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 公社に属する施設の一角、開発棟の、通用口の前にたたずむ黒い影法師に気がついて、シキナミは杖をつく左手を止め、苦笑を浮かべた。後ろで緩く束ねた長い黒髪が、白衣の背中を、さらりと流れる。

「待っていてくれたの?」

「別に。待つほど待っていない」

 シキナミより少し背の高い青年だった。シキナミと同じ、癖のない真直ぐな黒髪だが、青年のそれは短い。上着のポケットに両手を突っ込んだまま、青年は、預けていた背を壁から離した。黒煉瓦れんがで造られた開発棟の壁に、青年の羽織った深緑のジャケットの色が沈む。

「四十一街区の話、聞いた?」

「ああ」

「言っとくけど、あなたが責任を感じる必要は、これっぽっちもないからね。今回、あなたを投入しないでやるって決めたのは、私と、本部の連中なんだから」

「……ああ」

 金属製の扉が並ぶ狭い廊下を、斜めに並んで歩いていく。途中、資料の束を抱えて足早に行き交う白衣姿の研究員と、何人かれ違った。半ば落とされていた本部の照明に対して、開発棟のそれは、夜が告げられてもなお煌々こうこうと灯り続けている。開発棟は眠らないと言われる所以ゆえんだ。シキナミの研究室は特に。

「いつにも増して、ざわついてないか?」

 辺りを見回して、青年は僅かに眉根を寄せた。白衣姿の研究員に混じって、灰色の制服をまとった治安維持部隊の姿が見え隠れする。四十一街区の件以外にも、何かあったのか。

「鼠が逃げたんだ」

「鼠?」

「そう、鼠」

 シキナミが先刻本部に呼び出された理由も、四十一街区の件よりむしろそちらが主だった。

「こっちの話だよ」

 肩をすくめて、シキナミは話を打ち切った。青年もそれ以上追わず、シキナミから視線を外し、本題を口にした。

「トキワは?」

「三階の第八治療室にいるよ。治療というべきか微妙だけど、完全な復元には、丸一日は掛かりそうだね」

「分かった」

 歩調を速め、青年はシキナミを追い越していく。階段は、この廊下の突き当たりだ。

「待って、タカナミ」

 こっちの話は終わっていないと、シキナミは呼び止めた。数段、階段を上がったところで、青年が振り返る。少し長めの前髪からのぞく、青い瞳。

 どこか眩しそうに目を細めて、シキナミは青年を見上げ、言葉を続けた。

「帰るときでも良いけど、私の研究室には必ず寄って。あなた、明日、投与日でしょ」

「……分かってる」



 黒煉瓦の壁に漆喰しっくいを塗り白く整えられた、六畳ほどの広さの部屋だった。簡素なパイプベッドに、検査衣を着た十代半ばくらいの少年――トキワは、上体を起こしていた。タカナミがかたわらの椅子に腰掛けると、トキワは短い焦茶の髪の下で、飴色の瞳を伏せた。

「すみません……でした……」

「なぜ謝る?」

 視線すら合わせず項垂うなだれるトキワに、タカナミは静かに瞬きをした。左脚を喰い千切られたのだろう、毛布の輪郭が不自然に窪んでいる。復元まで丸一日、と言ったシキナミの言葉を思い出した。全治という言い方をしないのが、シキナミらしいというべきか。

「全く……動けませんでした」

 毛布の上で、トキワは両手を固く握りしめた。脚に喰い込む牙の感触がよみがえり、トキワの背中を汗が伝う。脳裏を巡る、光る眼、閃く牙、刃をはじく鋼のからだ……殺戮を目的に作られた機械の獣。

