6

「次、第二章、頭から読んでみろ」

「はい」

 ハイドの襲撃に見舞われることなく夕刻を迎えられた日だった。まどろみを誘う穏やかなセピア色の空気が包む部屋の中、落ち着いた青年の声と、あどけない少女の声が、交互に静寂を揺らしていく。

「おまえら何してんだ?」

 見張りから戻ってきた隊員のひとりが、テーブルに向かい合うタカナミとイソラを見て、首を傾げて足を止めた。

「こいつに、字を教えている」

 顔を上げ、タカナミは、さらりと回答した。面持ちはどこまでも無表情だった。

 イソラほどではないが、タカナミも、至極、表情の変化に乏しい。しかも、同じ無表情でも、くるりと大きな黒目がちのイソラの瞳とは対照的に、タカナミの切れ長の瞳は、無表情でいると、本人にその気はなくとも、無愛想に、ときには相手を鋭く睨みつけているような印象を与えてしまいがちだった。実際、部隊の中には、近寄り難いと感じている者もいるようだった。けれど、話しかけてきたこの隊員は、特に構えた風もなく、砕けた口調で会話を続けた。

「ペンが剣よりも強いのは、公社の御膝下おひざもとくらいだろ。今、ここで必要なものとは思えんが……」

「ああ。確かに今は、不要なものだ。だが、未来で、必要になるべきものだ」

 それは、必要になる未来であれという、願望か。男の目が、笑みのかたちに細くなる。

「懐かしい教科書だな。おまえのか?」

「いや、トキワに借りた。紙は古いが、内容は今も昔も不変だ」

 ページの隅に、あどけない落書きの跡がある、初等部のものだった。

 淡々と答えるタカナミに、男は、そうか、と口角を上げた。

「良いぞ。正直、見ていて和ませてもらった。見張りで壁ばかり睨んでると、気が滅入っちまうからな。中々、良い風景だぜ。おまえら、そうしてると、まるで、兄妹みたいで」

「……兄妹か」

 ぽつりと呟いて、タカナミは再び教科書に視線を落とした。イソラの音読を待つ。だが、イソラの声は紡がれない。

「イソラ?」

 タカナミが顔を上げる。イソラは、ぼうっと、中空を見上げた姿勢のままでいた。もう一度、呼びかけてやると、イソラは、はっと小さく肩を跳ねさせて、ぱっと本に戻った。こころなしか、頬が少し赤かった。





 コトコトとスープの煮える音が小気味良く響き、すっきりとしたスパイスの香りが部屋を満たす。夕食の時間だった。

 駐屯地における夕食は、大抵、タカナミが作る。元々は、配給される缶詰や乾物を各自がかじっていたところ、いつからか、タカナミが、それを材料に簡単な料理を作り始めた。幸い駐屯地は元ホテルだ。厨房には困らなかった。部隊の大人たちも、最初は交代で、当番制で作ろうとしたようだが、タカナミが作るのが最も上手く、美味しかったとかで、自然とタカナミが作るのが常になったらしい。そう、トキワが小声で教えてくれた。イソラは最初、タカナミの邪魔にならないように、厨房の戸口からこっそり眺めていたけれど、あるとき、思い切って訊いてみた。

「私にも、何かできること、ありますか?」

 以来、厨房の風景は、主にコンロの前に立つ長身の青年と、その周りを動き回る小柄な少女のふたりになった。

(不思議な人だ……)

 食器を運びながら、イソラはタカナミを見上げて、思った。ジキルは食べなくても死なない、けれど、テロメリアの無駄遣いをしないために食べろという、これは、分かる。けれど、生体を維持するためならば、別に缶詰や乾物でも事足りるはずだ。水と食料があれば、人は死なない。実際、イソラはそうやって、四十九街区で過ごしてきた。なのに、なぜ、タカナミは、わざわざこんな非合理で非効率な、手間も時間も掛かることをするのだろう。タカナミに手塩皿を渡しながら、イソラは訊いてみた。くるりとスープを掻き混ぜて、タカナミは静かに答えた。

