第38話 閑話 最初で最後の



「おいで、ミルッヒ」



アレハンドロは妹に手を差し伸べる。


ミルッヒはそれに自分の手を重ねる。


それがいつもの光景だった。



そんな風にミルッヒに声をかけるのは、この世界でアレハンドロしかいなかった。


聞こえていない、返事も出来ない。

だから誰も彼女に声などかけない。


言ってもどうせ分からない、是非を問う必要もない。用事があれば、ただ肩なり腕なりを捕まえて、こちらを向かせれば事足りるのだ。



だがアレハンドロは声をかける。


手を差し伸べながら、一緒に歩きながら、気まぐれに頭を撫でる時も、自分で転ばせておきながら手を取り立ち上がらせる時も。


だってアレハンドロは知っている。

ミルッヒは全く聞こえない訳じゃない。ほぼ聞こえないと言うのが正しい。


本当は屋敷の皆が知っているけれど、無視している事実を。



アレハンドロが話しかけるたび、ミルッヒの目は僅かながら光が宿る。


だから、きっと、ミルッヒはいつでも、そしてどこへでも、アレハンドロの誘う所へとついて行ったのだ。


たとえその度に傷つけられると知っていても、彼女にとってアレハンドロはただ一人、ミルッヒと名を呼んでくれる人だから。



そう、あの日も。






その知らせがレジェス家に届いた時、本宅にしろ愛人宅にしろ、誰も悲しむことはなかった。



最初から居なかった者として扱われていた娘ミルッヒの死が伝えられても、誰一人として。



聞こえず話せない娘は、政略結婚の駒にすらならない。かといって人並みに働ける訳でもなく、捨てれば体裁が悪い。


レジェス家当主マッケイにとって、ミルッヒはただの穀潰しだった。


一番目の愛人でありアレハンドロたちの母親であるレガーラにとっては、ミルッヒの存在は人生の汚点。出来ることなら生まれてこなかった事にしたい娘だ。


だから、たとえ娘の死の知らせが届いたとしても何かを思う筈もない。悲しむとか、驚くとか、落胆するとか、そんな事は一切あり得なくて。


なのにレガーラが流産する程のショックを受けたのは、ミルッヒの死そのものではなく、そこに愛息アレハンドロがいたという事実からはじき出した憶測からだった。



いかに息子の状態に関心がない母親とはいえ、同じ家に住んでいれば偶然目にする事はある。


虫を踏み潰す後ろ姿、蝶々にナイフを突き立てる様子、あるいは立ち去った後に残っていた鳥の羽など。



大人しく従順だと思っていた可愛い息子は、気づけば、レガーラには到底理解できない小さな怪物になっていた。



そして、そんなアレハンドロは何故かミルッヒを気に入り、ある時からよく連れ立って遊ぶようになる。



メイドからの報告を受けたレガーラはそれが気に入らず、アレハンドロを叱りつけた。


だが、レガーラの予想に反し、アレハンドロはただ黙って母親を見上げただけ。



「聞いているの、アレハンドロッ」



苛立ち、声を荒げれば、怯えるどころか涼しい顔で見つめ返される。



「きこえてます」


「じゃあ、分かったわね。もうアレとは・・・」


「では、おかあさまが、かわってくださいますか?」


「え?」


「おかあさまが、みるっひのかわりをしてくれるのですか?」


「な、何を」



何をバカな事をと言いかけて、レガーラは黙り込む。



そして、その言葉の意味するところを考え、ある結論に達して青ざめた。



そういえば、最近はあの光景を目にしていない。


この子が落ち着いたのかと安堵していたが、もしかして。



「ねえ、おかあさま」



アレハンドロが笑う。



「かわって、くださいますか?」



無邪気に、笑った。



その笑みに、レガーラに戦慄が走る。



「わ、分かったわ。アレと一緒にいることを許可するわ」



その日からだ。レガーラがアレハンドロに何も言わなくなったのは。






そして、あの日。



アレハンドロは屋敷の裏手にある川に来ていた。


王都の中央にある本宅とは違い、アレハンドロたちの住む別宅は王都の外れにある。


