01.シェスカル様のお役に立てるなら
ずっと好きだった人に、振られてしまった。
相手の名前はシェスカル。
ここランディスの街一番のオーケルフェルト騎士隊、隊長だった人物だ。
隊長だった……と過去形で表現するのは、彼の地位が変わっているからである。
現在オーケルフェルト隊はディノークス隊に移行していて、シェスカルはキアリカという女性に隊長の座を譲り渡した。
現在のシェスカルの地位は……貴族であり、ディノークス家の当主だ。
ファナミィは、ハァッと深い息を吐く。
元々シェスカルはディノークス商会という豪商の一人息子で、大金持ち。更にその知能と手腕でオーケルフェルトの騎士隊長という地位に登りつめていた人物である。
それだけでも手が届かない存在だったというのに、貴族にまでなってしまったのだ。ただの庶民であるファナミィなどに、もう手が届く人物ではなくなってしまったのである。
以前、告白して振られてしまった時。
もう少しだけ好きでいても良いかと聞くと、彼は優しく頭を撫でてくれた。
だから、と言い訳するわけではないが、そう簡単に忘れられるわけがなかった。
あの振られてしまった日から、二年。ファナミィは現在十八歳になり、シェスカルは三十四歳となっている。
「今日の鍛錬終わり! 本日の見回り班以外は帰ってよし!」
隊長キアリカの声が響き、ディノークスの騎士達は帰り支度を始める。班長であるサイラスという人物もいそいそと帰ろうとしていて、キアリカに取っ捕まっていた。
「サイラス! 今日の見回り班は、あなたの所でしょうっ!」
「今日は見逃してーっ! 僕、新婚なんだよー? アイナさんが僕を待ってるんだよーっ」
「新婚が何!? 仕事はちゃんとしなさいっ」
「キアリカ隊長の鬼ーッ」
「何ですってぇ!?」
キアリカが怒りを見せたその時、鍛錬所に一人の男が入って来た。その姿を見て、ファナミィの胸はドキンと跳ね上がる。
隊長職を退いたとはいえ、その筋肉質な体はちっとも衰えていない。
「やめとけ、サイラス。行き遅れのキアリカにその言い訳は通用しねーよ」
「シェスカル隊長! 私はまだ二十七ですっ! 行き遅れてませんからっ」
「隊長はお前だろ、キアリカ」
「あっ」
キアリカは、まだシェスカルの事をつい隊長と呼んでしまっているらしい。貴族で当主なのだから、『シェスカル様』と呼ばなければいけない事になっているのだが、最近までシェスカルは隊長職も兼任していた為、まだ皆そう呼ぶのに慣れていない。
「まぁ今日くらい、早く帰らせてやれ。アイナもそれを望んでるだろ。誰か、サイラスの代わりに見回り班に入ってくれる奴はいないか?」
皆がさっとシェスカルから顔を背ける中、ファナミィだけが一歩前に踏み出す。
「私で良ければ」
「……ファナミィ」
シェスカルが少し掠れた声で名前を呼んだ。その言葉を聞くためだけに、面倒な見回りを引き受けたと言っても良い。彼が自分の名前を呼んでくれる……ただそれだけで、心臓が大きく揺れ動いてしまうのだ。
「ありがとー、ファナミィちゃん!!」
「いいの? ファナミィ」
「はい。この後の用事も特に無いですし」
サイラスは大袈裟な程ファナミィに感謝して、さっさと帰って行った。彼は最近結婚したばかりで、いつも奥さんであるアイナという人の事を隊員にデレている。羨ましい、の一言でしか言い表せられない。
「まったく、サイラスは……班長なのに、示しがつかないわっ」
「そう言うな、キアリカ。あいつは今が最高に幸せな時期なんだからよ」
「でも、シェスカル様の前であんな……」
「俺の事は気にすんな。もう吹っ切れてっから」
何の事を話しているのかよく分からず、かと言って問いもできずに市中巡察の準備に入ろうとする。その時、シェスカルが「おっと」と声を上げた。