「これは、俺の個人的な考えだが……死なないでいる、ということと、生きる、ということは、同じことのようでいて、全く別物だと、俺は思う」

 タカナミの長い指が、手塩皿を取る。味を確かめたところで、タカナミは、もうひと掬いして、イソラに瞳を向けた。

「味見、してみるか?」

 差し出された手塩皿を受け取る。乾燥させた野菜の小片だったものが、スパイスの効いたスープの中で、瑞々みずみずしく身を広げている。ふわりと頬を撫でる白い湯気。タカナミの作り出すものは、いつも、温かい。

 こくん、と一口。スープがイソラの体に入っていく。味と温もりが、イソラの中に満ちていく。

 あぁ、そうか、とイソラは思う。同時に、どうして、とも、思う。

 タカナミは、どうして、こんなにも生きようとするのだろう。

 こんなにも、生かそうと、するのだろう。

「……缶詰や乾物が、死なないでいるために必要なものなら、このスープが、生きるために必要なものということですね」

 美味しいです、とイソラは、手塩皿をタカナミに返す。受け取るべく伸ばされたタカナミの手は、しかし手塩皿を越えて、イソラの頭へと進んだ。ぽん、と軽く、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、置かれた、ひとひらの温もり。タカナミのてのひらだった。触れられた。……撫でられた? 顔が一気に熱くなる。胸の奥が、じんじんする。これは、何? 自分の体の反応に、イソラは途惑とまどう。

 立ち尽くすイソラの手から、手塩皿をひょいと取り上げて、タカナミは、何事もなかったように、スープを器によそっていく。

「今日この時間はトキワが見張りだな。頼めるか? イソラ」





 パンとスープをトレイに載せて、イソラは扉を叩いた。

「食事、ここに置いておきますね」

「ああ、ありがとう」

 トキワは振り返らなかった。双眼鏡を手に、窓の外を眺めたままでいた。壁際のテーブルにトレイを置いて、イソラも、そのままきびすを返す。停滞する沈黙。けれど、イソラが部屋を出ようとしたところで、トキワの声が、沈黙を攪拌かくはんさせた。

「待って、イソラ」

 足を止め、イソラが振り向く。何? という言葉の代わりに、イソラの瞳が瞬きを打った。無表情はそのままに。

 双眼鏡を外し、トキワも、イソラのほうへ体を向けていた。窓の外の電燈が逆光となり、トキワの面持ちは影の中に沈んでうかがえない。

「僕は、きみに、謝らないといけない」

 うつむくトキワの声が、ぽつぽつと床に雫を落とす。

「きみに、酷いことを言った。ごめん」

「酷いことって?」

 イソラの黒い瞳が、再び瞬きを打つ。トキワは一度、顔を上げ、また俯いて、言った。

「同じ人として認めたくない、なんて……」

「別に……酷いことを言われたとは、私は思っていませんでした。それに、あなたの言ったことは、きっと正しい」

 ゆっくりと、まつげを伏せて、イソラは続けた。

「あなたに言われて、考えてみました。想像、してみました」

 水面を静かに揺らすように、イソラの声は響いていく。顔を上げたトキワの瞳が、じっとイソラをとらえていく。

「もし、あなたを殺せと命令されたら、私は多分、いやだと思う」

 視線を落としたまま、イソラの言葉は連なっていく。つたなく、たどたどしく。

「タカナミも、そう……もし、誰かが、タカナミを殺せと命令してきたら、私は、命令したそいつの喉を掻き切る自分を、想像しました……想像、できました。こんなこと、初めて、でした」

 イソラは途惑とまどう。なぜ、と狼狽うろたえる。ざわめく胸にも、それを制御できない自分にも。

「大切、なんだね」

 トキワのまなざしが、ふっと緩んだ。

「大切って?」

「失いたくないってことだよ」

 トキワが右手を差し出す。きょとんと瞬きをするイソラに、握手だよ、とトキワは微笑む。

「僕が、きみにとって、殺したくない人間のひとりになることができて、良かったよ。これからもよろしく、イソラ」

 握ったイソラの手は小さかった。驚くくらい、華奢だった。その手が、おずおずとトキワの手を握り返した。途惑いながら、それでも確かに。

 いつか、とトキワは思う。イソラはきっと、知らなかっただけだ。なら、知れば良い。学べば良い。そうしていつか、大切なものが生まれて、失いたくないという思いが芽吹いて、その果てで、もし、きみが恐怖を感じたなら……それが、イソラ、きみにとっての罰だよ。


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