「あなたのようには、戦えなかった」

 悔しげに震えるトキワの声が、冷たい床に散っていく。その言葉の破片を拾い上げるように、タカナミはおもむろに席を立った。

「封鎖は無事に完了している。今は脚をなおすことだけ考えていろ」

 トキワは顔を上げた。瞳はうるんでいたものの、雫は留められていた。

「見舞いに来ていただけて、光栄です」

「そう思うなら、さっさとなおせ」

「はい」

 トキワの返事を待って、タカナミはきびすを返した。閉めた扉の向こうで、せきを切った少年の嗚咽おえつが聞こえた。



◇  ◇  ◇



 翌朝、事務所に顔を出した少女は、いつにも増して鼻息を荒くした所長に出迎えられた。

「ちょうど良かった。待っていたんだ、九八七号。大口の依頼が入った。おまえにやる。喜べ」

 喜ぶのはあなたではないですか、という言葉を喉の奥に留めて、少女は怪訝けげんの色を浮かべた瞳を瞬かせた。余程、大金の積まれた案件なのか……あるいは、所長のぼったくりに、依頼人がまんまと乗せられたのか。

「依頼内容は?」

「護衛だ」

「護衛?」

「そうだ。この御方の、な」

 最近また太ったらしい大柄な所長の影から、ひょろりとした若い小柄な男が顔を出す。ぼさぼさの髪に、よれよれのシャツ、擦り切れそうなスラックスに、緩んだネクタイ。彫りの浅い顔に、黒縁の分厚い眼鏡。小脇に小さなジュラルミンケースを抱えている。お世辞にも、お金を持っていそうな人間には見えなかった。少なくとも、今までの依頼人の風体と比べれば。

「女の子? 随分と小さ……いや、可愛らしい方なんですね」

 言外に、こんな非力そうな少女で大丈夫かという不安がうかがえた。もっともだと、少女も思う。自分の体格が他人に抱かせる印象を少女はいやというほど自覚している。

「あの……私も、護衛なら、私以外に、もっと適任がいると思いますけど」

 小声で所長を見上げる少女を遮って、所長は大声を被せた。

「いやいや、この第四階層の土地勘なら、こいつの右に出る奴はいませんし、こんな成りですが、腕前も申し分ねぇんですよ。第一、こいつは口が堅い。依頼人から頼まれれば、所長の俺にも口を割らねぇです」

 それに、と所長は一度、言葉を切り、にやりと笑みを深めた。

「変にガタイの良いのを連れるより、こいつのほうが、街人に溶け込めますぜ。何か訊かれても、兄妹ですとか、従兄妹ですとか言って、誤魔化せる可能性が高い。だから、おすすめなんです」

 どうします? と所長は依頼人の男を流し目で見た。なるほど、と男は頷いて、少女を見つめ、よろしくとでも言いたげな愛想笑いを浮かべた。少女はというと、口角ひとつ動かさなかった。ただ静かに、ぺこりと形式的なお辞儀をした。もとより仕事を選ぶ気はない。少女で構わないと依頼人が言うのなら、少女は自分の仕事をするだけだ。

 瞬きをひとつ数えて、少女は、パーカーのポケットに入れていた右手を、すっと所長に差し出した。

「話がまとまったところで、先に昨日の報酬、貰えますか」



 依頼内容は、男を無事に指定場所まで送り届けること。そこに男の協力者がいるらしい。

 男の名前はサガミ。元々は公社の人間だったという。そうですか、とだけ返した少女に、サガミは「驚かないんだね」と目を丸くした。むしろ、なぜ驚くと思ったのか、そっちのほうが少女には不可解だった。公社を追われて流れてくる人間は、別に珍しくもない。公社に限らず、様々な場所からこぼれた人々が最終的に漂着するのが、現在この地下都市の行き止まりである第四階層だ。まるで逆さまのふるいに掛けられたかのように、下から上へと吹き溜まっていく。人間がつくった独自の重力は、とても強力で、絶対的だ。

 所長の狙い通りというべきか、人ごみに紛れて、ここまで誰にも呼び止められることはなかった。

「こういう、護衛の仕事は、よくあるの?」

 人気ひとけのない裏通りに出ると、サガミは少しほっとしたように息を吐いて、小声で少女に尋ねてきた。辺りに自分たち以外の気配がないことを確かめながら、少女は無表情に答える。

