5

 旧時代、この街の母体だった《国》は、別の《国》と《戦争》をしていて、ハイドは《敵の国》の作り出した《大量殺戮破壊兵器》だったそうだ。そして、地上に放たれたハイドから逃れるため、建設されたのが、この地下都市。当時は《シェルター》と呼ばれていたらしい。今はもう、《戦争》を知っている人間は、誰もいない。地上では、《戦争》は、もう終わっているのだろうか。地上に出られないまま、知るすべを断たれた人々には、とうとう分からない。ただ、ばら撒かれたハイドは今でも壊れることなく、組み込まれた命令を忠実に実行し続けている。時を経て、老朽化した隔壁を破りながら。

「隔壁全体を改修しようにも、もうこの地下都市に、そんな資源は残っていない。だから、できることがあるとすれば、ハイドが出現する度に地道に駆除して、破られた所だけなんとか修復して、これ以上の侵攻を食い止めることくらいだろうって、そう、公社は結論付けたんだ。でも、ジキルが開発されるまで、ハイドにかなうものは、何のひとつもなかった。タカナミが最初のジキルとして投入されたときには、既に第三階層までの全域と、第四階層の一部を、失っていた」

 シキナミは言った。自分に言い聞かせるようでもあった。

 開発棟の裏へと歩いていく。石畳に、靴音と、シキナミの杖の音が、静かに響いていく。

「……どうして」

「うん?」

「どうして、街の人たちに、本当のことを発表されないのですか?」

 崩落事故なんて、嘘だって。

 イソラはシキナミを見上げた。イソラの瞳には、責めるような色もいぶかるような色もなく、ただ問いかけだけがあった。

「真実を報道したところで、絶望と恐慌があるだけだ。何のために公社が長い年月をかけて人々の記憶を風化させたのか、無駄になってしまう」

 シキナミは歩調を緩めることなく、淡々と答えた。

「イソラ、この地下都市は、この地下都市として、綺麗に蓋をされて完結している。隔壁という果てのある世界として、安定しているんだ」

 たとえそれが、かりそめの平和でも。

「これでも一応、人々の安全には、ある程度は配慮されているはずだよ。封鎖区域の手前に二段階の避難区域を設けて、人々を遠ざけたりとかさ」

 だから、きみたちの戦いは、街の誰にも知られてはならない。

 呟くようにそう言って、シキナミは力なく笑った。

(どうだろう、ね、タカナミ)

 傍らを歩くタカナミを、シキナミは心の中だけで振り返る。

(私は、ちゃんと公社の人間らしい模範解答を、うそぶけているだろうか――)



 おりに似た柵の前に立つ。開発棟の裏にある、公社専用の昇降機だ。タカナミの後に続いてイソラも乗り込む。行先は、ハイドを待ち受ける、第四階層、四十二街区。

 歯車の軋む音が、律動的に流れていく。柵の向こうに、見送るシキナミの姿が、遠ざかっていく。

 シキナミの瞳は、まっすぐに、タカナミへと注がれていた。努めて、微笑を湛えながら。

 都市の行き止まり、第四階層に、イソラは戻っていく。



 ◇



 駐屯地は、閉鎖された隔壁に近い、小さな廃ホテルだった。各々個室が設けられ、錆臭さびくささはあるものの水は好きなだけ使うことができたし、電気回路も生きていて、食料物資さえ供給されれば不自由なく過ごすことができそうだった。駐屯地には、先に行って待機していたトキワの他に、交代で配属されている治安維持部隊の姿も数名あった。

「お久し振りです」

 イソラの隣にタカナミの姿を認めて、トキワの顔が、ぱっと輝く。揃いの灰色の制服姿の中で、トキワだけが私服だった。ジキルに制服は支給されない。

「連絡を受けて、びっくりしたよ。きみの訓練、こんなに早く終わるなんて」

 苦笑の混じった人懐こい笑顔を浮かべて、トキワはイソラを迎えた。

「これ、おまえ宛てに、預かってきた」

 タカナミが、トキワに小さな封筒を差し出した。母さんからだ、とトキワは目を丸くする。封蝋ふうろうを丁寧にがし、そうっと中身を取り出す。几帳面に折り畳まれた便箋。トキワの頬に、苦笑が浮かぶ。

