第37話 それは、かけがえのない
明日か明後日にでも、ナタリアに会いに行こう。
アレハンドロのそんな悠長な考えも、予期せぬ早朝の来客で吹き飛んだ。
「ノーラ」
「すみません・・・お嬢さまに気づかれてしまいました・・・っ」
深々と頭を下げるのは、懐柔しておいたオルセン子爵家のメイド。
聞けば、レオポルドからの手紙を奪おうとして、逆に罠にかかったと言う。
あのナタリアが・・・?
手駒が失態を犯した事よりも、ナタリアのあり得ない変化の方に意識が向いた。
人形のように与えられるものをそのままに受け入れ、疑うことを知らず、全てを諦め、流されるままだったアレハンドロの可愛い玩具が。
「・・・話したのか?」
「ひ・・・っ、い、いいえっ」
怒気のこもった視線に射抜かれ、目の前で平伏するメイドが、怯えた様に小さな悲鳴を上げた。
「見つかったその場で逃げ出して参りました。ナタリアお嬢さまはまだ何も・・・」
「そうか」
アレハンドロは膝をつき、ノーラの頭を優しく撫でた。
「よくやったな、ノーラ。今までご苦労だった」
「アレハンドロさま・・・」
「もうあそこには戻れまい。別の仕事を紹介してやる。俺の近くに置いてやりたいがそうも行かない。それではナタリアに見つかってしまうからな」
「・・・はい」
「ザカライアスに言って案内させる。少しの間ここで待て」
「あ、ありがとうございます」
安堵し、涙ぐんで感謝するメイドを残し、アレハンドロは部屋から立ち去った。
現れたザカライアスには、すれ違いざまに「連れて行った先で処理しておけ」と小声で言い残して。
足早に自室へと向かう。
今、アレハンドロの頭の中には一つのことしかなかった。
ナタリア。
ナタリア、ナタリア、ナタリア。
俺の、俺のナタリア。
十年以上かけ、丁寧に手をかけて作り上げた俺の可愛い玩具。
罠を張るなんて、人形のお前に、そんな事あり得ないのに。
ナタリアなら、あの男を追い詰め仕留め終えるまで、何も気づかず、ただひとり震え怯えて待っているだけ、ただそれだけの筈だった。
それが、逆にノーラを罠にかけた?
おかしいだろ。
だって、それじゃまるで。
まるで
「・・・どうもおかしい。何かが変だ」
前の時、ナタリアが思う様に動かなくなったのは、
まさか今回もまた?
いや、それはない。あの女については定期的に報告をさせている。ベアトリーチェがナタリアに近づいたという報告は来ていない。第一、学園では自分の目で確認済みだ。
「なら、他の奴か・・・? いや、それもないな。第一、レオポルドですらここ二か月は姿も見せていないのに」
そのレオポルドはライナルファ邸にこもりきりだ。
報告によると、父親の執務を手伝い、債務を減らそうとしているらしいが。
何かがおかしい。レオポルドもナタリアも、どこか妙だ。
でも何が?
違和感があるのに、それがどこにあるのかが分からず、アレハンドロの眉間に皺が寄る。
「・・・」
自分は、何かを見落としているのかもしれない。
また。
もしかしたら、また自分の手から大事なものがすり抜けていくのだろうか。
「・・・ミルッヒ・・・」
気づけば、死んだ妹の名を口にしていた。
「ミルッヒ・・・ミルッヒ、ミルッヒ・・・ッ」
誰にも笑顔を見せることなく死んでいった妹。
母に疎まれ、使用人たちから厭われ、父親の顔を一度たりとも見ることなく、居場所を失った哀れな子ども。
泣きたくても、叫びたくても、誰かに訴えたくても、言葉ひとつ出す事も出来ない。
兄が気まぐれで見せる優しさに縋るしか、生きていく場所がなかった。
ミルッヒの泣き顔が好きだった。ミルッヒの涙に癒された。
でも、最後の、最後の瞬間に気づく。
一瞬だけ見えたミルッヒの笑顔は、幻のように美しかった。
いや、あれは本当に幻だったのかもしれない。ミルッヒは笑わない子だったのだから。
掴めず、届かず、力が足らず。
ゆっくりと落ちていくミルッヒを、自分は呆然と、ただ見ているしか出来なかった。
遠くで聞こえる水の音。
再び白黒になる世界。
気づけば、アレハンドロの頬を涙が伝った。
金も、物も、後継者の立場も。
要らないものばかりが手に入る。
本当に欲しいものは、本当に欲しいものだけが、いつも自分の手から溢れ落ちていく。
いや、違う。
今回は違う。
ミルッヒが死んで、
すぐに手が届く。でも腕の中には捕らえない。
自分の側に置く。でも当人にそれを選ばせる。それしか選べないようにして。
側に置きながら、手に入れようとはしなかった。
でもそれで良かった。満足していた。
完璧な世界だったのだ。
そう。
そんな力も能力もないくせに、見目の良さだけでナタリアの王子を騙ったまがいもの。
お前に、俺の大事な玩具を守れる訳がないのに、いとも容易く愛を囁く。守ってやると豪語する。
出来もしないくせに。
「そうだ・・・ここで立ち止まっている暇はない」
アレハンドロは立ち上がり、身支度を整える。
やるべき事は沢山ある。
こんなところで躓いている暇はないのだ。
あれは俺の
今度こそと大切に、大事に、念入りに作り上げた俺の、かけがえのない存在。
もう二度と、
失うくらいならば、いっそ。
そうだ、いっそ。
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