3

 開発棟の最上階、第一研究室。限られた人間しか立ち入ることを許されない特別区画に、シキナミの研究室はある。

「鼠が捕まったと思ったら、とんでもないものが一緒にくっついてくるんだもの」

 びっくりしたな、とシキナミは軽く肩をすくめ、苦笑とも歓笑ともつかない微笑を浮かべた。視線の先では、タカナミが、シキナミの用意した安楽椅子に体を預けている。

「全く……瀕死だったとはいえ、行きずりの子どもに独断で投与するなんて……。適合しなかったらどうするつもりだったの」

 シキナミは僅かに首を傾けてタカナミを見つめた。言葉に反して、シキナミの瞳に非難の色はなく、そのまなざしは穏やかだった。

「その場合、俺がそいつを殺したことになるな」

 タカナミはシキナミから目をらしたまま、無表情に答えた。

「だが……」

 声を低め、タカナミは言葉を切り、シキナミへと視線を向ける。

「もし、おまえが俺なら、同じことをしたんじゃないか」

「うん。そうだね」

 シキナミは、あっさりと頷いた。

 キャビネットを開け、シキナミは小さなジュラルミンケースを取り出した。中にはアンプルが数本、収められていて、シキナミの手が、そのうちの一本を取り上げた。ゆらめく琥珀色の液体が、電燈の光を受けて、きらきらと輝く。その光を瞳に映しながら、シキナミは笑みを深めた。

「生まれて初めてあれを相手にしながら、微塵みじんひるむことなく戦えた子ども。もし適合するなら、あなたの後継にだって成り得る。賭けに乗らない手はないだろうね」

 そして結果は、勝ちに出た。

「目が覚めたら、一緒に会いに行こう。私たちの希望に」

「希望か」

 生贄の間違いじゃないのか、という言葉を、タカナミは喉の奥であやめた。けれどシキナミは、それをさとく読み取ったらしい。ふっと、慈しむように目を細めた。

「同じことだよ。希望なんて呼ばれるものの多くは、他力本願の美化か、未来に丸投げした欲念に過ぎないんだから」

 杖を置き、シキナミはアンプルを持つ手と逆の手で、チェストから細い注射器を取り出す。そして、タカナミの傍の椅子に腰を下ろすと、アンプルの先を、静かに折った。

「首と腕、どっちが良い?」

「腕」

「また腕? そろそろ首に打たせてほしいんだけど」

「腕でも首でも効果は変わらないだろ」

「首だと私の心がたぎる」

「黙れ、変態。さっさとやれ」

 睨みつけると、シキナミは肩を竦め、慣れた手つきでアンプルの薬液を注射器に吸い上げた。

「分かった。腕にするよ。……力抜いて」

 指先をタカナミの腕にすべらせながら、シキナミの顔から、すっと笑みが引いていく。華奢だけれどかっしりとしたタカナミの腕に、薄らと透けた、蒼い血の管。前に打った針の痕が欠片も残っていないことを、喜ぶべきなのだろうか……いや、やめよう、そんなことを考えるのは、傲慢だ。

 目を伏せて、シキナミは唇を引き結ぶと、注射針をタカナミの腕へと刺し込んだ。目の端で眺めながら、タカナミは静かにそれを受けていた。

 透き通った琥珀色の光が、タカナミの体に注がれていく。途端、シキナミの胸を、後悔とも恐怖ともつかない激情が駆け上がる。投与の度に襲う波濤はとう。けれど、その感情の名前も正体も、シキナミは知らない。

 針を抜く。そこに血の滴はない。注射針程度の刺し傷など、この体は瞬きよりも早く止血する。一秒、二秒、三秒……シキナミも、タカナミも、互いに無言だった。この後に起こることを知っていて、受け容れてもなお緩めることのできない緊張の糸を張り、ふたり、静かに身構えていた。間もなく、荒く乱れたタカナミの呼吸が、張りつめた静寂を破る。副反応が、押し寄せてくる。全身を駆け巡る痺れと痛み。上昇する熱。きつく目を閉じ、肘掛に爪を立てて、タカナミは歯を食い縛る。シキナミから顔を背けて、苦しげな息の下で、うめき声も悲鳴もあげることなく。そんなタカナミを、シキナミは静かに見つめている。少しずつ慣れてはいくようだけれど、それでも投与の度に必ず起きる一過性の反応。以前トキワに初めて投与したときは、のたうちまわるトキワをベッドに拘束して抑えた。何度も改良を試みているけれど、この副反応をなくすすべを、シキナミはいまだに見つけられずにいる。

