回してしまう。
シェイドとしてはそれだけは何としても避けたかった。
「あー悪い悪い、これ飲んだら店を出るよ」
シェイドの叱咤を受けて冷静になったムゲンは、一息つくとジンジャエールを飲み干す。
喧嘩に乗ってこなかったムゲンを見て、それが気に入らなかったのかトロールの男は腰に手を回すと、そこからヘビーピストルを抜き出す。
トロールの男が抜いたヘビーピストルを見た周囲のコントラクターとムゲンは、即座に自分の獲物を取り出しトロールの男に向けるのだった。
三百六十度から武器を突きつけられたトロールの男は酔いが冷めたのか、笑いながら自分のヘビーピストルを下ろしていく。
「へへ、冗談じゃないか。クソ酒が足りねぇ!」
そう言ってトロールの男は、逃げるようにバベルを後にするのだった。
トロールの男がバベルから消えたことを確認した周囲のコントラクターとムゲン、そしてシェイドは自分の獲物をしまう。
「チンケなやつだ」
「あんなトロールがいるからヒューマン至上主義が大きく出るのよ」
一瞬静かになるバベルの店内であったが、すぐに元の喧騒を取り戻す。
トロールはとドワーフは強い酒を飲み。オークとエルフは合成肉料理をかっくらい。そして猫の獣人や狼の獣人は音楽に乗ってダンスをする。
「ったく……ムゲンも挑発に乗るんじゃねえぞ」
「あー分かった、次からは気をつける。んじゃあ俺は仕事あるから」
バベルの店内ある時計を見たムゲンは、時計の針が午後の七時前を指していることに気がつくと、ジンジャエールの代金ちょうどのニュー円をカウンター置いてバベルを後にするのであった。
リリィとの仕事をするためにムゲンは、千代田区行きのバスに乗って文京区に向かう。
**********
千代田区に無事たどり着いたムゲンは、電信マネーで乗車賃を支払いバスを降りる。
そしてアヴァロンまでの道筋を、ポケットトロンに検索させる。
ほんの数秒後、ポケットトロンの画面にはアヴァロンまでの道筋が表示される。
ポケットトロンに表示された道に従って、ムゲンはアヴァロンに向かうのであった。
ここ千代田区はネオ東京の中でも、あまり治安が良い地区とはいえない地区である。
ストリートギャングやカラーギャングがしのぎを削り合い、マフィアが抗争を殺し合う地区でもある。
一瞬でも気を抜けば、マフィア同士の殺し合いに巻き込まれる危険があるために、ムゲンも気を引き締めてアヴァロンに向かう。
(にしても……やけに物々しい雰囲気だな?)
周囲の様子を確認しながら歩いていたムゲンは、周囲が妙な雰囲気になっていることに気づく。
まるで何かを警戒しているような気配が、そこかしこにあるのだ。
(まぁ……どうせヤクザ連中が暴れているとかそんな感じだろう)
念のために周囲を警戒しながらも、ムゲンはアヴァロンへ歩みを進めていく。
それから数分歩いたところで目的地のモーテル、アヴァロンに到着する。
アヴァロンという名前であるが、建物はスプレーを使ったいたずら書きで落書きされており、看板はボロボロになっていた。
ムゲンはアヴァロンに近づくと、扉を開けて中に入っていく。
そのままムゲンがモーテルの中に入ると、薄暗い照明が室内を照らしており、床には空き缶が散乱していた。
アヴァロンの中を歩いていると、ムゲンのポケットトロンに一件のメールを受信する。
『二号室にてお待ちしておりますわ』
リリィからの短い文章が書かれたメールと一緒に、客室の電子キーが送付されていた。
ムゲンはメールの指示通りに二号室へと向かうと、電子ロックによって扉は施錠されていた。
扉が閉まっていることを確認したムゲンは、電子ロックにポケットトロンを近づける。
ピロンと電子音と共に、二号室の扉のロックは解除される。
扉が開いたことを確認したムゲンは、迷うことなく二号室に入室した。
「はぁい❤️ ムゲンお元気ですの?」
二号室の中にいたのは、黒いレースの下着姿を着衣した黒髪の女性――リリィであった。
ムゲンの姿を見たリリィは、まるで媚びるような甘い声を出す。
リリィの身体には傷やシミが一つもなく、陶磁器のように美しい白い肌をしていた。
しかし何より目を引くのが、リリィの耳である。
リリィの耳は長く尖っており、それが彼女の種族がエルフであることを物語っていた。
「久しぶりです、リリィさん」
「ん、プライベートではリリィと呼んでくださいまし」
「分かりましたよ……リリィ」
名前を呼ばれたリリィは、嬉しそうにムゲンに抱きつく。
ムゲンは優しくリリィの頭を撫でると、リリィは気持ちよさそうに目を細める。
「ふぅ……やはりムゲンにこうしてもらうと落ち着きますの……」
「そいつは良かった」
リリィが落ち着いたのを確認したムゲンは、自分の胸板に頬ずりしているリリィを抱きしめたままベッドの上に座る。
ベッドからは軋む音が鳴り響くが、ムゲンは気にすることなく無言でリリィと口づけをする。
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