第20話 真っ黒



「思っていたよりも症状が軽くて安心したよ」


「心配かけてごめんなさい、エドガーさま。こちらに来るだけでも大変なのに」


「気にしないで。僕が勝手に押しかけただけだから」



そう言って、ふわりと笑うエドガーは相変わらず優しい。



昔から彼はそうだった。


もの静かで、穏やかで、本が好きで。


暇さえあれば体を動かしたがるレオポルドとは正反対。


木の枝を振り回して騎士の真似事をするレオポルドを、木陰からそっと見つめるのがベアトリーチェは好きだった。

そしてエドガーは、いつもそんなベアトリーチェの横に座り、静かに本のページをめくっていた。



エドガーとは何の言葉も交わさなくても、その沈黙が心地良かった。いつも何とはない平穏を味わえた。



だから、エドガーならいつも側にいてくれると勝手に思い込んで。

いつも必ず自分を一番にしてくれると甘えていた。


そんな勝手な思い込みのせいで、突然の留学の話を聞いてひどく動揺したのだ、巻き戻り前のベアトリーチェは。



あの時の自分は、本当に最低で自分勝手だったと思う。


大志を抱いて隣国に向かう幼馴染みを応援することも祝福することも出来ず、薄情だと碌な別れの言葉も言えなかった。


それでも、留学先から手紙を書いてくれたエドガーは相当な人格者だったのだろうと、今のベアトリーチェならよく分かる。


その時の手紙の内容は、研究レポートに似たもので、読んでもちっとも楽しくはなかったし、今のエドガーの方が、更に、格段に、比較しようもなく、素敵さが増していることは間違いないけれど。



「・・・なんだい? さっきからずっとこっちを見てるみたいだけど」


「・・・え? あ、その、ええと」


「うん?」



不思議そうに目を見開きながら軽く首を傾げるエドガーを、まじまじと真正面から見つめ返す。



レオポルドの様に衆目を集めるような派手な美形ではないけれど、こうしてみるとエドガーも相当に整った顔立ちをしている。


内面の穏やかさと知性とが滲み出た、一緒にいて落ち着く感じ、そう大人の包容力とでも言おうか。



エドガーは、きっと愛する女性を最後まで大切にする人だろう。彼の恋人になるひとはきっと幸せに違いない。


・・・もしその時にまだベアトリーチェが生きていたら、きっと寂しくて堪らないだろうけれど。


小さい時からエドガーの側にいたのに、どうして彼の良さに気づかなかったんだろう、と今さらな疑問に襲われる。



ああ、そうか。



「・・・レオポルド馬鹿だったせいね、きっと」


「アーティ? 今なんて?」



きょとんとした顔で聞き返すエドガーに、つい五日前に兄から聞かされたばかりの、かつての不名誉な名称について説明する。



残念なことに、それにはエドガーも同意しかないそうだ。



「でも、私がそんなにレオポルドさましか見えてなかったって事は・・・いえ、やっぱり、あ、ある、かしら・・・?」



否定したいのに否定しきれないベアトリーチェに、エドガーは苦笑しか返せない。



「まあアーティがそうなるのも仕方ないよね。レオは本当にハンサムだから」


「そ、それは確かにそうかもしれないけど、でも素敵なのはエドガーさまだって・・・っ」


「え?」


「あ、そ、それに、お、お兄さまも・・・そう、お兄さまも格好いいと、思うの」


「・・・ああ」



急に自分の名前が出てきた事に驚いたエドガーは、後に続いた「お兄さま格好いい」宣言に、なぜか安堵したような、少し寂しそうな、そんな微妙な表情を浮かべた。



「そうだね。そういえばアーティはよく言ってくれてたっけ。レンブラントと僕は頼りがいのあるお兄さまだって」



そう続けて、エドガーは微笑んだけれど。



「・・・」



ベアトリーチェは、それに頷き返すことが出来なかった。



そう。確かに、かつてのベアトリーチェはよくその言葉を口にした。


口は悪いけど、なんだかんだとベアトリーチェの世話を焼いてくれる兄と。

そしていつも静かにベアトリーチェの側にいてくれるエドガーと。


自分には頼もしい兄が二人もいるのだと。



でも。



何か違うのだ。



レンブラントは相変わらず頼もしくて、意地悪だけど優しい兄で。


だけどエドガーは。


優しくて、穏やかで、いつもベアトリーチェを心配してばかりで、自分のことは二の次の、本の虫であるこの人は。



ベアトリーチェが倒れたと聞くと、いつでもどこにいても、何をおいても駆けつけてくれるこの過保護な人は。



兄のようだと言ってはいても、自分の兄では、なく。



じゃあ、エドガーは。



「アーティ?」



エドガーの顔を見つめたまま黙り込んでしまったベアトリーチェに、いつもの優しい、心配そうな声が降りかかる。



なんでもない、とベアトリーチェは返した。そう返すしかなかった。


ベアトリーチェはまだ、これが何なのかよく分からないから。


父にも母にもそして兄にも、大好きだったレオポルドにすら感じた事のない、この少し苦しくて切なくてくすぐったい感情が、どんな名前を持っているのか、まだ分からなかったから。








「レンブラント、待たせたな」


「ああ、いや。こっちも今戻って来たところだ」



五日かけて隣国ドリエステから戻って来たエドガーは、ベアトリーチェの容体を確認するとそのままレンブラントの私室へと足を向けた。


話があると呼ばれていたのだ。



「あのさ、前にお前から言われてた事なんだけどさ」



グラスにブランデーを注ぎながら、レンブラントは口を開く。



「僕が言った事?」


「ほら、トリーチェが何か抱え込んでいそうだって話」


「ああ、その事か」


「それさ、ついこの間、あいつが話してくれたんだよね。それでお前にも言っておいた方がいいと思って」



そう言うなり、レンブラントは傍に置いてあった鞄から、ばさりと束になった紙を取り出した。



「相当むちゃくちゃな話なんだけどさ、信用していい話だと思う。いや、お前なんかは特に怒りそうな話だから、心落ち着けて聞いてもらえると助かるかな」


「怒る? ・・・僕が?」



およそ怒りとは無縁の生活をして来た自覚があるエドガーは不思議そうに言葉を繰り返すが、レンブラントは苦笑しながら頷き返した。



「いや、さすがのお前もこれを聞いたら怒ると思うよ。だってさ」



先ほど取り出したばかりの紙の束を、ひらひらと振り回す。



「ベアトリーチェが言ったこれ・・・・・こいつ、まだ一部しか調べが上がってないってのに、もうこれだけ真っ黒なんだもんよ」

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