「そういや今から出掛けるんで、護衛を付けに来たんだった。見回り班の奴で、誰か俺の護衛してくれる奴はいないか?」
シェスカルの言葉に、またも皆はさっと顔を逸らす。今度は例外なくファナミィも顔を逸らした。
シェスカルの護衛ほど嫌なものは無い。というより、必要が無いのだ。ディノークスの中で一番強い人物の護衛など、笑い話にもならない。護衛をしているのかされているのか分からない状態になってしまって、惨めなのである。
貴族は外に出る時に護衛をつけなければいけないのだが、このシェスカルの護衛をするというのは滑稽極まりない。
「ったく、しゃーねーな。キアリカ、お前付き合え」
「お断りします。私の就業時間は終わりましたので」
「おい、リカルド!」
「今日は講演があるので不可能です」
「じゃあ、セルク」
「すみません、今日は妻との約束が」
シェスカルは別の班長達を指名するも、あっさりと断られている。そしてその視線が、今度はファナミィに向けられている気がして、ファナミィは身を縮めた。
「いいか? ファナミィ」
伺うような声音を出されては、断れるはずがないではないか。
ファナミィは仕方なく、コクリと頷いた。
本当の本当は、実は嬉しかったのだけれど。
ファナミィはシェスカルの護衛として、共に街に出た。
今の彼の格好は、騎士ではなく貴族そのものだ。もう二年近くもこの姿を見ているというのに、今だに見慣れない。
今の服も似合ってはいるが、ファナミィの好きなシェスカルの姿は、やはり騎士服なのだ。
「悪かったな、ファナミィ。こんな役頼んじまって。皆、俺の護衛を嫌がるからなぁ」
「いえ、私は大丈夫です。シェスカル様のお役に立てるなら……って、お役に立てるか分かりませんけど……」
「一緒に来てくれるだけで助かるって! 貴族になっちまうと一人で出歩けねぇからな」
基本的にアンゼルード帝国では、貴族の一人歩きは禁止されている。その為、一人の時には護衛をつけなければいけない決まりだ。正直、この男に護衛などいらないと誰もが思ってはいるが、決まりなので仕方がない。
「今日はどこに行くんですか?」
「スーベル卿との会食だ。屋敷に呼ばれてる。ちょっと時間かかるかもしれねぇし、何か腹に入れといてくれ。ここでいいか?」
そう言われたのは、超高級料理店の前でだ。
分かっている。分かってはいる。
以前のように、気軽なレストランには入れはしない事くらいは。
「いえ、私……テイクアウト的な物で大丈夫ですっ」
「それを外で食われるのはちょっとなぁ。周りに見られると煩いからな」
「あ、そっか、すみません.…」
「まぁいいか、何か好きなもん買ってこい。ディノークス商会の支部があるから、そこで食べればいい」
そう言われて、ファナミィは急いでハンバーガーを買ってきた。それを持って、ディノークス商会の支部とやらに入って行く。中ではまだ働いている人がいたが、勝手知ったる感じで奥の部屋に案内された。
「ここで食っててくれ。何か飲み物淹れてやるよ」
「え、いえ! シェスカル様にそんな事させられません! 水筒を持って来てるし、大丈夫ですから!」
「まぁ気にすんな。ここじゃあ誰も見てねぇんだから」
反論する間もなくシェスカルは出て行き、そしてすぐにコーヒーを淹れて戻って来てくれた。
自分一人だけご飯を食べるというのはとても食べにくいが、これも仕事のうちなので仕方ない。ファナミィは急いでハンバーガーを口に詰め込む。
「ああ、別に急がなくていいぜ。まだまだ時間あるから、ゆっくり食べな」
イシシと笑うその顔は、ファナミィが好きな表情のひとつだ。シェスカルは貴族になってからも、隊員たちに対してのフランクな態度は変わらない。
