第36話 未熟であると知る
レオンは、右足を引きずりながら与えられた部屋へと戻ろうとしていた。
角を曲がれば、寝床のある部屋までもうすぐというところで何かに躓き、壁に体がぶつかる。
「・・・っ」
「おおっと、悪いな」
眼帯のせいで狭くなっている視野を逆手に取られて足を引っ掛けられた様だ。
咄嗟に声が出なかったのは、努力や意思の賜ではなく単純に服用している薬のせい。
そのお陰で、口がきけないという設定が今までバレずに済んでいる。
剣を振ることしか能がない、口裏合わせすら上手く出来ない不器用なレオポルドのために、わざわざ考えられた設定だ。
そこまで念を押さなくても、とここに来る前は正直思った。だがそれは間違いだった。
恐らく、レンブラントの指示通りにしていなければ、早晩に身バレしていただろう。
そのくらい、アレハンドロのチェックは厳しく、レオポルドの演技は拙かった。
「・・・」
ぺこりと頭を下げ、のろのろと身体を起き上がらせて、ニヤニヤ笑う目の前の相手の横を通り過ぎる。
「ちっ・・・っ」
背後で舌打ちする音がした。
物足りないとでも思っているのだろう、だがどうやらここで止めてくれる様だ。
レオポルドは密かに安堵の息を吐いた。
侮蔑の視線や嘲笑、謂れのない暴力にもだいぶ慣れてはきたが、やはりそんな仕打ちを受けずに済むなら是非ともそうしたい。
アレハンドロやザカライアスの前では笑みを浮かべ頭を下げる使用人たちが、奴隷の立場を取るレオポルドの前では居丈高に傲慢に振る舞う。時には暴力を伴って。
その豹変ぶりは、いっそ清々しいと言ってしまえるほどだ。
人は、こんなにも汚いものなのだな。
ここに来て何度も頭に浮かんだのは、そんなどこか他人事めいた感想だった。
ライナルファ侯爵家の次期当主として、両親からも、家臣からも、そして使用人たちからも、大切にされていた。愛しまれ、尊重されていた。
容姿が人よりも優れていることは自覚している。だが、それだけで無条件に周囲からの評価を上げていることには気づいていなかった。
地位と権力と見目の麗しさ、それらを生まれ持ったレオポルドだから人は笑顔を向ける。敬意を払い、配慮し、望みを叶えてくれていたのに。
レオポルドは、深く考える性質ではない。
だから素直に、世界はそういうものだと思っていた。世界のどの部分も変わらず常に自分に温かいものだと。
自分に向けられる好意も微笑みも優しさも、それら全てが嘘偽りなく真実で、自分がいないところでそれが真逆に変わることがあるなど、考えもせず。
--- レオポルド。今のお前はあの男に到底、敵いやしないぞ
レンブラントに、ライナルファ侯爵家を陰で攻撃している人物について聞かされた時、まず告げられたのはその言葉。
見える面だけをそのまま受け取って確かめもしない自分に、絡め手を得意とするアレハンドロは相性が最悪だと。
第一学年の模擬戦で、観戦に来ていた可愛らしい少女に、レオポルドは一目惚れした。
晴れ渡った青空のような美しい髪。
丸く大きく、少し垂れた可愛らしい緑の瞳。
大勢の人の中にいながら、どこか所在なさげに佇む姿が、庇護欲をそそった。
同級生の想い人であると知り、一度は諦めたものの、その同級生の退学をきっかけに勇気を出して告白した。
そして、彼女は思っていた通りの無垢な少女だと知った。
疑うことを知らず、人に優しく、笑顔を絶やさず。
自分に自信がなくて、いつも不安そうな縋るような目でレオポルドを見る。
レオがいないと寂しい、レオがいないと不安なの、そんな言葉に自信を持った。
大丈夫、うちは侯爵家だ。どれだけ君の家が貧しかろうと助けてみせる。
そう話せば嬉しそうにナタリアは笑い、それがレオポルドを幸福に浸らせる。
ナタリアにとって、レオポルドは王子さまなのだ。
自分にはレンブラントのような鋭い賢さもなく、エドガーのような穏やかな理知もなく、ただ愚直に剣を振るうことしか出来ないけれど。
でも、ナタリアがそう言うのなら。
王子さまでいて欲しいのなら、いくらでもそうしてあげよう。
--- 思うだけで成し遂げられるなら、皆、好きなものになってるさ
違う。そんなんじゃない。
ナタリアが望むなら、いやナタリアが望むから、俺は何にだってなれるんだ。そう、白馬の王子さまにだって。
--- あの男の方が、ある意味よほど現実を知っている
そんな筈はない。
そんな汚い手を使う男が。
そう思い、レンブラントの提案を受け入れてここに潜り込んだ。
その、自分より現実を知っているという男に、羽虫の如くナタリアにまとわりつくアレハンドロに、それこそ現実を思い知らせてやろうと。
部屋に入り、目の前の寝床に腰を下ろす。
奴隷に与えられた部屋は、人がひとり辛うじて横になれるくらいの広さしかない。
そんな現実にすら、最初は衝撃を受けたが、今はすっかりと慣れたものだ。
レオポルドは枕元に置かれた薬瓶の中身を一つ取り出すと、口の中に放り込む。これを夜に飲むことで、翌日も声を出せなくするのだ。
それからズボンを捲り上げ、右膝に巻かれた包帯を解いていく。その下に現れたサポーターに似せた重りの内側、隠しポケットがあるそこから、レオポルドは隠しておいた紙片を数枚取り出した。
それをしげしげと眺めれば、自嘲めいた笑みが浮かぶ。
・・・あんな大口を叩いておいて、書類数枚を持ち出すのにも影に助けられるなんて。
それだけではない。
毛染めや声を出せなくする薬、目が爛れたように見せかけるクリーム、足の負傷を演出する道具、少しばかり上げ底の靴。
それらを揃えたのは自分ではない。目の前にずらりと並べられたそれを手に取って使っただけ。
ここで、どのように動くのかを考えたのも当然、レオポルドではなくて。
違う、そんなんじゃない。
俺は、ナタリアは。
あの時、そうレンブラントに言い張った自分が酷く滑稽に思えた。
『愛している』その一言だけで、なんでも出来ると信じていた。
だから、レンブラントに託したナタリアへの手紙にも愛を綴ったのだ。
何も知らなかった。何も分かっていなかった。
自分がどの程度の男で、自分の恋路が発端となって傾き始めた侯爵家を何とかするための証拠集めすら、一人では満足に行えないことも。
確かに、そうだ。
自分などより、
同い年の彼は、自らの力と頭を持ってして、ここまでレオポルドを追い込んだのだから。
ーーーそのやり方が正しいかどうかは別として。
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