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公社に属する施設の一角、開発棟の、通用口の前に
「待っていてくれたの?」
「別に。待つほど待っていない」
シキナミより少し背の高い青年だった。シキナミと同じ、癖のない真直ぐな黒髪だが、青年のそれは短い。上着のポケットに両手を突っ込んだまま、青年は、預けていた背を壁から離した。黒
「四十一街区の話、聞いた?」
「ああ」
「言っとくけど、あなたが責任を感じる必要は、これっぽっちもないからね。今回、あなたを投入しないでやるって決めたのは、私と、本部の連中なんだから」
「……ああ」
金属製の扉が並ぶ狭い廊下を、斜めに並んで歩いていく。途中、資料の束を抱えて足早に行き交う白衣姿の研究員と、何人か
「いつにも増して、ざわついてないか?」
辺りを見回して、青年は僅かに眉根を寄せた。白衣姿の研究員に混じって、灰色の制服を
「鼠が逃げたんだ」
「鼠?」
「そう、鼠」
シキナミが先刻本部に呼び出された理由も、四十一街区の件よりむしろそちらが主だった。
「こっちの話だよ」
肩を
「トキワは?」
「三階の第八治療室にいるよ。治療というべきか微妙だけど、完全な復元には、丸一日は掛かりそうだね」
「分かった」
歩調を速め、青年はシキナミを追い越していく。階段は、この廊下の突き当たりだ。
「待って、タカナミ」
こっちの話は終わっていないと、シキナミは呼び止めた。数段、階段を上がったところで、青年が振り返る。少し長めの前髪から
どこか眩しそうに目を細めて、シキナミは青年を見上げ、言葉を続けた。
「帰るときでも良いけど、私の研究室には必ず寄って。あなた、明日、投与日でしょ」
「……分かってる」
黒煉瓦の壁に
「すみません……でした……」
「なぜ謝る?」
視線すら合わせず
「全く……動けませんでした」
毛布の上で、トキワは両手を固く握りしめた。脚に喰い込む牙の感触が
「あなたのようには、戦えなかった」
悔しげに震えるトキワの声が、冷たい床に散っていく。その言葉の破片を拾い上げるように、タカナミは
「封鎖は無事に完了している。今は脚をなおすことだけ考えていろ」
トキワは顔を上げた。瞳は
「見舞いに来ていただけて、光栄です」
「そう思うなら、さっさとなおせ」
「はい」
トキワの返事を待って、タカナミは
◇ ◇ ◇
翌朝、事務所に顔を出した少女は、いつにも増して鼻息を荒くした所長に出迎えられた。
「ちょうど良かった。待っていたんだ、九八七号。大口の依頼が入った。おまえにやる。喜べ」
喜ぶのはあなたではないですか、という言葉を喉の奥に留めて、少女は
「依頼内容は?」
「護衛だ」
「護衛?」
「そうだ。この御方の、な」
最近また太ったらしい大柄な所長の影から、ひょろりとした若い小柄な男が顔を出す。ぼさぼさの髪に、よれよれのシャツ、擦り切れそうなスラックスに、緩んだネクタイ。彫りの浅い顔に、黒縁の分厚い眼鏡。小脇に小さなジュラルミンケースを抱えている。お世辞にも、お金を持っていそうな人間には見えなかった。少なくとも、今までの依頼人の風体と比べれば。
「女の子? 随分と小さ……いや、可愛らしい方なんですね」
言外に、こんな非力そうな少女で大丈夫かという不安が
「あの……私も、護衛なら、私以外に、もっと適任がいると思いますけど」
小声で所長を見上げる少女を遮って、所長は大声を被せた。
「いやいや、この第四階層の土地勘なら、こいつの右に出る奴はいませんし、こんな成りですが、腕前も申し分ねぇんですよ。第一、こいつは口が堅い。依頼人から頼まれれば、所長の俺にも口を割らねぇです」
それに、と所長は一度、言葉を切り、にやりと笑みを深めた。
「変にガタイの良いのを連れるより、こいつのほうが、街人に溶け込めますぜ。何か訊かれても、兄妹ですとか、従兄妹ですとか言って、誤魔化せる可能性が高い。だから、おすすめなんです」
どうします? と所長は依頼人の男を流し目で見た。なるほど、と男は頷いて、少女を見つめ、よろしくとでも言いたげな愛想笑いを浮かべた。少女はというと、口角ひとつ動かさなかった。ただ静かに、ぺこりと形式的なお辞儀をした。もとより仕事を選ぶ気はない。少女で構わないと依頼人が言うのなら、少女は自分の仕事をするだけだ。
瞬きをひとつ数えて、少女は、パーカーのポケットに入れていた右手を、すっと所長に差し出した。
「話がまとまったところで、先に昨日の報酬、貰えますか」
依頼内容は、男を無事に指定場所まで送り届けること。そこに男の協力者がいるらしい。
男の名前はサガミ。元々は公社の人間だったという。そうですか、とだけ返した少女に、サガミは「驚かないんだね」と目を丸くした。むしろ、なぜ驚くと思ったのか、そっちのほうが少女には不可解だった。公社を追われて流れてくる人間は、別に珍しくもない。公社に限らず、様々な場所から