(きっと……)

 あの少女にも、この副反応は起きていただろう。シキナミは想像する。血まみれの少女を抱き上げるタカナミを。苦しみに身をよじる少女を抱きしめるタカナミを。

(私も、抱きしめられたら、良いのに)

 肘掛の代わりに、私に爪を立ててくれれば良い。血が滲むまで。いいや、いっそ、えぐってくれれば良い。苦痛を呑み込んだ分だけ、私を引き裂いてくれたって良い。

 けれどタカナミは、シキナミに触れはしない。シキナミが触れることは拒まないのに、その逆はかたくなだった。タカナミはシキナミを害さない。求めない。決して。

 だから、シキナミも、ひとりで耐え続けるタカナミを、目に焼きつけることしかできない。

「……見るな」

 やがて、苦痛の波が引いたのか、長く息を吐いて、顔をそむけたままタカナミは言った。シキナミは首を横に振る。努めて淡々と、穏やかな口調を崩さずに。

生憎あいにくだけど、それはできない。これは開発者としての観察。私の義務だから」

 我ながらずるい、とシキナミは思う。開発者としての義務という言葉は、至極便利だ。タカナミに嘘はきたくない。自分の心も悟られたくない。そのどちらも叶えられる免罪符のような一言だ。開発者と被検体、その大義名分のもとで、シキナミはタカナミの傍にいられる。



◇  ◇  ◇



 目を開けると、白い天井が広がっていた。柔らかな毛布。清潔なシーツの敷かれたベッドの上に、少女は横たえられていた。ここはどこだろう。煌々こうこうと灯る電燈が、闇に慣れた目に眩しい。無意識に右手をかざして光を遮ろうとして、少女はその手を止めた。右手?

(千切られたはずの、右手がある……?)

 あれは夢だったとでもいうのだろうか。あの依頼人も、壁を砕いて現れた、ヒトでないものも、腕を引き裂かれる感触も、こんなにも鮮明に憶えているのに。

 ふと、軽く扉を叩く音がして、少女は振り向いた。咄嗟とっさに身を起こそうとして、首にめられたかせが少女の意思をはばんだ。鉄の鎖が、首とベッドの柵を繋いでいた。

 蝶番ちょうつがいの軋む音と共に、すらりと背の高い影法師がふたつ、部屋へと入ってきた。ひとりは白衣姿で、左手には杖。長い黒髪を後ろで緩く束ねている。もうひとりは、白衣姿の人よりも幾つか年下に見える、せた深緑のジャケットを着た、短い黒髪の青年。

「……あなたは」

 少女の瞳が瞬きを打つ。倒れた自分を抱き上げた、力強い、温かな腕を思い出す。

「タカナミのこと、憶えているみたいだね。気分はどう?」

 ベッドの傍の椅子に腰掛けて、白衣姿が尋ねた。少女は身を固くする。瞳に警戒の色が宿る。

「あなたたちは……これは、一体……?」

 少女は途惑とまどいをそのまま口にした。

 白衣姿は軽く屈んで、少女と目線を合わせて微笑んだ。

「私はシキナミ。公社の研究員のひとりだよ。そして、こっちがタカナミで、ここは公社の一角。私の研究室の一区画だ。きみは命拾いして、私の被検体として保護されたってわけ」

「被検体?」

「そう。これのね」

 白衣のポケットから、シキナミはおもむろに、小さなアンプルを取り出した。中には琥珀色の液体が満たされていた。サガミの持っていた注射器の中身と同じだった。

「テロメリアという薬だよ。人のかたちを、本来あるべきかたちに戻し続ける薬だ」

 シキナミの視線が、指し示すように少女の右手に注がれる。くすんだ蒼い瞳だった。

「千切れた腕が、また生えるの?」

「分かりやすい効果を一言で言えば、そうだね」

 他にも身体能力の強化とかいろんな効能があるけど、とシキナミは笑みを深めた。

「テロメアって知ってる? 細胞の分裂寿命の限界を決めているもののひとつで、たとえるなら蝋燭ろうそくみたいに、細胞が分裂する度に短くなっていって、あるところまで短縮すると、細胞は分裂をやめて、やがて死滅していくんだ。この機構を利用して働きかけるのが、この薬。でも、なかなか制御が難しくてね、スクリーニングで見積もった、ヒトへの適合率は、僅か一万人に一人いるかどうかって有様ありさまだ。きみはめでたく……と言うべきじゃないかもしれないけど、その一万人に一人というふるいの上に残った人間のひとりというわけ。ちなみに、ヒトにはテロメラーゼといって、テロメアを延長させる酵素が備わっていて――」

