第02回 印籠の話

原作を担当した漫画『はんなりはんろう』のために用意していた、江戸時代の文化風俗コラムです。発表する機会がないままでしたので、カクヨムにて公開。筆者の記憶違いや誤解もあるやもしれませんが、楽しんでいただけたら幸いです。


■時代劇ドラマ『水戸みと黄門こうもん』で知られる印籠いんろうは、有名な割にはあんがいその用途を知られておりませんね。お洒落小物や現代のキーホルダーのような物と考える人もいますが、あれは江戸時代のピルケース、つまり丸薬や粉薬などを入れるための、携帯道具でございます。


■元々は中国で印鑑いんかんいんしょうを入れるための物で、それなりに大きな形状でした。印籠という呼称は、その名残りです。どちらかと言えば数珠じゅずを入れる桐箱や、書道のすずりばこに近い感じの容器だったのですが、日本では小型化され、次第にピルケースとしての使用が一般化します。


■印籠の本体は平たい長方形をしており、何段かに分かれております。携帯する薬も数種類になりますから、そこは現代のピルケースと発想は同じですね。接合部の材の片方を突出させ、反対側をへこませ、継ぎ目に段がつかないようにした技法を「印籠継ぎ」と呼びます。


■使われる素材は柘植つげ黒檀こくたんなどの木材や金属、あるいはぞうなどが使われますが、多くは紙製です。紙は軽い素材ですが、これにうるしのりを塗り、何層にも重ね、強度を高めます。この土台にさらに漆を重ね塗りし、さらに鈿細でんざい金蒔きんまきが施されて、重厚な見た目になります。


■各段の両脇に穴を空け、という紐を通し、印籠の蓋が勝手に開かないように、緒締めと呼ばれる球状のたまを通します。緒締めに使われるのは水晶や孔雀石、のう、トルコ石などの鉱物や、さんや象牙などの生物由来の素材、木材、金属、七宝しっぽうなどの陶磁器と、これまた多様です。


■緒の先端を根付で留め、紐を帯に挟んで使用します。根付は落下防止用のストッパーの役割を果たします。根付も木材や象牙、珍しいところではマッコウクジラの歯など様々な素材を使っており、コレ自体が優れた工芸品として、世界で高く評価されております。


おおぎゅういちあらわした『しんちょうこう』は、若き日の織田信長の格好を「はんばかま、ひうち袋、色々あまつけさせられ」と描写しております。くるぶしまでしかない短めの袴を着用し、腰のまわりには火打ち石を入れた袋や、ひょうたんをいくつもぶら下げていたのです。


■日本人は元々、帯や腰紐に小袋や瓢箪をばさみ、それに小物や飲み水を携帯する文化が、あったんですね。当時の火打ち石は、現代のライターのような物。それが後の印籠や煙草入れ、筆記用具を入れた矢立、竹水筒などを、腰にぶら下げる文化につながっているのです。


■さて、当初は実用品であった印籠ですが、次第に彫刻や装飾が加えられ、美術品に昇華します。前回取りあげた日本刀も、小柄・笄・目貫の三所物や、鍔や柄頭、鎺にもさまざまな装飾が加えられ、美術品として高く評価されております。装飾は日本人の嗜好なのでしょう。


■日本の縄文式土器は、世界最古の土器として知られます。同様に日本から、世界最古のしっも発見されております。北海道函館市に所在する、縄文時代早期の垣ノ島遺跡の土坑墓から、約九千年前の漆器が出土しています。この遺跡は数千年に渡って繁栄しました。


■それまで世界最古の漆器は、揚子江下流域の河姆渡かぼと遺跡から出土した、約七千五百年前の漆を塗った弓とされていたのですから、一気に千五百年も記録を更新しました。しかも通常の黒漆だけでなく、朱漆の糸も発見されています。


■そもそも漆の木という植物自体が、マンゴーやカシューナッツの仲間で、熱帯や亜熱帯に多い植物。ウルシオールという成分を含む漆が採れるのは、中国・朝鮮半島・日本などの温帯ですが、タイやミャンマーに自生するビルマウルシや台湾のツタウルシは、熱帯や亜熱帯に自生します。


■北海道で漆器が発見されたということは、本来はあまり漆の育成に適さない地域でも朱漆を作れるほどに、技術が浸透していたということです。実際、漆器は有名な青森の津軽塗や福島の会津漆器、石川県の輪島塗などの他にも多数あり、沖縄県の琉球漆器まで全国に分布しています。


■この漆を使った技法が、まきです。漆で文様を描き、乾く前に金粉・銀粉・色粉などを蒔きつけ文様を描きます。さらに粉を蒔いた後で、器の全面に漆を塗重ねて粉固めをし、乾いたら平らに研ぎ、再び文様を表す技法が、し蒔絵。表面を漆でコーティングする技術です。


■印籠は外出する際に携帯し、腰にぶら下げる品ですから傷つきやすいので、表面をコーティングする技法を使う研ぎ出し印籠は、必要不可欠。聖武天皇の遺品を収納した正倉院御物の、金銀鈿きんぎんでんかざりのから大刀たちの鞘に施された末金まっきんも、この研ぎ出し技法の一種とされております。


■八世紀前半という古い時代から、日本人と漆とは密接な関係があり、多様で高度な技法が生み出され、伝承発展してきたのですね。現在でも日本文化を代表する美術品として世界で高く評価されています。ただ、全国各地の漆工芸はどこも後継者不足で、それが残念ではあります。

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