3
開発棟の最上階、第一研究室。限られた人間しか立ち入ることを許されない特別区画に、シキナミの研究室はある。
「鼠が捕まったと思ったら、とんでもないものが一緒にくっついてくるんだもの」
びっくりしたな、とシキナミは軽く肩を
「全く……瀕死だったとはいえ、行きずりの子どもに独断で投与するなんて……。適合しなかったらどうするつもりだったの」
シキナミは僅かに首を傾けてタカナミを見つめた。言葉に反して、シキナミの瞳に非難の色はなく、そのまなざしは穏やかだった。
「その場合、俺がそいつを殺したことになるな」
タカナミはシキナミから目を
「だが……」
声を低め、タカナミは言葉を切り、シキナミへと視線を向ける。
「もし、おまえが俺なら、同じことをしたんじゃないか」
「うん。そうだね」
シキナミは、あっさりと頷いた。
キャビネットを開け、シキナミは小さなジュラルミンケースを取り出した。中にはアンプルが数本、収められていて、シキナミの手が、そのうちの一本を取り上げた。ゆらめく琥珀色の液体が、電燈の光を受けて、きらきらと輝く。その光を瞳に映しながら、シキナミは笑みを深めた。
「生まれて初めてあれを相手にしながら、
そして結果は、勝ちに出た。
「目が覚めたら、一緒に会いに行こう。私たちの希望に」
「希望か」
生贄の間違いじゃないのか、という言葉を、タカナミは喉の奥で
「同じことだよ。希望なんて呼ばれるものの多くは、他力本願の美化か、未来に丸投げした欲念に過ぎないんだから」
杖を置き、シキナミはアンプルを持つ手と逆の手で、チェストから細い注射器を取り出す。そして、タカナミの傍の椅子に腰を下ろすと、アンプルの先を、静かに折った。
「首と腕、どっちが良い?」
「腕」
「また腕? そろそろ首に打たせてほしいんだけど」
「腕でも首でも効果は変わらないだろ」
「首だと私の心が
「黙れ、変態。さっさとやれ」
睨みつけると、シキナミは肩を竦め、慣れた手つきでアンプルの薬液を注射器に吸い上げた。
「分かった。腕にするよ。……力抜いて」
指先をタカナミの腕にすべらせながら、シキナミの顔から、すっと笑みが引いていく。華奢だけれどかっしりとしたタカナミの腕に、薄らと透けた、蒼い血の管。前に打った針の痕が欠片も残っていないことを、喜ぶべきなのだろうか……いや、やめよう、そんなことを考えるのは、傲慢だ。
目を伏せて、シキナミは唇を引き結ぶと、注射針をタカナミの腕へと刺し込んだ。目の端で眺めながら、タカナミは静かにそれを受けていた。
透き通った琥珀色の光が、タカナミの体に注がれていく。途端、シキナミの胸を、後悔とも恐怖ともつかない激情が駆け上がる。投与の度に襲う
針を抜く。そこに血の滴はない。注射針程度の刺し傷など、この体は瞬きよりも早く止血する。一秒、二秒、三秒……シキナミも、タカナミも、互いに無言だった。この後に起こることを知っていて、受け容れてもなお緩めることのできない緊張の糸を張り、ふたり、静かに身構えていた。間もなく、荒く乱れたタカナミの呼吸が、張りつめた静寂を破る。副反応が、押し寄せてくる。全身を駆け巡る痺れと痛み。上昇する熱。きつく目を閉じ、肘掛に爪を立てて、タカナミは歯を食い縛る。シキナミから顔を背けて、苦しげな息の下で、
(きっと……)
あの少女にも、この副反応は起きていただろう。シキナミは想像する。血
(私も、抱きしめられたら、良いのに)
肘掛の代わりに、私に爪を立ててくれれば良い。血が滲むまで。いいや、いっそ、
けれどタカナミは、シキナミに触れはしない。シキナミが触れることは拒まないのに、その逆は
だから、シキナミも、ひとりで耐え続けるタカナミを、目に焼きつけることしかできない。
「……見るな」
やがて、苦痛の波が引いたのか、長く息を吐いて、顔を
「
我ながら
◇ ◇ ◇
目を開けると、白い天井が広がっていた。柔らかな毛布。清潔なシーツの敷かれたベッドの上に、少女は横たえられていた。ここはどこだろう。
(千切られたはずの、右手がある……?)