「シキナミ」

 かたわらに立つタカナミが、いさめるように遮った。

 興奮気味に頬を紅潮させていたシキナミの面持ちが、苦笑のそれに変わる。

「ごめん。研究の話をすると止まらなくなる。私の悪い癖だ」

 話を戻そう、とシキナミは椅子に深く掛け直す。再び浮かぶのは微笑。

「四十二街区で、きみは鋼のばけものに遭遇しただろう」

 少女の瞳が揺れた。金属でできた、ヒトでないもの。

「あれは、何、ですか?」

「うーん、そうだね、一言で言うなら、旧時代の負の遺産かな。私たちは、ハイドって呼んでいる。機械の獣だ」

「はいど?」

 初めて耳にする単語に、少女は瞬きをした。シキナミは変わらず微笑み続けている。まるで貼りつけたような、温度のない、硬い笑み。これがこの人の無表情なのかもしれないと、少女は思った。見つめ返すと、シキナミは蒼い瞳を細めた。

「そう。そして、ハイドと戦うのが、きみたち、テロメリアの適合者だ。ハイドに対して、ジキルと私たちは呼んでいる」

 放たれた声は、一切の温度が削ぎ落とされていた。努めてそうしようとしたようにも思えた。

「きみを含めて、適合者は現在、三人いる。最初のジキルであるタカナミと、もう一人。後で紹介するよ。きみが従うなら」

「従う?」

 尋ねた少女に、シキナミは静かに頷いた。杖を握り、席を立つ。少女を見下ろす瞳が、逆光の下に沈む。

 一呼吸の後、シキナミは口を開いた。

「きみに選択権をあげよう。きみがテロメリアに適合したことを知っているのは、今のところ、私とタカナミと、この研究室に属する一部の人間だけで、まだ公社の本部にも知られていない。私に従い、ハイドと戦って生きるか、否か、今ここで、選んでほしい」

 ただ……と、そこでシキナミは言葉を切った。薄い唇を引き結び、少し湿らせたそれで、続きを言い放つ。

「もし、嫌だと言ったら……機密漏洩を防ぐため、私がきみを、殺処分することになる」

 瓦礫がれきのように、言葉は落ちた。少女は静かに、それを受けていた。いささかも表情を変えることなく。黒い瞳が、じっとシキナミを見上げた。闇そのもののような、底をのぞけない瞳だった。

「戦うことには、慣れていますから」

 ぽつり、と雫を水面みなもに落とすように、少女は言った。そう、とシキナミは、吐息と共に頷くと、僅かに顔を綻ばせた。さっきとは違う、柔らかな微笑だった。シキナミの手が、少女の首へと伸びる。かしゃん、と乾いた音を立てて、枷が外された。少女は瞬きをする。瞳に微かに、驚きの色を浮かべて。

「良いのですか?」

「何が?」

「私を、こんなに簡単に信用して。もしかしたら、あなたをだまして、油断させて、枷を外された瞬間に逃げていたかもしれないのに」

 四十九街区では、それが常套だったのに。

「これでも、人を見る目はあるつもりだよ。きみは逃げない。そうだろう?」

 シキナミは笑った。

「きみの名前を、まだ聞いていなかったね」

「私に名前は、ありません」

 少女は、あっさりと言った。口調はどこまでも淡々としていた。今まで誰も少女を呼ぶことはなかったし、始末屋の事務所に勧誘された後も、メンバーとして割り振られた登録番号があれば事足りた。名前なんて記号だ。不便だというなら、好きに呼べば良い。

「うーん、じゃあ、タカナミに、明日までの宿題だね。この子の名前を考えておくこと。よろしくね」

「なんで俺?」

「私よりセンスあると思うから」

 少女の胸の内を余所よそに、傍らのタカナミを振り返り、シキナミは明るく言った。そして、再び少女に向き直る。

「今日はこのままここで休んでいて。明日、本部の連中に、報告を兼ねてお披露目するから」

 じゃあね、とシキナミはきびすを返した。無言のまま、タカナミも後ろに続く。

 部屋を出る刹那、タカナミは僅かに振り向いて少女を見つめた。少し長めの前髪の向こうに、凪いだ切れ長の瞳。表情の読み取れないそれは、シキナミよりも淡い、澄んだ青をしていた。


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