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男が二人、逃げてくる。暗い路地裏を、張り巡らされた配管に足を取られながら。時々振り返り、少女が追いついてきていないかを確認しながら。間抜けだ、と少女は思う。少女が彼らよりも後ろにいると、彼らはまだ思っているのだ。入り組んだ地下街では、
天井裏で頬杖をついて、網を外した通気口から少女は彼らを冷ややかに眺める。小柄な少女だ。年の頃は十代前半。目深に被った黒いロングパーカーのフードの陰で、肩に届かない黒髪の毛先が、白い頬の上で揺れる。
「……来た」
瞬きを一つ数え、黒い大きな瞳を、少女は、すっと僅かに細めた。近づいてくる不揃いな足音。真下を通過する影。見定めて、少女は飛び降りる。壁に沿う配管を使い、ひらりと身を
「登録番号九八七、案件番号三六九一が終了しました」
『そうか。場所は?』
「第六階層、六十四街区、二番地の路地裏です」
『分かった。すぐに掃除屋を向かわせよう』
「報酬は?」
『用意してある。いつでも受け取りに来い』
短い会話は、そこで切れた。所長の言葉が終わる前に、要件を得た少女は、もう受話器を耳から離していた。足早に公衆電話をあとにする。他人との会話は、短ければ短いほど良い。
光の乏しい街路だ。見上げれば、数珠繋ぎの電球のほとんどが切れたり割れたりしている。足もとに散らばる硝子片を靴の先で砕いて遊びながら、少女は壁に
程なくして、掃除屋は到着し、死体の顔を確認すると、黒い袋に詰め、どこかへ運んでいった。依頼人の元に届けるのかもしれないし、業者に売り渡すのかもしれない。この街には、新鮮な死体が良い値段で取引される市場がある。買い取られた死体が何に使われるのか、薄々は知っていても、少女のあずかり知るところではなかった。少女たち始末屋は、生きている人間しか相手にしない。
人影ひとつなかった裏通りに対して、表通りは賑わっていた。今にも
ちょうど路面電車が近づいていたので、少女は飛び乗った。塗装は無残に
揺れる度に軋みながら、電車はのろのろと昇降口へ向かう。ここからふたつ上の第四階層に、少女の居住区はある。
路面電車の扉に
やがて、車窓の風景がコンクリートの壁に変わり、車内が、すっと暗くなった。隣の街区に繋がる連絡通路に入ったからだ。火災やガス漏れが起きた際には、この通路の両端にある扉を下ろせば、街区ごと完全に封鎖することができる。
通路を抜け、再び開ける視界。さっきと代わり映えのしない風景が続いていく。
停滞した空気。全体的に重く薄暗く、セピア色を帯びたこの地下都市が、少女の知る世界の全てだ。
しばらくして、終着駅である昇降口に到着し、少女は電車を降りた。昇降口には監視員がいて、下りの昇降機に並んでいる乗客の通行証を確認していた。この地下都市では、階級の高い人間ほど地下深くに住むことができ、階級によって立ち入ることのできる階層が制限されている。この第六階層より下へは、相当の通行証がなければ降りることができない。通行証どころか住民登録も戸籍も持っていない少女にとっては、この場所が街の行き止まりだった。
昇降機は幾つもあるが、一つの昇降機が繋ぐのは、連続する二つの階層だけだ。だから、第六階層から第四階層へと上がるには、第五階層で乗り継がなければならない。いざという時に階層単位で遮断できるようにするためだという。事実、第四階層より上へと至る昇降機は、今はもうない。ただ閉ざされた壁と天井があるだけだ。地上に近い第一階層から第三階層までは、少女が生まれる前に、既に老朽化を理由に放棄されている。そう遠くないうちに、第四階層も同じ道を辿るのだろう。
通行証を必要としない上りの昇降機に、少女は乗った。
「四十一街区が封鎖されたらしいぜ」
扉の近くに立つ少女の、斜め向かいの座席で、薄汚れた作業着姿の男たちが、声を
「また第四階層の崩落事故かよ」
「これでますます第五階層への流入者が増えるんだろうな」
「追い返せねぇのかよ。入ってくるなってさ」
「誰だって最初に被害を受ける所になんか住み続けたくねぇだろ」
「それは分かるけどよ、実際、どうするんだよ。人間の数はそう変わらねぇのに、居住区ばかり狭まる一方でさ」
「知るかよ。公社がどうにかするだろ」
「どうにもできてねぇから、こうなってるんだろ」
公社は、この地下都市の最深部である第十一階層に存在し、街の電気や水、通信、医療、治安維持など全てを司る、最高にして唯一の機関だ。もっとも、公社によって治安が維持されているのは、せいぜい公社の
『一応、元は法治国家だったらしいからな、この街は』
『放置国家の間違いじゃないんですか』
第五階層より上に、監視員の配置はない。昇降機を乗り継いで、第四階層の無人の昇降口を出たのは、少女ひとりだけだった。
第四階層は、他の階層とは明らかに異なる
にこにこと、子どもは少女に笑顔を向ける。けれど少女は無表情のまま、子どもに微笑みを返すことはなかった。少女の心は、もうずっと凪いだままだ。揺れない。響かない。ただ、この子どもはいつまでこんなふうに笑っていられるだろう、と、品物を眺めながら思う。体のどこかが欠けた人は、そうでない人と比べて、あまり長くは生きないようだった。少なくとも、少女の目にした限りでは。
やがて、露店の品では珍しく消費期限の切れていない果物の缶詰と煮豆の瓶詰を少女は買った。代価は錆びた銅貨一枚で事足りた。かつては
「羽振り良さそうだな、おまえ」
下卑た笑みで少女を見下ろし、ひとりが距離を詰める。少女は彼らを
パーカーのポケットには、お金とナイフ。今はもう、ごみを
露店街から少し離れたアパートの一室が、少女の当座の
ベッドの端に座り、買ってきた缶詰を開けていると、どこからか音の割れた時報が流れてきて、なけなしの外の照明が一斉に落とされた。公社の定める夜の合図だった。街燈への送電は、公社が一元管理している。おおよそ十六時間の点灯と八時間の消灯が、日々繰り返される仕組みだ。
手もとに一つだけ灯した裸電球の明かりで、使ったナイフの手入れをして、熱いシャワーを浴びて、硬いベッドに潜り込む。シャワーもベッドも、少女が自分の力で手に入れたものだ。ナイフを振るって、ときには銃のトリガを引いて、誰かの死と引き換えにして。
毛布の中、少女は自然と丸くなって眠る癖がある。薄っぺらな毛布は、寒くこそないけれど、大して温かくもない。けれど少女は、これくらいでちょうど良いと、思う。自分の体が、ひとりでも温かいことを確かめられるから。膝を抱えて、顔を
(大丈夫)
まどろみの中で、少女は
(ひとりでも、私は私を、ちゃんと温めることができる)
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