伍第71話 トレスカの壁

 まずい。

 俺が引き連れてきてしまったのだろうか?


 あ、そういえば、あの滝の部屋で水がかかったのかもしれない。

 それで外套に描かれている『錯視の方陣』が、弱まってしまったのかも!

 俺は今なら『門』を開いてすぐにこの場を離れることは可能だ。

 だけど……トレスカの壁と少し近過ぎる。


 俺がここを離れたら、この闇の中にいる魔獣達は……あの壁に襲いかかるかもしれない。


『採光の方陣』を使おうとして、手を止めた。

 ここで明るくしてしまえば、魔獣達の姿が壁の衛兵達にもはっきりと見えるだろう。

 今はまだ距離的には矢であっても届かないと解っているだろうが、はっきり見えてしまえば恐怖でいきなり矢を射かける奴がいないとは限らない。

 攻撃されれば、魔獣達は確実に壁に取り付いて……あの程度の壁なら、魔獣の種類によっては登ってしまえるかもしれない。


 ガストレーゼ山脈にある国境門ほどの高さもなさそうだし、厚みや強さがあるとも思えない。

 皇国と違って、ヘストレスティアは魔獣が出るのが当たり前の国だ。

 だから……変に『慣れて』しまっている。

 そして、今まで襲われてもなんとかなっているのだから、この程度なら平気……などと魔獣を舐めている奴等もいるくらいだ。


 旧ジョイダールの魔獣が、どういう魔獣かも知らないくせに!


 無知は危険だということすら忘れ、自分達が無知であることに気付かない。

 それは、ただ愚かなだけだ。

 まったく……こんな時に神典の言葉を思い出すなんて、俺もすっかり皇国人になってきたってことか。


『智を以て扉を叩くべし』

 その時、扉が開かれるかどうかで、生死が分かれるのかもしれない。


 暗闇のせいでどれくらいの数がいるかも判らない。

 どんな魔獣か、魔虫の群れかも判らない。

 ならば……!


 光の剣を起動させ、殲滅光を灯す。

 青い剣身が空を斬り、森の中で魔獣の砕ける燦めきが舞う。

 久し振りだな、と思いつつ『雷光の方陣』の雷を殲滅光に纏わせて何度も横薙ぎに払い、東へ、闇に向かって走る。


 今の俺は『囮』だ。

『錯視の方陣』は邪魔になるので、発動を止めた。

 ……その途端に、魔獣達が俺に向かってくる気配が解った。


 俺の後ろを追って来ていたとしたら……弱まった『錯視の方陣』のせいで、微量な魔力漏れがあったか、俺を他の魔獣だと思って……縄張りから追い出すためについて来た?


 ここでは森も燃やしてしまう『【炎熱魔法/緑】の方陣』は使えない。

 森が燃えてしまえば、トレスカの壁にいる連中が消火のためにこちらに来てしまうかもしれないし。


 立ち止まり、うずくまるように大地に両手を付けて『清浄の方陣』を目一杯の大きさで描く。

 辺りを『魔力鑑定』しつつ、ギリギリまで引き付けて……発動した。

 方陣に光はなかったが、ちらちらと魔獣の欠片が辺りを覆う。

 そして、静けさとただの暗闇が戻った。


 ふぅ……

 軽く息を吐き、もう一度辺りを鑑定するが、魔力の反応はなくなっている。

 俺が、これ以上あの壁に近付くのはまずいだろうな。

 また魔獣達が寄ってきてしまうかもしれないし……衛兵達に見つかるのも、面倒だ。


 俺は殲滅光を自分の身体に当てた後、『門』でオルツ港へ戻った。

 あ、撮影機、止めなくちゃ。

 はー……結構疲れたなぁ。


 今度は、しろがねが帰りに通ったという北側へ行ってみよう。

 それとも先にライエで話を聞くか?


 あっ!

 そーだ、忘れちゃいかん、リバレーラで神泉粉!

 うん、カバロと一緒にまずはリバレーラに行こう!



〉〉〉〉トレスカ防御壁


「……い、いなくなったか?」

「ああ、大丈夫みたいだが、なんだったんだ、あの魔獣は」

「見たことがない魔獣だった……あんな、怖ろしい姿の魔獣がここまで来るなんて……」

「あの怖ろしげな厳つい頭もだが、布のようなものまで纏っていたぞ? 魔獣だというのに!」


「もしや、人のように装った魔獣なのかもしれんぞっ!」

「まさかっ! 魔獣が……そんなことをするものなのか?」

「ほらっ、皇国の研究で『人のような声を出す魔獣』っていうのがいると言われていただろうっ? それと似たようなことじゃないのか?」


「人の声に聞こえると言われていたのは、魔鳥の鳴き声だったような……」

「……昔からジョイダールには『人真似をして人に近付く魔獣』が……いたんじゃ?」

「な、なんて怖ろしいことだ! 人のふりをして近付いて……襲うのか!」


「きっと、あの魔獣が今までこっちまでこなかったのって、まだ『あちら側』に人がいたからじゃないのか……?」


「え」

「お、おい、それじゃあ……あれがこっちまで来たってことは……」

「ああ、滅んでいたと思っていたが、実はまだ人が生き残っていて……それが、完全に滅んだから……こっちへ……?」

「一匹だけで来たということは、もしかして『様子見』……」

「そうだ、魔猿まえんだってそういう行動をする。もしや、あの奥には何匹もの魔獣がいたのか?」


「うっ、うわぁぁっ!」

「落ち着けっ! 壁の強化、確か、壁の強化案があったよなっ!」

「あれは、予算の関係で一度却下されたんじゃなかったか?」

「知事に報告だ! このトレスカ防護壁を突破されて、あんな『人に紛れようとする魔獣』が入り込んだら……大混乱に陥るぞ!」


「待て、絶対にトレスカの住民達には知られるな! 住民達が恐怖で出て行ってしまったら、この壁の整備ができなくなってしまう!」

「そうだ、拠点がなくなってしまえば、壁の強化どころか……維持も難しくなるし、未知の魔獣が入り込んでも解らなくなるぞ」


「あの、さっき少しだけ見えた、あの青い光は……なんだったのでしょうか?」

「え、見えたか?」

「いいえ、私は気付きませんでしたが……」

「こちらから翳した方陣札の『採光』が、何かに反射したんじゃないのか?」

「そう、か。そうですよね。魔獣が光を発することなんて、ありませんよ……ね?」


「魔獣が……『光』まで操るとしたら……我々は絶望するしかないではないか……!」

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