少し歩けば自然豊かな場所をすぐに見つけられる、子どもにとっては嬉しい場所だった。



王都の中心を貫く形で流れる川は大きく、幅も広く、時には小型の輸送船も通るほどだ。



アレハンドロはその橋の上から、水の流れを眺めるのが好きだった。



大きな川の両岸を渡す橋はしっかりとした作りで、転落防止の欄干も付いている。



アレハンドロはそこにミルッヒを座らせる。


そしてすぐ隣に自分もよじ登って腰かけた。



もう少し行けば王都の外に出られるというその場所は、人気もなく橋の上にはアレハンドロとミルッヒの二人きり。



ミルッヒの右の膝には治りかけの瘡蓋が、左腕には三つ、右腕には一つの青あざがあった。


全部、アレハンドロが原因で出来たものだ。



アレハンドロと時間を過ごす度、ミルッヒの体には傷がついていく。だが、それでもミルッヒは、アレハンドロの手を拒むことはなかった。


その理由を、アレハンドロが考える事はなかったけれど、別にそんな事はどうでも良かった。何にせよ、ミルッヒはアレハンドロと一緒にいる事を選んだのだ。それだけで十分だった。



ミルッヒの涙は、これ以上ない程にアレハンドロを安らかにする。ヒリヒリと痛む心がスッと楽になるのだ。



ミルッヒはアレハンドロを癒す薬。この世界に色がある事を教えてくれた大切な玩具たからもの



「かぜがきもちいいね。ミルッヒ」



聞こえているのか、いないのか、そんな事はどうでも良くて。返事はないと分かっていても、ただ話しかけたいから話し続ける。



「ここは、ぼくのだいすきなばしょなんだ」



転落防止の欄干の上に座る、それがどんなに危険な行為なのか、まだ六歳のアレハンドロには分からない。四歳のミルッヒは言わずもがなだ。



ただ、目の前に広がる雄大な光景に出来るだけ近づきたかった。そこには他意も悪意もなく、本当に、純粋に、景色を楽しみたかった。それだけ。



実際、アレハンドロは風に頬を撫でられながら、のんびりと考えを巡らせていたのだ。



今日はどうやって泣かせようかな、などと。



だから、予想もしなかった。風に煽られ、ミルッヒの痩せた体が少しだけ押し出され、バランスを崩した妹が欄干から落ちそうになって。



「・・・ミルッヒ・・・ッ!」



手を伸ばした。妹の手首を掴んだ。



ぶらりと揺れるミルッヒの体。


その遥か下にあるのは、音もなくゆったりと流れる膨大な量の水。



それまで、爽やかさしか与えなかった景色が一変した。



「ミルッヒ、ミルッヒ、ミルッヒ・・・ッ」



手首を掴まれ、空中で揺れながら、ミルッヒはぽかんと口を開けアレハンドロを見上げる。まるで、何をしているんだと言わんばかりに。



アレハンドロのもう片方の手は欄干を掴んでいる。差し出す事は出来ない。だがこのままではミルッヒを持ち上げる事も出来ない。

たった六歳のアレハンドロにそんな力があったかどうか、そこまで考える余裕はなかった。



アレハンドロは足を欄干に引っ掛けた。

しっかりと掛かっている事を確認してから、もう一方の手を伸ばす。


両手でなら。きっと。



だが、その手が届く前に、それまで掴んでいた方の手からミルッヒの腕が抜け落ちた。



急いで空いた手を伸ばす。届かない。両の手は虚しく空を切った。


声を上げる。目の前の光景が信じられなくて。



ゆっくりと、落ちていく。


ミルッヒが、アレハンドロの大切な玩具が落ちていく。


アレハンドロの心を癒す薬、誰よりも側にいた宝物。



ミルッヒは、一瞬大きく目を瞠り、それから。



「ミルッヒ・・・?」



ふわりと笑った。


幻のように美しく、儚く。



それは、アレハンドロが見た、最初で最後のミルッヒの微笑み。



嘘だ。


これは、夢だ。悪夢だ。



遥か遠く。



眼下で、ぱしゃんと音がした。




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