所長の狙い通りというべきか、人ごみに紛れて、ここまで誰にも呼び止められることはなかった。
「こういう、護衛の仕事は、よくあるの?」
「どちらかというと、逆のほうが多いです」
「というと?」
「今あなたを追っている側の人たちの仕事ということです」
「……殺すことも?」
「殺さないことのほうが
ごくり、とサガミが唾を呑む気配がした。
「きみは、怖くなったりしないのかい? そのナイフを向ける相手の人生を考えて……手が震えたり、しないのかい?」
「人生って?」
聞き慣れない単語に、少女は首を傾げる。
「例えば、この人が生まれたときには両親は泣いて喜んだのかなとか、誕生日には家族みんなでケーキを囲んで、パーティーをしたりしたのかなとか」
少女は足を止めた。サガミの言葉を遮るように。
「あなたの言っていること、全然、分からない。第一、怖いって、何? あなたは、大人なのに、仕事に私情を挟むの?」
少女の声は、何の感情も宿していなかった。瞳は凪いだまま、眉を
長い連絡通路を抜けて、四十二街区に出た。ここから天井裏に上がって送風管を辿れば近道だけど……と頭の隅で考えた案は、サガミには無理そうだと即座に却下した。ロングパーカーの下に隠したナイフと銃の感触を確かめながら、入り組んだ路地を迷うことなく進んでいく。目的地まで、そう遠くない。
しばらく進んだところで、少女はふと辺りを見回した。音のない街だった。確か、準避難区域といったっけ……ガス漏れの危険があるとか、何らかの理由で、
それにしても、と少女は胸の内で怪訝に思う。公社は封鎖の理由を、天井の崩落と報じているけれど、街区を丸ごと放棄しなければならないような崩落が起きたのなら、轟音のひとつでも聞こえるものではないだろうか。
滲み出た地下水に濡れた石畳に、自分たちの靴音だけが響く。静かだった。奇妙なくらいに。いくら公社の通達が出ているとはいえ、この街区はここまでゴーストタウン状態だっただろうか。隣の四十一街区が封鎖されたことで、避難区域の指定が繰り上がったのかもしれない。でも、昨日の今日で、こんなに早く?
「……まずい」
舌打ちして、少女は天井を見上げた。
けれど、
「下がって!」
違う。上だけじゃない。天井の気配が真上に来る前に、別の気配が肉薄していた。ありえない速度で。封鎖されたはずの、壁の向こうから。
立ち
「……うそ……」
部屋の中は血に
「あいつだ……あいつに咬み殺されたんだ……そんな……もう入ってくるなんて……昨日、封鎖したばかりだってのに……」
上体を起こしたサガミが呆然と呟く。
「あいつって……あなたは、あれが何か、知っているの?」
パキン、と硝子を踏む音が響く。ゆらり、と影が扉を
「知っているも何も、あいつは――」
サガミの言葉が終わる前に、そいつは、こちらに向かって床を蹴っていた。
銃弾を、
光が
部屋の隅で、サガミはジュラルミンケースを開けようとしていた。震える声で、ぶつぶつと何かを呟きながら。
「そうだ……自分に……打っておこう…………そうしたら……万が一でも、僕だけは助かる可能性が…………」
牙が
分からない。けれど、ひとつだけ言える。
こいつは、敵だ。戦わなければ、殺される。
ならば、するべきことは、ひとつだ。敵か、敵以外か。少女にあるのは、その二者だけだ。味方など、もとから存在しない。少女は見据える。少女を害する人間たちのように。少女以外の全てのもののように。
ふと、そいつの胸の辺りに、青白い光を見つけた。セピア色の濃淡で構成された街の風景の中で、それは明らかに異質な色だった。よく見ると、それは心臓の拍動のように、ゆっくりと明滅している。これを狙えば、もしかしたら。
右手に銃を、左手にナイフを構える。相手を見据えたまま、少女は右手を斜め下へと向けた。狙うのは配管の一本。どこにどんな管が走っているのか、少女は頭に叩き込んでいる。トリガを引く。銃声と同時に飛び
身を
「……あ……」
ナイフは届かなかった。あと少しなのに、これ以上、進めなかった。
なぜ? 体が、動かない。なぜ?
肩から胸にかけて、ずるりと何かが滑り落ちていった。違う、滑り落ちたんじゃない。
喰い千切られた……?
どさり、と聞こえた音は、自分の倒れる音だろうか。
どくり、と
広がる血溜まり。あぁ、あのときと同じだ。
あのときって?
誰も助けてくれなかった。
どうして?
私は死ぬべきだった。
死にたかった?
私は――
「生きたいか」
声が聞こえた。落ちついた、若い男の人の声だった。半ば閉ざした瞼の向こうに、揺れる影。
誰……?
重い瞼を、ゆっくりと上げる。深緑のジャケット。
ひとりが、
「それとも、このまま死んでおきたいか」
華奢だけれどかっしりとした力強い腕が、少女を抱き上げる。温かい。声は降り続ける。静かに、ただ、静かに。
「聞こえているなら、答えてくれ」
「おまえは、俺が、おまえを生かすことを許すか」
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