4

 翌日、タカナミはひとりで、少女のいる部屋を訪れた。少女は既に起きていて、窓から外を眺めていた。

「面白いものでもあったか?」

 タカナミの言葉に、少女は小さく首を傾けて、少し考えるような素振そぶりをみせた。

「眩しいと、思いました。ここは、切れている電球がひとつもない」

 ぺたぺたと裸足でベッドに戻り、ちょこんと隅に腰掛ける。着せられた検査衣は、大人用しかなかったらしい。ぶかぶかの襟ぐりから、華奢な肩がのぞいていた。

「これ、着とけ」

 小脇に抱えていた包みを、タカナミは差し出した。中には、真新しい黒のパーカーと、履きやすそうな靴、他にも数点、必要な衣類が入っていた。

「一応、おまえが着ていたものと似たものを選んだつもりだがな」

 そう言って、タカナミは少女から視線をらした。

「……いくらですか」

「あぁ?」

「私は、あなたに、いくら支払えば良いですか」

「いらねぇよ、そんなもん。必要経費だ」

 タカナミは顔をしかめた。少女は、きょとんと瞬きをして、タカナミを見上げた。

 舌打ちして、タカナミは話題を変える。

「おまえ、字は読めるのか?」

「少しなら」

「なら、手、出せ」

 途惑とまどう少女の掌に、小さく折り畳まれた紙切れが置かれた。掌とタカナミを交互に見遣りながら、少女は紙片を、そっと開く。

 ぱさり、と羽音に似た音が立った。中には、上手くはないけれど読みやすい字で、単語だろうか、少女の知らない文字が並んでいた。

「……これは?」

 瞬きをする少女に、タカナミは言った。

「一晩、考えた。おまえの名前だ」

「……名前……」

 紙上にたたずむ文字に視線を落とす。声に出して、読んでみる。

「……イ……カラ……?」

「イソラ。……空をおもう、という意味だ」

「そら……?」

 少女は顔を上げる。

「そら、って、なんですか?」

「俺も見たことはないがな……地上にあって、どこまでも高く、果てがない。電球がなくても、昼には電球とは比べものにならない眩しい光が降り注いで、夜は瞬く小さな光が無数に広がるらしい。そのあいだに色も、藍から金へ、青から茜へ、刻々と変わる……俺が、いつか見てみたいと思っているものだ」

 今はもう、人は地上になんて、出られるわけがないけれど。

「その、ちじょう、というのは、第何階層にあるのですか?」

 少女の瞳が瞬きを打つ。食い入るようにタカナミを見つめて。

「地上は、階層じゃない」

「え……?」

「第一階層よりも、さらに上に、隔壁も階層もない世界がある。行き止まりの存在しない、どこへだって行ける、自由な世界だ」

 窓外に広がる街の天井を眺めながら、タカナミは語った。その横顔には、微かに、本当に微かにだけれど、微笑が確かに浮かんでいた、気がした。

 隔壁のない世界は、一体どれだけ広いのだろう。電球がなくても明るい世界は、一体どれだけ眩しいのだろう。セピア色に縛られない世界は、一体どれだけ鮮やかなのだろう。

 美しい、のだろう。

「そんな、大切なものの名前を、私に?」

 ぽつり、と雫で水面みなもを揺らすように、少女は呟いた。

「不満か?」

 そっぽを向いたまま、タカナミは尋ねた。

 すとんと表情を取り落としたまま、少女は首を横に振った。掌の紙を見つめる。紙上にとまる二つの文字を、そっと、声でなぞる。イソラ。いそら。――惟空いそら。言葉が飛び立つ。呼ばれて、羽ばたく、それは、名前だった。美しい、名前だった。

「……どうして」

 名前など、自分には記号だと思っていた。けれど、これは違う。記号じゃない。記号なんかじゃ、ない。

「勘違いするな。別に、深い意味はない。おまえはハイドを恐れなかった。テロメリアに適合すれば、ジキルとして利用できると思った。だから拾った。それだけだ」

 淡々とした声音だった。温かくはないけれど、冷たさもない。

 それは答えじゃない、と少女は思った。

 あぁそれと……とタカナミは、そこでふと思い出したような素振りで、ジャケットのポケットから、何かを無造作に投げた。咄嗟とっさに少女は受けとめる。温められた、缶入りのココアだった。