「どちらかというと、逆のほうが多いです」

「というと?」

「今あなたを追っている側の人たちの仕事ということです」

「……殺すことも?」

「殺さないことのほうがまれです」

 ごくり、とサガミが唾を呑む気配がした。

「きみは、怖くなったりしないのかい? そのナイフを向ける相手の人生を考えて……手が震えたり、しないのかい?」

「人生って?」

 聞き慣れない単語に、少女は首を傾げる。

「例えば、この人が生まれたときには両親は泣いて喜んだのかなとか、誕生日には家族みんなでケーキを囲んで、パーティーをしたりしたのかなとか」

 少女は足を止めた。サガミの言葉を遮るように。

「あなたの言っていること、全然、分からない。第一、怖いって、何? あなたは、大人なのに、仕事に私情を挟むの?」

 少女の声は、何の感情も宿していなかった。瞳は凪いだまま、眉をひそめることもなかった。ただ心底不可解だという疑問の色だけが浮かんでいた。

 長い連絡通路を抜けて、四十二街区に出た。ここから天井裏に上がって送風管を辿れば近道だけど……と頭の隅で考えた案は、サガミには無理そうだと即座に却下した。ロングパーカーの下に隠したナイフと銃の感触を確かめながら、入り組んだ路地を迷うことなく進んでいく。目的地まで、そう遠くない。

 しばらく進んだところで、少女はふと辺りを見回した。音のない街だった。確か、準避難区域といったっけ……ガス漏れの危険があるとか、何らかの理由で、あらかじめ居住しないように公社が通達を出している区域のひとつ。昨日、四十一街区が封鎖されたことが報じられても、それほど騒ぎにならなかったのは、ここよりもさらに厳しい、完全避難区域に指定されていた、無人の区域だったからだ。

 それにしても、と少女は胸の内で怪訝に思う。公社は封鎖の理由を、天井の崩落と報じているけれど、街区を丸ごと放棄しなければならないような崩落が起きたのなら、轟音のひとつでも聞こえるものではないだろうか。

 滲み出た地下水に濡れた石畳に、自分たちの靴音だけが響く。静かだった。奇妙なくらいに。いくら公社の通達が出ているとはいえ、この街区はここまでゴーストタウン状態だっただろうか。隣の四十一街区が封鎖されたことで、避難区域の指定が繰り上がったのかもしれない。でも、昨日の今日で、こんなに早く?

「……まずい」

 舌打ちして、少女は天井を見上げた。ももの銃を抜いて構える。サガミの追手だろうか。人の気配が集まってくる。とても多く、とても速く。

 けれど、

「下がって!」

 違う。上だけじゃない。天井の気配が真上に来る前に、別の気配が肉薄していた。ありえない速度で。封鎖されたはずの、壁の向こうから。

 立ちすくむサガミの腕を掴んで飛び退すさる。瞬間、すぐ傍の隔壁が、外側から砕けた。何か鋭いものが、空気を裂きながら。

 鈍色にびいろに輝くからだ。少女の二倍くらいの大きさ。赤く光る一対の眼……咄嗟とっさに捉えられたのはそれくらいで、少女はサガミを庇ったまま、扉の開いた民家の中に倒れ込んだ。

「……うそ……」

 部屋の中は血にまみれていた。千切れた人の腕が、脚が、散らばっている。これは、何?

「あいつだ……あいつに咬み殺されたんだ……そんな……もう入ってくるなんて……昨日、封鎖したばかりだってのに……」

 上体を起こしたサガミが呆然と呟く。

「あいつって……あなたは、あれが何か、知っているの?」

 パキン、と硝子を踏む音が響く。ゆらり、と影が扉をくぐる。電球を砕かれ、姿はよく見えない。ただ、暗闇の中で、赤い眼だけが爛々らんらんと輝いている。

「知っているも何も、あいつは――」

 サガミの言葉が終わる前に、そいつは、こちらに向かって床を蹴っていた。すくんだサガミは動けない。少女は前に躍り出る。息を詰めて、両手で掲げた銃のトリガを引く。狙いは眼。けれど、銃声の後に聞こえたのは、軽い摩擦音だけ。

 銃弾を、はじいた……?

