第39話 それは運命か偶然か
エドガーは、帰国してベアトリーチェのもとを訪れるたびに改良した薬を持って来る。
それらはまだベアトリーチェの病全体を治す効果はなく、その一部の機能を改善もしくは安定させるか、あるいは落ちきった体力を回復するためのものだ。
だが確実にベアトリーチェの容体は安定し、これまでになく床に伏す期間が遠のいているのは確かで。
いつもならばストライダム侯爵家に来ても丸一日滞在すれば隣国にとんぼ返りしていたエドガーは、今回は珍しく三日ほど滞在する事になった。
エドガーの体調を慮ったのが理由の半分、もう半分はベアトリーチェが夏季休暇に入ったため二人で親睦を深めてはどうかという計らいだった。勿論、ストライダム家からの。
「・・・うん。貧血状態はだいぶ改善されたね。脈も今のところ正常だ」
少しずつ、でも確実に症状が改善されている事に一番喜んでいるのは勿論ベアトリーチェ本人なのだが、家族も、そしてエドガーもまた嬉しさを隠せない。
まだ完治した訳でもなく、治療薬が出来上がった訳でもない。だから安心するのはまだ早い、そう自戒はするのだけれど。
年を追うごとに倒れる回数が増えていくのを間近に見ていた者たちからすれば、その回数が減っていっている、その事実だけで小躍りしたくなるほど嬉しいのだ。
「ありがとうございます。これもエドガーさまのお陰です」
にっこり笑うベアトリーチェの頬が、これまでになく明るく色づいて見える。
それは体調の好転によるものか、はたまた彼女の内にある仄かに湧き立つ感情によるものなのか。
「エドガーさまもゆっくりなさってね。いつも慌ただしくお帰りになるでしょ? 目の下の隈がどんどん濃くなっていくから、すごく心配だったの」
無理をしないでと言っても、きっとこの優しい人は止まらない。
却って、ベアトリーチェに気取られまいと見えないところで無理を重ねていくだけ。
そう分かっているからこそ、安易な言葉はかけられなかった。ベアトリーチェは、その無理が自分のためだと知っている。
ところが、当のエドガーは、照れくさそうに頬を指でかきながら、何やらもごもごと言い淀んでいる。
『ゆっくりして』というワードに困っているのか、それとも『心配だ』がいけなかったのか、ベアトリーチェは首を傾げながら、大人しく続く言葉を待った。
「ええと、それがね」
「はい」
「僕としては、せっかくの機会だから、君とやりたい事があるんだ」
「私と、ですか?」
「うん」
きょとんと目を丸くするベアトリーチェに、エドガーが頬を赤らめながら言葉を継ぐ。
「アーティの調子が少し良くなった事だし、その、一度、一緒に街に行ってみるのは、どうかな、なんて」
「街・・・」
「うん。アーティは、ほら、あまり行った事がないだろう?」
視線をあちこちに彷徨わせ、手で忙しなく髪をかき上げながら、辿々しくエドガーはベアトリーチェを逢瀬に誘う。
確かに、ベアトリーチェは殆ど街に行った事がない。
何かあっては大変だと、特別なことでもない限り、屋敷内で過ごすように心がけていた。
学園に上がってからは通学だけで体力を使い果たしてしまい、余計に外出の機会が遠のいていた。たぶん、もう三年以上街には行っていない。
ああ、でも巻き戻り前は、とベアトリーチェは思い出す。
家族には内緒で、学園帰りにこっそりと街へ出かけた事があった ーーー ナタリアとアレハンドロと三人で。
あの時もすぐに気分が悪くなって木陰で休むことになって、二人に心配をかけたのだ。
心配そうにベアトリーチェの顔を扇ぐナタリア。氷の入った果実水を買いに走ってくれたアレハンドロ。
結局、あの後少しだけ街を見て回って直ぐに家に送られた。アレハンドロが手配した馬車に乗せられて。