「シキナミが来るまで、まだ時間があるからな」

 そう言って、タカナミは反対のポケットからコーヒーを取り出し、ベッドの傍の椅子に脚を組んで座った。

 プルタブを開ける小気味良い音が響く。ふわりと立つコーヒーの香り。

「どうした?」

 少女が缶を握りしめたまま動かないのを見て、タカナミは手を止めた。

「それ、嫌いか?」

 少女は首を横に振る。もとよりココアなど飲んだことがない。

「言っておくが、毒は入っていないぞ。……というか、たとえ入っていたとしても、俺たちジキルを毒殺するのは至難のわざだ」

 少女は再び首を振る。違う、そうじゃない。

「……いただき、ます」

 少女の小さな手が、缶を開ける。甘い匂いが少女を包む。

 こくり、と一口。じんわりと熱が、体の内側に沁みていく。

 温かい。

 検査衣の上に、ぱたたっ、と、数粒、光がしたたった。透明な雫が、少女の白い頬を伝い落ちていく。

「……泣くほど美味かったのか?」

 切れ長の瞳を僅かに大きく見開いて、タカナミは数度、しばたたく。

 ココアの缶を握る手に、少女は、ぎゅっと力を込めた。頬を濡らす涙が唇に届き、じわりと塩の味が滲む。

 どうして涙が出るのか、少女にも分からない。嗚咽おえつもなく、ただ何かが決壊したように、涙だけがあふれて止まらない。

 温かい涙だった。もう一口、飲んだココアは、もっと温かかった。涙よりずっと。 ココアは甘かった。涙の塩辛さと混じり合って、一層、甘く、舌を包み、喉を伝い、一切の言葉をほどいた。





 公社の本部は、大きな赤煉瓦れんがの建物だった。黒い重厚な鉄柵に囲われ、ゲートの両側には門番がいて、中に入ろうとする者の通行証を確認していた。それを尻目に、シキナミは、事もなげにゲートをくぐった。シキナミの後ろに続きながら、イソラは門番とシキナミを交互に見た。

「私は、この顔が通行証みたいなものだから」

 シキナミは振り向いて、片目をつむり、くすりと笑った。

 昇降機に乗り、最上階で降りる。廊下の両側に、金属製の扉が、ずらりと並んでいた。イソラのいた開発棟と、基本的に構造は同じようだった。公社の制服らしい同じ灰色の服を着た人々が、書類を手に行き交っている。廊下の突き当たり、最奥の部屋の扉を、シキナミは叩いた。

「きみに何か訊いてくることはないだろうけど、たとえ質問されても、きみは何も喋らないで。私が適当に答えておくから」

 コの字型に配置された机に、十数人ほどの人間がいた。暗褐色の絨毯が敷かれた部屋だった。ほとんどが初老の男たちで、イソラの目には、全員同じ顔に映った。始末屋の仕事における依頼人になるか標的のリストに載るかでもしなければ、憶えられそうになかった。彼らの視線が、一斉にイソラへ注がれる。軽く咳払いをして、シキナミが話し始める。イソラは、シキナミが独自に極秘に実施したスクリーニングで選出された人間ということになっていた。いくつかの訓練を経て、実戦に投入されるらしい。シキナミの言葉の通り、彼らはイソラに話しかけることはなかった。ただ無遠慮な視線で、じろじろと眺めただけだった。

「こんな子供が、役に立つのか? 戦えるのか?」

 ひとりがシキナミに尋ねた。

「訓練次第ですが、ジキルはジキルです。貴重な適合者であることに変わりはありません」

 シキナミは淡々と答えた。投入については他のジキルと同様、シキナミの了承を得なければならないという取り決めがなされて、報告は終わった。彼らの半分にも満たない年齢であるにもかかわらず、シキナミは公社の中でも相当の権力を持っているようだった。

「ああいう場所は、肩が凝るよね。若さが吸い取られてしまいそうだ」

 ゲートを出たところで、うーん、と伸びをしながら、シキナミは笑った。

「それじゃ、寮に案内するよ。きみの部屋、取っておいたから。もっとも、訓練が終わるまでのあいだだけどね」





 寮の一階がセルフサービスの食堂だった。麺の入ったスープの椀に、米やパン。様々な食材を使った煮物や焼き物、蒸し物の小鉢。今まで缶詰くらいしかまともに食べるもののなかったイソラにとっては、初めて目にするものばかりで、空っぽのトレイを手に、イソラは困惑する。