大好きなシェスカルの前でモグモグと食べていると、彼が目を細めてこちらを見ているのが分かる。ドキドキして仕方がないのでやめて欲しいが、こんな時間を過ごせる事に幸福も感じる。
「ファナミィ」
「は、はい!?」
「お前、この間の魔物討伐退治、活躍したんだってな」
「は、いえ、活躍なんて程じゃ.……キアリカ隊長の指示を、必死に守ってただけです」
「それでもよくやってたって、キアリカが褒めてたぞ。顔つきも変わってきたし、頑張ってんな」
シェスカルに褒められて、顔が綻ぶと同時に赤くなる。
彼に認められたのが嬉しかった。特に二年前は、不純な動機で入隊していたのがばれてしまっていたから。
あの時から心を入れ替えて、仕事に邁進してきたつもりだ。その根底には、やはりシェスカルに認められたいという気持ちがあった事は確かなのだが。
ファナミィが食事を終えると、スーベル卿の屋敷に向かう。中に入ると、護衛は別の部屋に通されて待つのが常だ。今宵は沢山の貴族が招待されているようで、別室で待機している騎士の数も多かった。
「あんた、もしかしてディノークスの騎士の人?」
ファナミィがなるべく人と関わらぬように、部屋の隅で待機していたというのに、一人の男の騎士が声を掛けてくる。
「そうですけど……」
「っぷ! あんたみたいな女に、あのシェスカル様を警護できんの?」
大声でそんな風に言われ、周りが爆笑の渦に包まれる。
こんなところで怒ったりするのはご法度だ。主人であるシェスカルに迷惑をかける事になる為、騎士の待機場所での争いは、オーケルフェルトの時代から硬く禁止されている。
こんな風に絡んでくる者がいるのは、主人の命令である事が多いのだそうだ。つまり、部下である騎士(ファナミィ)を挑発して先に手を出させる事で、主人(シェスカル)の立場を貶めようとしているのである。
ディノークスの騎士の間では、最近よくこんな事が起こるとファナミィも聞いていた。恐らく、シェスカルが気に食わない貴族も多いのだろう。
だからこういう時、何を言われても自分からは手を上げたり声を荒げたりしてはいけない。じっと我慢の子を貫かねばならない。
こういう事に耐えなければいけない事も、シェスカルの護衛につくのが嫌な理由のひとつだろう。
「シェスカル様ってよぉ、元の主人を裏切って貴族になったんだろ? ったく、騎士の風上にも置けねぇよなぁ」
きた、とファナミィは無表情で彼から目を逸らした。しかしその男は、ファナミィを覗き込むように近付いて来る。
「そんなに貴族になりたかったのかねぇー。豪商で金は有り余ってるくせによ。そこまでする?! って感じだよな!」
ファナミィは思わずイラッと相手を睨んだ。シェスカルが主人であるオーケルフェルト卿を裏切ったのは、謀反を起こそうとしていたからであって、国の為だったと理解している。
それにシェスカルは貴族になってから、国の為にずっと奔走しているのだ。騎士では出来なかった、貴族という立場を利用しているのは確かだが、それはこのアンゼルード帝国を思うが故の行動だろう。
何も知らぬ者に、そんな風に言われたくない。
ファナミィがギリッと奥歯を噛み締めると、男はニヤニヤとファナミィの周りを歩いている。
「あー、そういやこの噂知ってるか? あんのシェスカル様は、皇女様を狙ってるって話だぜ! どんだけ欲深けぇんだっての!」
ピクッとファナミィの耳が動いた。
この国の皇帝の娘である皇女は三人いる。確か長女と次女は既に結婚していて皇族を離れてはいるが、相手の男は皇女の夫として相応しい地位を授けられていたはずだ。そう、高位貴族への格上げである。
そうなると皇帝への発言権は増し、多くの領地も与えられる事だろう。
この国を謀反なく変えたいと思っているシェスカルである。皇女との結婚を狙うというのは、さもありなん話だ。
隊長が……シェスカル様が、皇女様と結婚……?