--- お大事にしてね、トリーチェ
--- 無理すんなよ、ゆっくり休め
最後に刺し殺された記憶があっても、陰でどんな事をしていたのかを兄から知らされても、それでも。
あの時、ベアトリーチェに優しくしてくれたのはまぎれもなくあの二人で。
「・・・」
懐かしい、けれど切なくもある思い出が蘇り、ベアトリーチェの眉尻が下がる。
それを否定と捉えたのだろうか、エドガーがごめんと慌てて謝った。
「え?」
「突然に言われても困るよね。やっぱり屋敷で過ごす事にしようか」
誤解させたと気づいたベアトリーチェは、慌ててエドガーの手を握る。
「そんな、エドガーさま。私、エドガーさまとお出かけしたいわ」
「え? あ? アーティ?」
「エドガーさまと街に行きたいの。ね、いいでしょ?」
エドガーの手を包み込んだ両手に、ベアトリーチェはきゅっと力を込める。
未だ勘違いが解けていないエドガーの顔にはハテナマークが浮かんでいるものの、
ただ、こくこくとエドガーは頷いた。
そうして次の日、二人は馬車に乗って街の広場に向かう。
広場で馬車を降りた二人は、ゆっくりと街歩きを楽しむ。
心配症のエドガーは、ベアトリーチェが疲れないようにとあちこちで休憩を挟むのを忘れない。
「美味しい。串焼きって、こんなに美味しいのね」
道端の屋台で買った串焼きは、口にするとほのかに炭の香りが立ち上る。はふはふと熱々のところをベアトリーチェは頬張った。
「ふふ。アーティは、串焼きは初めてかな」
「ええ。屋台の食べ物は食べた事がなかったの。すごく美味しいものなのね、驚いたわ」
「それだけだと喉が渇くだろう。ほら、果実水も買って来たよ」
「わぁ、ありがとう」
そう言って、エドガーが渡してきたのは、レモン味の果実水。
記憶にあるものは、確か葡萄だった。
意識した訳でもないのに、つい連鎖的にアレハンドロを思い出してしまい、困ったものだとベアトリーチェは苦笑した。
諦めが悪いと、自分でも思う。
現実を見ろと兄が怒るのも仕方ない。
あの時の優しさが、笑顔が、もしかしたら全部が嘘だった訳じゃないのかも、なんてまだ思ってしまうのだから。
「・・・」
「アーティ?」
急に黙り込んだベアトリーチェを気遣うように、エドガーが名を呼ぶ。
なんでもないとベアトリーチェは微笑んだ。
そうして数時間ほど王都散策を楽しんだ頃だろうか、それまで晴れていた空に灰色の雲がかかり始めた。
今にも雨が降りそうな様子に、二人は馬車乗り場に戻り、帰途につく。
予想通り、馬車が動き始めて暫くすれば、雨がぽつりぽつりと降り出し、段々と雨音が大きくなっていく。
「これは、暫く止みそうにないね」
「ええ。戻ることにして正解だったわ。あのままあそこにいたら、きっと雨で・・・」
ふと、ベアトリーチェの言葉が途切れる。
馬車の窓の向こう、軒先で雨宿りをしているある人の姿を見つけたからだ。
突然の雨に慌てて駆け込んだのだろう。だが軒先の長さは十分でないようだ。多少の雨は遮られているが、かなり濡れてしまっている様に見えた。
「すみません、止まってください・・・っ」
「アーティ? どうかした?」
声を受けて馬車の速度が落ちる中、エドガーが驚いてベアトリーチェを見る。
だが、ベアトリーチェの視線は窓の外へと向けられたままだ。
視線の先にいたのは、ベアトリーチェが、今度の人生でずっと親しくなることを避けてきた人。
そして前の時には、誰よりもベアトリーチェの近くにいてくれた人。
笑い、お喋りを楽しみ、いつも一緒に時間を過ごした人。
ベアトリーチェの口から、ぽつりとその人の名前が溢れた。
ナタリア、と。
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