第123話 最後の往路




「ああ、ここだ。この川だった」



半年前、自身が流された川の上にかかる橋を馬車で渡りながらエドガーは窓の外を見遣ると、そう独り言ちる。



その手の中にあるのは、新薬の小瓶。様々な検証を経て、漸く完成した念願の薬だ。



今は通常通り小川のように緩やかな水流。

けれどあの時はそれなりに増量していて。



ここで落ちて流された。あの時は、もう駄目かと思ったけど。



運良く親切な人に助けられ事なきを得た。偶然にも医療施設が備わった邸宅の主に保護され、使用人たちも医療の心得があって。



数日間は保護された家で手当てを受けて休むことが出来た。その後の経過が良好だったのは、処置を最速で出来たお陰だと思う。



もう無理はしないとベアトリーチェに誓い、今後は六か月後の帰郷を自分に課した。


三か月ごとの往復で起こる仕事場でのタイムロスを補うために、その前後にはいつもかなりの無理をしていた。それが無くなっただけで作業も体調も随分と楽になったし、結果も良い方へと動いていった。 



何より、アーティの自分への想いを漸く確信出来たのだ。



そんな風に全てが良い方向に転がったと言えるのも、あの時、あの人に助けてもらえたからだ。



エドガーにとって、彼は恩人だった。



助けてくれた家の主人である車椅子の男性は、エドガーが礼を述べた時も名乗ることはせず、当人の希望とやらで今も誰かは分からないまま。



その後に運ばれた病院でも、そしてストライダム侯爵家に行った後も、その点に関しては伏せられており今も知らされていない。



それが当人の意向であると言うのなら、それを尊重しようとエドガーは思う。



それでも、もう一度だけ、改めて礼を言いたかった。



だから、当人には会わず使用人の一人に感謝の手紙とお礼の品を手渡すだけにして、それで去ろうと思い、今馬車を向かわせているのだ。



もう、ここを通ることはない。これが最後の旅程になる。今回を逃せば、もう礼を言う機会もなくなってしまうから。



エドガーは手元の緑と茶色が混ざったような微妙な色の小瓶に視線を落とし、緩やかに微笑む。



味は保証出来ない、きっと飲むのは大変だろう。

しかも一回飲めば終わりという訳でもないのだ。でも。



この液体がアーティを救う。

これで、アーティの未来を、本当に望めるようになる。



迅る胸を、エドガーはもう一方の手で抑えた。


忙しく動く心臓に苦笑し、深呼吸をしてゆっくりと自分に言い聞かせる。



大丈夫。今度は間に合う。


間に合わせることが出来たんだから。




エドガーを乗せた馬車は、橋を渡った先で予定通りに横道に入る。


それから三十分も走れば、漸く目的とする家が見えてきた。



怪しまれないように、嫌がられないように、そう思ったエドガーは、見覚えのある邸宅の少し手前で馬車を止まらせる。



そこから一人、馬車を降り、お礼の品と手紙だけを手にしてゆっくりと歩いて行く。



だが、近くまで来て、エドガーは家の様子がおかしいことに気づいた。


静かすぎるのだ。まるで、そこに人が誰もいないかのように。



「・・・?」



訝しみながらも、エドガーは門で呼び鈴を鳴らす。



だが家の中からの反応はない。


仕方なく門を通り抜け、玄関でもう一度呼び鈴を鳴らした。


やはり反応はなく、エドガーは躊躇いながらもそっとドアのノブを回すと。



鍵がかかっていなかった扉は簡単に開いた。



「・・・」



中は空っぽ。


人の気配どころか、家具も装飾品も何もなく。



エドガーの恩人が住んでいた筈の家は、完全なる空き家となっていた。


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