「何か良いことが書かれていたのですか?」

 イソラは訊いてみた。照れたように笑いながら、トキワは答えた。

「今度いつ帰って来るんだって。もうすぐ僕の誕生日だから」

「誕生日……」

「うん。家族みんなで誕生日パーティーをしようって。……僕、もう十七だから、結構、恥ずかしいんだけど」

「十七……?」

 イソラは驚いて聞き返した。自分より年上だろうとは予想していたけれど、外見からせいぜい十五歳くらいかなと思っていた。そんなイソラに、トキワは笑った。

「テロメリアを打ち続けていると、体の成長が、ほぼ止まるんだよ。知らなかった?」



 ◇



 駐屯地での一日は単純だった。交代で隔壁を監視して、それ以外の時間は組になって対ハイド戦の訓練をする。

 周囲の建物よりも頭一つ高い、この廃ホテルの最上階の部屋からは、隔壁の周囲をおおよそ見渡すことができた。いつかサガミと歩いた街路もまた、双眼鏡のフレームの中に自然と入ってくる。

 あの後サガミがどうなったのか、イソラは知らない。シキナミに尋ねてみたことがあるけれど、シキナミはただ「しかるべきところにいるよ」と答えただけだった。

 細かいひびの走る薄汚れた隔壁を、双眼鏡で確認する。少し視線を上げれば、固く閉ざされた天井が、厚く、重く、街に蓋をしているのが、間近に見える。この遥か上方に地上という果てしない世界が広がっていることを知っているのは、公社の中でも一部の人間だけだ。そしてタカナミが、そのひとりにイソラを加えた。

 天井から隔壁に視線を戻す。隔壁は変わらず沈黙したまま、ハイドの気配はない。

「交代だ。異常はないか?」

 部屋の扉が開き、治安維持部隊のひとりが、後ろからイソラに声をかけた。頭の天辺から足の先まですっぽりと包まれた白い服を着ていた。顔の部分だけ透明になっているそれは、いつかサガミを取り押さえた人たちが着ていたものだ。防護服というらしい。

「はい。隔壁のひびに変化はありません」

 マスク越しのくぐもった声で、イソラも答える。

 ハイドは、目に見えない毒の粒子をまとっているのだという。長きに渡り人々がハイドに対してなすすべがなかった最大の理由が、この毒の存在だった。臭いがあるわけでもなく、他の毒と違ってその場で血を吐いて倒れるわけでもない。呼吸だけでなく皮膚からも吸収されてしまうその毒は、浴びて数日経ってから、体中の細胞が壊れて高確率で死に至る、性質たちの悪い毒だった。だから、普通の人間は、防護服を着なければ、ハイドに近づくことすらできない。けれど、防護服を着たままでは、動きが制限されて、ハイドの速さに太刀打ちできない。その難境を打開したのが、ジキルの存在だった。ジキルならば、戦える。細胞に驚異的な再生能力をもたらすテロメリアは、ハイドのまとう毒の作用に拮抗できる。無駄に吸い込まないように、簡易なマスクだけはつけているけれど。

 双眼鏡を手渡し、イソラは部屋を出る。階段を下りながら、小さく息をついて、マスクを外そうと耳に指を掛けたとき――

 さっきひびを確認した場所とは別の方角から、ぴし、と亀裂の走る音が聞こえた、気がした。

 振り向いて、窓へと駆け戻る。肉眼でも見える、数ブロック先の隔壁。縦に長く裂け目が広がり、破片がぼろぼろと落ちていく。

「先に行きます。下に伝えてください」

 低めた冷静な声で短く告げて、イソラは窓枠に足を掛ける。後ろで途惑とまどう隊員が何か言いかける前に、イソラは大きく、ひらりと跳んだ。建物のすぐ横を走る太い送風管の上に飛び移り、駆けていく。

 亀裂のあいだから、黒ずんだ金属の爪が覗いていた。隔壁の表層の煉瓦が崩れ、内部のコンクリートがき出しになっている。

 耳障りな摩擦音と共に隔壁を軋ませながら、そいつは巨大なからだじ込むようにして入ろうとしていた。送風管の上で、イソラは見下ろす。少しずつ頭部が見えてくる。以前相対したハイドとは、異なるかたちをしていた。ハイドにも、いろんな型があるらしい。

 まだだ、とイソラは右手のナイフを握り直す。まだ、胸まで覗いていない。まだ、あいつの心臓は狙えない。

 ナイフを手に接近戦というのは、あまりにも肉弾戦的な、古典的な戦い方かもしれなかった。けれど、ハイドの装甲を砕けるだけの威力をもつ銃火器も、遠くから正確にハイドの急所へ照準を合わせられる精度の機器も、今の公社は持ち合わせていない。