あれは夢だったとでもいうのだろうか。あの依頼人も、壁を砕いて現れた、ヒトでないものも、腕を引き裂かれる感触も、こんなにも鮮明に憶えているのに。
ふと、軽く扉を叩く音がして、少女は振り向いた。
「……あなたは」
少女の瞳が瞬きを打つ。倒れた自分を抱き上げた、力強い、温かな腕を思い出す。
「タカナミのこと、憶えているみたいだね。気分はどう?」
ベッドの傍の椅子に腰掛けて、白衣姿が尋ねた。少女は身を固くする。瞳に警戒の色が宿る。
「あなたたちは……これは、一体……?」
少女は
白衣姿は軽く屈んで、少女と目線を合わせて微笑んだ。
「私はシキナミ。公社の研究員のひとりだよ。そして、こっちがタカナミで、ここは公社の一角。私の研究室の一区画だ。きみは命拾いして、私の被検体として保護されたってわけ」
「被検体?」
「そう。これのね」
白衣のポケットから、シキナミは
「テロメリアという薬だよ。人のかたちを、本来あるべきかたちに戻し続ける薬だ」
シキナミの視線が、指し示すように少女の右手に注がれる。くすんだ蒼い瞳だった。
「千切れた腕が、また生えるの?」
「分かりやすい効果を一言で言えば、そうだね」
他にも身体能力の強化とかいろんな効能があるけど、とシキナミは笑みを深めた。
「テロメアって知ってる? 細胞の分裂寿命の限界を決めているもののひとつで、
「シキナミ」
興奮気味に頬を紅潮させていたシキナミの面持ちが、苦笑のそれに変わる。
「ごめん。研究の話をすると止まらなくなる。私の悪い癖だ」
話を戻そう、とシキナミは椅子に深く掛け直す。再び浮かぶのは微笑。
「四十二街区で、きみは鋼のばけものに遭遇しただろう」
少女の瞳が揺れた。金属でできた、ヒトでないもの。
「あれは、何、ですか?」
「うーん、そうだね、一言で言うなら、旧時代の負の遺産かな。私たちは、ハイドって呼んでいる。機械の獣だ」
「はいど?」
初めて耳にする単語に、少女は瞬きをした。シキナミは変わらず微笑み続けている。まるで貼りつけたような、温度のない、硬い笑み。これがこの人の無表情なのかもしれないと、少女は思った。見つめ返すと、シキナミは蒼い瞳を細めた。
「そう。そして、ハイドと戦うのが、きみたち、テロメリアの適合者だ。ハイドに対して、ジキルと私たちは呼んでいる」
放たれた声は、一切の温度が削ぎ落とされていた。努めてそうしようとしたようにも思えた。
「きみを含めて、適合者は現在、三人いる。最初のジキルであるタカナミと、もう一人。後で紹介するよ。きみが従うなら」
「従う?」
尋ねた少女に、シキナミは静かに頷いた。杖を握り、席を立つ。少女を見下ろす瞳が、逆光の下に沈む。
一呼吸の後、シキナミは口を開いた。
「きみに選択権をあげよう。きみがテロメリアに適合したことを知っているのは、今のところ、私とタカナミと、この研究室に属する一部の人間だけで、まだ公社の本部にも知られていない。私に従い、ハイドと戦って生きるか、否か、今ここで、選んでほしい」
ただ……と、そこでシキナミは言葉を切った。薄い唇を引き結び、少し湿らせたそれで、続きを言い放つ。
「もし、嫌だと言ったら……機密漏洩を防ぐため、私がきみを、殺処分することになる」
「戦うことには、慣れていますから」
ぽつり、と雫を
「良いのですか?」
「何が?」
「私を、こんなに簡単に信用して。もしかしたら、あなたを
四十九街区では、それが常套だったのに。
「これでも、人を見る目はあるつもりだよ。きみは逃げない。そうだろう?」
シキナミは笑った。
「きみの名前を、まだ聞いていなかったね」
「私に名前は、ありません」
少女は、あっさりと言った。口調はどこまでも淡々としていた。今まで誰も少女を呼ぶことはなかったし、始末屋の事務所に勧誘された後も、メンバーとして割り振られた登録番号があれば事足りた。名前なんて記号だ。不便だというなら、好きに呼べば良い。
「うーん、じゃあ、タカナミに、明日までの宿題だね。この子の名前を考えておくこと。よろしくね」
「なんで俺?」
「私よりセンスあると思うから」
少女の胸の内を
「今日はこのままここで休んでいて。明日、本部の連中に、報告を兼ねてお披露目するから」
じゃあね、とシキナミは
部屋を出る刹那、タカナミは僅かに振り向いて少女を見つめた。少し長めの前髪の向こうに、凪いだ切れ長の瞳。表情の読み取れないそれは、シキナミよりも淡い、澄んだ青をしていた。
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