 これが、公社……。

 シキナミは、実験の結果が出ている頃だからと言って、イソラを残し、開発棟へ戻っていった。イソラはひとりだった。

「なんで、ジキルに食わせる必要があるんだろうな」

 後ろのテーブルで、若い男がふたり、喋っていた。さっき本部にいた人間たちの着ていた服と同じ色の、けれど型の違う制服を着ていた。

「あいつら、食わなくても死なねぇんだろ?」

「全くだ。貴重な食料だってのに」

 そうなのか、とイソラはカウンターに向かいかけた足を止めた。トレイ置き場に引き返す。食べなくても良いのなら、それはとても便利な体だ。ある程度までなら怪我の痛みだって無視できるようになったくらいだ。死なないのなら、空腹感も、いずれ麻痺させることができるだろう。そう、特に何の感慨もなく、トレイを戻そうとしたときだった。

 とん、とトレイを持つ腕に負荷が掛かった。ふわりと立ち上るスープの湯気が、鼻をくすぐる。

「……タカナミ?」

「食えるときには食っとけ。テロメリアの無駄遣いはするな」

 眉をひそめて、タカナミは少し怒ったようにイソラを見下ろした。

「こっち! 三人分、席取りましたよ!」

 通路を二つ挟んだ向かいのテーブルから、明るく弾んだ声が飛んできた。見ると、短い焦茶の髪の少年が、こちらに手を振っている。

「あいつはトキワ。二番目のジキルだ」

 行くぞ、ときびすを返したタカナミの背中を、イソラは小走りに追いかけた。

「あの……テロメリアの無駄遣いって、どういう……?」

 イソラは小声で訊いてみた。振り返らないまま、タカナミは答えた。

「一度打ったテロメリアの効果は永遠じゃない。体の損傷や負担に応じて消費されていく。だから、ある程度まで減ったら再投与して補うが……あれは、そう何度も打つべきものじゃない」





 トキワは、イソラよりも幾つか年上のようだった。第九階層出身で、公社の治安維持部隊の養成学校にいたところ、全校生徒に実施されたスクリーニングでジキルに選出されたらしい。くるくるとよく動く、大きな飴色の瞳をしていた。

「この食事も、しばらく食べ納めだな」

 ふー、と息を吹きかけてスープを冷ましながら、トキワは軽く肩をすくめた。

「明日から、四十二街区だ」

 トキワの言葉に、イソラは視線を上げた。

「四十二街区って……」

「そうだよ。最後に放棄された街が、僕らの戦場。この都市の本当の行き止まりだ」

 そう言って曖昧あいまいに微笑んだトキワは、そういえば、と話題を変えた。

「きみは、どこの街区から来たの?」

「四十九街区です」

「えっ、四十九街区って、あの四十九街区?」

 意外だな、とトキワは無邪気な笑顔を浮かべて言った。意外? とイソラは首を傾ける。気を悪くしないでほしいんだけど、と前置きして、トキワは続けた。

「僕は行ったことがないけど、どんな街区なのか、うわさは聞いていたから……でも、きみには、僕が想像していた粗野な雰囲気がない。言葉遣いも丁寧だ。しつけの厳しいお家だったのかな?」

 そう言って微笑むトキワに、イソラの瞳が揺れた。躾……。

「言葉は……一時期、私を……傍に置いていた人から、教わりました」

「それって、小さい頃? もしかして、きみ、記憶、全部、持ってるの?」

「え……?」

「良いなぁ」

 トキワは椅子の背にもたれ、天井をあおいだ。

「僕は消えた。五年前くらいまでの記憶、全部。テロメリアの副作用だって」

 きみは余程よほどテロメリアと相性が良いんだろうね、とトキワは苦笑した。

「ね、その人って、どんな人だったの?」

「どんなって……」

「トキワ」

 タカナミがトキワをたしなめる。ごめん詮索が過ぎた、とトキワは肩を竦め、食事を再開した。

 イソラの手は止まったままだった。喉の奥で、どろりとした黒いものが、鎌首をもたげていく。いやだ。出てこないで。目の前がほのかに暗くなる。

 赤い部屋。薄暗い照明。湿った布。細められた目。降り注ぐ命令。響く声。さぁ、奉仕の時間だ――

「イソラ?」

 タカナミの声が、イソラを引き戻す。口もとに伸びかけていた手を握り込んで、唇を引き結び、這い上がる黒いものを飲み下す。

「なんでもないです」

 大丈夫だ、とじ伏せる。吐いて、たまるものか。揺れるな。操縦しろ。自分の体を制御できない弱さなんか、とっくの昔に捨てたはずだ。


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