江戸文化風俗コラム『夏炉冬扇』

篁千夏

第01回 三処物の話

原作を担当した漫画『はんなりはんろう』のために用意していた、江戸時代の文化風俗コラムです。発表する機会がないままでしたので、カクヨムにて。筆者の記憶違いや誤解もあるやもしれませんが、楽しんでいただけたら幸いです。



ところものとは日本刀の装飾具の三点セット、すなわちづかこうがいぬきのことでございます。小柄とは、刀の鞘の鯉口こいくちに差し添える小刀のこと。これで木を削ったり縄や紐を切ったりと、いろいろな作業に使いますが、時には護身用の武器として用い、手裏剣として投げて使用もします。


■笄も、見た目は小柄に似ておりますがヘラに似た道具で、切れません。先端が松葉のように二股になっている割笄もあり、髪をかきあげたり烏帽子えぼしかぶとをかぶった際に頭がかゆくなったら、笄を使ってきます。「髪掻き」が訛って「こうがい」になったという説もあります。


■ちなみに、女性が髪型を整えるのに使うのがくしかんざしと笄の三点セット。しままげや丸髷などに髪を結い、固定するのにこの三点セットを使用しますが、髪飾りの装飾具としても使います。男性も江戸時代は髷をっていましたから、こういう道具を携帯する必要があったのです。


■刀の鞘の鯉口付近には、この小柄と笄を収めるづかひつと笄櫃と呼ばれる溝とあながあります。このため、刀の鍔には本来、小柄と笄を通す穴が空いています。とはいえ小柄櫃と笄櫃のある刀のこしらえは贅沢で、お金もかかりますので、省略されたタイプの刀が多かったようです。


■目貫は、刀剣類の柄の側面につける飾り金物です。日本刀は古くは平安時代中期の抜形ぬきがた太刀たちのように、刀身と柄が一体の形状でしたが、これでは必要な鉄の分量も増えますし、斬りつけたときに衝撃が手に直接伝わります。そこで、木製のつかに刀身を挿し込む、なかごという様式が生まれます。


■とはいえ、差し込んだだけでは、強く振るとすっぽ抜けますから、茎に穴を空け、そこに木製や竹製の釘を通して柄に留めます。これを目釘と呼びます。あとは柄が滑らぬように、上から糸や牛革で巻きます。このとき、目釘の上に被せるのが目貫です。


■今でも市街地のメインストリートを「目抜き通り」と呼びますが、これは目貫が柄の中心に置かれたためです。目貫は本来は、目釘が抜けないための実用的な役割を持っていたのですが、次第に装飾性が高まり、様々なデザインが施されるようになります。


■刀には他にも、手を防御するつばや、柄の両端を保護する縁と頭、刀身を鞘の内側に固定するはばきなど、見事な彫金や装飾が施された刀装具は多数ございますが、小柄・笄・目貫は同じ金工家が製作することがうございました。このため、この三点セットを三処物(三所物)と呼びます。


■落語の『金明竹』という演目に、「祐乗ゆうじょ光乗こうじょ宗乗そうじょ、三作の三所物」というセリフがございます。この祐乗とはとうゆうじょうのことでございます(関西弁では末尾の母音が脱落することがよくあります。先生が「せんせ」になったり)。室町時代中期の金工家で、しょう銀閣ぎんかくの造営と東山文化を築いたことで知られる八代将軍・足利義政あしかがよしまさに仕え、通称は四郎兵衛。


■同僚の讒言ざんげんで入獄の憂き目に遭いますが、そこで獄卒に頼み桃の木と小刀を入手、神輿船14艘と猿63匹を刻み、その腕前に驚いた義政が赦免し、装剣金工になるように命じられ、後藤四郎兵衛家の開祖になったとされます。光乗は後藤家四代目、宗乗は二代目です。


■室町幕府の滅亡後も後藤家は織田おだ信長のぶなが豊臣秀吉とよとみひでよしに仕え、名門ブランドとして江戸幕府でも重用され、幕末まで十七代も続きます。興味深いことに、後藤家には金工以外に、別の顔がありました。それが天正十六年(一五八八年)に秀吉に命じられた天正大判のちゅうぞうです。


■なにしろ天正大判は縦17センチに横10センチと、世界最大級の金貨でございます。大判小判というと純金製のように思いがちですが、純金では柔らかすぎて、曲がったりり減りやすいです。なので、銀を十数%から時には40%以上も混ぜ、強度を高めてあります。


■芸術的ではあっても、装剣金工具は実用品でもあり、強度を損なう訳にはいきません。後藤家は金細工に長け、どの金属をどのぐらいの割合で混ぜるるとどんな強度になるのか、合金の技術にも優れておりました。こういう、本業をかした別事業への進出は、現代でもよくある話。


■例えばパソコンやスマートフォンなどの基盤に部品を接続するときに使われる、金の超極細線のトップメーカーである田中貴金属は、日本橋の両替商・田中商店としてスタートし、そこで金銀プラチナなどの貴金属を扱う経験から、極細加工技術を生み出したのでございます。


■後藤家は江戸時代も、大判と両替商用の分銅ぶんどうを上京柳原で鋳造します。元禄時代の財政難で、貨幣の金銀の含有量を減らす改鋳事業が行われると、江戸でも大判鋳造が始まります。後藤家は八代目即乗から江戸詰を命じられ、白金に屋敷が与えられ、後に銀座に屋敷替えを行います。


■銀座の地名は、銀貨を鋳造していた場所が由来です。銀貨は江戸幕府から許可を受けた町人組織が鋳造しており、実際は江戸以外にも伏見銀座・駿府銀座・長崎銀座など各地に存在しました。伏見銀座は現在、京都市中京区両替町通りにその名をわずかに残しております。

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