もしその話が本当なら、シェスカルはきっと皇女と結婚出来るよう、あらゆる手段を用いて実現させる事だろう。それを止める手段は……ファナミィにはない。
「おい、お前何青ざめてんだよ? まさか、シェスカル様の事が好きとか言うんじゃねぇだろうなっ」
冗談混じりで言われた言葉だと分かっていた。それなのに、顔はボンッと燃え上がるように勝手に赤く染まってしまう。
「おいおい、図星かよ! 貴族だぜ? あー、あの人の女好きは有名だからなー! お前、遊ばれちゃってるだけじゃねぇの? 百人くらいとヤッちゃってるらしいからなっ」
キッとその男を睨むと、思わず右手が上がった。相手は『よしきた』と言った顔で、殴られやすいように頬を出している。
しまったと思った時には手の勢いがつき過ぎていて、そのまま男の頬に直進する。
「やめときなっ!」
パシン、と音がなった。
しかしその音は、男の頬を平手打ちしたものではなかった。
一人の女性が後ろからファナミィの手首を掴んで、止めてくれていた。
目の前の男は悔しそうに舌打ちをしている。
「気持ちは分かるが、あいつに迷惑掛けたくないなら無視しておいた方がいいよ。今ディノークスは微妙な立ち位置にある。小さな事でもどう転ぶか分からないんだ。気を付けな」
「あ……はい……」
己のしようとしていた事に愕然としながら振り返る。そこには隻腕の女騎士が立っていた。
「邪魔すんなよ、アイナ!」
「邪魔? 邪魔をしてるのはあんた達だろ。ポッと出の貴族に全ての権力を掻っ攫われるのが嫌なら、人を蹴り落とすより自分が上に行く努力をしろと、あんたとこの主人に助言してやりな。こんなやり方は、いつか自分に返ってくるってね」
フンッと鼻息を吹き出しながら、男を睨みつける女隻腕騎士は格好良かった。
睨みつけられた男は舌打ちをしながらファナミィ達に背を向ける。その姿が他の騎士に隠れて見えなくなってから、ファナミィはようやく隻腕騎士に頭を下げた。
「すみません、ありがとうございました! 私はディノークス騎士隊のファナミィと言います」
「私はユリフォード騎士隊のアイナ。全く……あんたみたいな若い騎士をこの場に連れてくるなんて、何を考えてるんだろうね、あいつは」
義憤の息を吐き出すその姿もやはり格好良い。片腕だが貫禄があり、騎士としての風格が滲み出ている。キアリカを太陽に例えるなら、アイナは夜の三日月と言った感じだ。
それからはシェスカルが戻ってくるまで、アイナと二人で過ごした。と言っても彼女はお喋りではなかったので、言葉少なに時間を過ごした程度だ。それでもアイナが傍に居てくれただけで、もう誰も絡んでは来なかったのでホッとした。
やがて貴族の会食が終わり、一人一人呼ばれて騎士達が出て行く。今日は人数が多い為、混雑しないように順番に帰るのだろう。
何人か出て行った後、また下男らしい男が入って来た。
「ユリフォード騎士隊の方は……」
「私だ」
「ああ、あなたがアイナさんですね。ユリフォード卿からの言伝(ことづて)です。今夜はベル卿と共に帰る為、護衛はいらないとの事です」
「そうか、わかった。ありがとう」
「どうやら、あなたの夫が迎えに来ているらしいですよ。早く行ってあげなさいとの事でした」
「えっ?」
アイナは驚いたように声を上げて、少し困ったように……と同時に照れ臭そうに口をモゴモゴと動かしている。
今までのキリッとした雰囲気が一点、急に少女のような可愛い仕草に変わり、ファナミィは顔を綻ばせる。
「旦那さんが来てるんですか?」
「ああ、そうみたいだ。全く、心配性なんだから……」
少し頬を赤らめているアイナに微笑みを向けていると、今度は「ディノークス騎士隊の方」と呼ばれて、アイナと共に部屋を出る。
玄関に進むと、見慣れた筋肉質の貴族の姿を見つけた。その彼がファナミィの姿を確認して。
「おう、アイナ」
違う女の名前を、呼んだ。
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