 イソラは目をらす。腕が短い。四つ足のハイドだろうか。肩が覗く。そろそろだ。イソラは駐屯地のほうを横目で見遣る。ジキル三人のうち、一人は別方向からの襲撃に備えて待機することになっている。二対一、とすれば、ここへ来るのは、きっとトキワだ。

「早く!」

 声が響いた。イソラの予想通り、トキワの声だった。防護服を着た捕捉係の隊員が二人、トキワに続いて走って来る。

「目標確認! 完全に中へ入れる前に捕捉を!」

 トキワが叫ぶ。捕捉係が背中の機材を素早く下ろし、矛先をハイドへと向ける。訓練通りに。

 放たれたワイヤーが空気を裂いた。床についたハイドの腕に絡みつき、固定する。見届けて、イソラは飛び降りた。普通の人間なら足が砕けている高さだ。つくづく便利な体になった、とイソラは思う。ずっと壊れにくく、ずっと軽く素早く動ける。戦うのに、操縦するのに、これ以上に扱いやすい体はない。

 ワイヤーが軋む。捕捉係とトキワに気を取られているハイドの死角に、イソラは着地する。不意打ちは得意だ。虚を突いて飛び込む。気づいたハイドが振り向く。だが遅い。イソラは屈む。大きな顎がイソラの頭をかすめ、空を切った牙が咬み合う鋭い音が響いた。掻いくぐって、ハイドの胸へ。

『良いか、イソラ』

 訓練時に命じられた、タカナミの言葉を思い出す。

『ハイドの心臓を取れ。ただし、絶対に傷つけるな』

 明滅する青い光の心臓を繋ぐケーブルにナイフを下ろした。引き千切ってやる。このまま、一息に、ありったけの力を込めて。

「だめだ! イソラ! 一旦、離れるんだ!」

 トキワの声に、反射的に飛び退すさる。直前までイソラのいた場所を、長い爪がいでいった。ワイヤーが片方、外れている。固定が甘かったのか。

「ケーブルの半分は切断しました。あと少しで、あいつの心臓を奪えます」

 トキワの位置まで下がったイソラがナイフを構え直す。

 片腕を固定されたハイドの下半身は、まだ隔壁を出ていない。トキワはうなずいた。

「もう一度、捕捉だ。僕は右側から、きみを支援する。きみは左側からだ。一斉にいこう」

 ハイドの両側へ回り込む。放たれる幾本ものワイヤーが、再びハイドの腕を狙う。だが、ハイドは容易たやすくない。多くのワイヤーが払い落とされる。ただ一本を除いて。

「捉えた! 今だ! かかれ!」

 捕捉係の声を合図に踏み出す。千切れた導線から火花が散る。左手を伸ばして、イソラはハイドの心臓を掴んだ。右手で残りのケーブルを断つ。

 肋骨に似た胸の装甲に足を掛けて、イソラは心臓を引きずり出した。そのままの勢いで離脱する。

 ハイドは動かなくなった。抜き取った心臓は、イソラの手の中で、青い光の明滅を続けている。電池のようなものなのだろうか。両手に乗るくらいの大きさだった。半透明で、熱くも冷たくもなく、磨硝子のような肌触りをした、いびつな球体だった。思ったより軽く、片手で難なく持つことができる。

 待機していた回収班と修繕班が、手早く作業に掛かる。隔壁に穴がある状態で、次のハイドが来たら厄介だ。修繕が終わるまで気は抜けない。

「ハイドの心臓を、こちらへ」

 回収班のひとりが、イソラの前に箱を差し出した。立方体のジュラルミンケースだった。箱の中には、分厚く黒い緩衝材が詰められている。れ下がるケーブルを軽くまとめて、イソラは箱の中へ心臓を収めた。