 光がいだ。咄嗟とっさかがんだ頭のすぐ上を、刃のような爪が掠めて、壁をえぐる。

 部屋の隅で、サガミはジュラルミンケースを開けようとしていた。震える声で、ぶつぶつと何かを呟きながら。

「そうだ……自分に……打っておこう…………そうしたら……万が一でも、僕だけは助かる可能性が…………」

 牙がひらめく。引きつけて、少女は家から出た。薄明かりの中、さっきよりも少し、そいつの姿があらわになる。けれど、それを形容する言葉を、少女は持たない。太く長い腕、五本の指、大きなあごに鋭い牙、しなる尾の刃……全てが金属で構成された、これは、機械?

 分からない。けれど、ひとつだけ言える。

 こいつは、敵だ。戦わなければ、殺される。

 ならば、するべきことは、ひとつだ。敵か、敵以外か。少女にあるのは、その二者だけだ。味方など、もとから存在しない。少女は見据える。少女を害する人間たちのように。少女以外の全てのもののように。

 ふと、そいつの胸の辺りに、青白い光を見つけた。セピア色の濃淡で構成された街の風景の中で、それは明らかに異質な色だった。よく見ると、それは心臓の拍動のように、ゆっくりと明滅している。これを狙えば、もしかしたら。

 右手に銃を、左手にナイフを構える。相手を見据えたまま、少女は右手を斜め下へと向けた。狙うのは配管の一本。どこにどんな管が走っているのか、少女は頭に叩き込んでいる。トリガを引く。銃声と同時に飛び退く。途端に噴き出す白い蒸気が相手を包む。これで視界は奪えたはず。今だ。

 身をかがめ、少女は飛び込む。そいつが長い腕を振った。爪が腕をかすめて、ぱっと鮮やかな赤が散る。構わない。大抵の痛みなら無視できる。恐怖なんてない。心なんてない。いつだってそうだ。いつからか、ずっとそうだ。冷やかに研ぎ澄ました思考。どう動けば良いか、どう戦えば良いか、反射で判断する。間違えれば、その場で死んで、おしまい。ただそれだけ。それは、機械を操縦する感覚に似ている。自分で、自分の体を、操縦する。もう少しで、切っ先が届く。届けば、きっと、自分の勝ち――

「……あ……」

 ナイフは届かなかった。あと少しなのに、これ以上、進めなかった。

 なぜ? 体が、動かない。なぜ?

 肩から胸にかけて、ずるりと何かが滑り落ちていった。違う、滑り落ちたんじゃない。

 喰い千切られた……?

 どさり、と聞こえた音は、自分の倒れる音だろうか。

 どくり、とあふれ出る赤は、自分から流れる血だろうか。

 広がる血溜まり。あぁ、あのときと同じだ。

 あのときって?

 誰も助けてくれなかった。

 どうして?

 私は死ぬべきだった。

 死にたかった?

 私は――


「生きたいか」


 声が聞こえた。落ちついた、若い男の人の声だった。半ば閉ざした瞼の向こうに、揺れる影。

 誰……?

 重い瞼を、ゆっくりと上げる。深緑のジャケット。えりには公社の紋章。逆光で顔は見えない。ただ、自分を見下ろしていることは分かる。後ろで、見たこともない白い服で全身を包んだ人々が、サガミを取り押さえていた。サガミの手から、何かを取り上げる。あれは、注射器? 琥珀色の液体が、硝子を透かしてきらめく。

 ひとりが、躊躇ためらいがちにそれを持ってきた。少女を見下ろす青年が、それを受け取り、再び尋ねる。

「それとも、このまま死んでおきたいか」

 華奢だけれどかっしりとした力強い腕が、少女を抱き上げる。温かい。声は降り続ける。静かに、ただ、静かに。

「聞こえているなら、答えてくれ」


「おまえは、俺が、おまえを生かすことを許すか」


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