「すごいな、きみは……初戦で、ここまで動けるなんて」

 イソラの背中にトキワの声が掛かる。振り向くと、トキワは微笑を浮かべていた。苦みを溶かした微笑だった。

「見たこともない怪物と戦うのは、怖くなかったの?」

「別に……人のかたちをしていながら、人を殺す人間もいるから……私も。それに、自分よりからだの大きなものと戦う、似たようなことなら、もう何年も、してきましたから」

 ただ、慣れているだけ。

「……それって、つまり、人を、って、こと?」

 トキワの唇が、奇妙なかたちにゆがんだ。

 何を言っているの? 不思議そうな色を溶かした瞳で、イソラはトキワを見つめ返す。

「私には、人もハイドも同じです。殺せと命令する人がいて、私はそれを実行する。すべきことは大して変わりません」

 イソラは静かに瞬きをした。面持ちはどこまでも無表情だった。トキワはうつむく。その手が、ゆっくりとこぶしを作っていく。

「……それが、きみの強さの理由なら、僕は、きみには、かなわないままで良いや」

 イソラから顔をそむけ、トキワは言った。

「僕は……人は、人として、見てしまう。いや……人として見られる人間でいたいと思ってる。だから……ハイドはたおせても、人を手にかけることはできないよ」

 トキワは何を言っているのだろう? イソラには分からない。もしここでイソラがトキワに斬り掛かったとして、トキワは、何の抵抗もなく、進んで殺されてやるというのだろうか。

「あなたの言う、人、というのは、人を殺さない人、ということ?」

「そうだよ。人を殺すような人間を、僕は、同じ人として認めたくない」

 返されるきびす。遠ざかる背中。イソラには分からない。ただ、ふと思う。トキワが生まれたとき、両親は泣いて喜んだのかもしれない。トキワが誰かにナイフを向けるとき、その相手の人生というものを考えて、手が震えたりするのかもしれない。サガミが、いつか言ったように。





 数日後、駐屯地の一室で、イソラたちジキルは、シキナミに採血を受けた。今回の戦闘で体内のテロメリアがどれだけ消費されたのか調べるためだという。

 採血が終わり、くっていた袖を下ろしながら、イソラは窓の外に目を向けた。ハイドによって開けられた隔壁の穴は、その日のうちに塞がれている。修繕に使われた金属は、きめの細かい銀色の光沢があり、周囲の素材とは明らかに質の異なるものに見えた。

 建物のすぐ下から、隊員たちの声と、作業の音が聞こえる。

 隔壁から取り出されたハイドは、解体の後、ひとつひとつの部品を丁寧に高圧の水で洗浄されていた。

「これなら大丈夫だ。よし、運べ」

 乾燥させた装甲に計器をかざしていた一人が、回収班に指示を出す。付着している毒の粒子の量を測定できるのだという、その計器は、懐中電燈に似た、金属製のつつのような形をしていた。ばらばらに分解されたハイドが、荷台に載せられ、昇降機に運び込まれていく。

「公社の開発棟へ搬入するんだよ」

 イソラの問いを察して、シキナミが教えてくれた。

「何に使われるのですか?」

 振り返って、イソラは訊いてみた。シキナミは小さく微笑み、採血管に目を落とすことでさりげなくイソラから視線を外すと、言葉を続けた。

「隔壁を修繕する材料にするんだよ。ハイドの装甲ほど純度の高い硬質な金属は、公社には存在しないから。壊したところは自分の体で塞いでもらおうっていうわけ。きみたちのナイフもそうだし。他にも用途は沢山、引く手あまただよ」

 採血管をケースに収めながら、のんびりとした口調で、シキナミは答えた。

「さてと。後でこれも運ばなきゃね。相変わらず、大きさに見合わない重たい箱だなぁ、これは」

 台の上に置かれたジュラルミンケースを、シキナミが指の先でこつこつとつついた。ハイドの心臓が収められた箱だった。緩衝材だと思っていた黒い内側は、厚いなまりを布で包んだ器だったらしい。道理で重いわけだ。

「ハイドの心臓は、洗浄しなくても大丈夫なのですか?」

「大丈夫じゃないけど、洗浄のしようがないんだ。この心臓の中身自体に毒の粒子を出す物質が使われているからね。しかも、とてつもない動力資源のかたまりときた。下手に扱えば大惨事だ」

 だからこんな箱に入れて運ばないといけない、とシキナミは口調を変えずに言い添えた。

 あぁそうか、とイソラは胸の内で合点する。ハイドの心臓を傷つけないよう命じられた理由も、そこにあるのか。

「そんな危険なハイドの心臓を、一体、何に……?」

 イソラは重ねて訊いてみた。これだよ、とシキナミは頭上を指差す。これ……?イソラはシキナミの指の先を見上げた。天井の下、直列に連なった白熱燈が、煌々こうこうと灯されている。この地下都市になくてはならないもの。

「……電気?」

「正解」

 ふふっとシキナミは肩をすくめて悪戯っぽく笑った。わざとそうしてみせたようにも感じた。

「先人から受け継いだ、公社に残存する発電機だけでは、もう、とてもこの地下を支える電力をまかなえない。皮肉だと思う? 自分たちの未来をおびやかす最たるものが、自分たちの今の生活を支えているなんてさ」


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