第三章

一話 謝霊と張慧明、最後の手がかりに行き着くこと

 翌朝、私が店の前を掃除していると路地裏から七白がするりと現れた。ミャオミャオ鳴きながら私の足にまとわりついてくる七白を、私は苛立ち半分、諦め半分に抱き上げて目線を合わせた。


「今日はどこに行くんです、謝霊シエリン兄」


 大通りに面した歩道で仕事中に猫に話しかけているところなど、怠惰だとか勤勉だとかを抜きにしても見られたくはない。だから低い声でささやくように話しかけたというのに、なんと愉しげな笑い声が路地裏から聞こえてきた。


「今日は事件の昼間にフォスター嬢、モリソン氏、それからパドストン氏がどこで何をしていたかを調べようかと思っていますよ。慧明フェイミン兄」


 私は憤慨とともに顔を上げた——私の頬を七白がべろんと舐める。そんな私の目の前に立つ謝霊は、笑いをこらえもせずに丸眼鏡の奥の両目を細めていた。


「……どうも、謝霊兄」


「おはようございます、慧明兄」


 私たちが挨拶を交わす間に七白はひょいと私の手から抜け出して謝霊の足にまとわりつく。


「また七白に憑りついて私を見張っていたのですか?」


 私がじとりと謝霊を睨むと、謝霊はついにぷっと吹き出した。


「まさか! 今のはこいつが勝手にやっただけですよ。八黒バーヘイよりも断然人好きのする奴なんですが、どうも慧明兄が気に入ったようですな。きっと幸運が訪れますよ」


 あんぐり口を開ける私に、謝霊はなおも笑い続ける。私はため息とともに店の中に入り、サー・モリソンに言って再び一日留守にする旨を取り付けた。




***




 私たちが向かったのは大通りから少し入ったところにある静かな茶楼だった——彼ら西洋人に言わせれば「カフェ」というらしいその店は、上海の多くの飲食店と同じく西洋人のために設えられたものだ。事件の昼間、サー・モリソンはマダム・フォスターとパドストンと三人でここで昼食を食べていた。

 私たちは正面の入り口を無視して裏口に回り、勝手口の戸を叩いた。顔を出したのは壮年の西洋人だった――私たちが挨拶すると、彼は怪訝そうに私たちを見比べた。


「何の御用でしょう」


 男は白いシャツに黒いズボン、黒い前掛けという落ち着いた制服に身を包んでいる。謝霊はいつもの人の良い笑みを出し、レイフ・モリソンの使いで調べ物をしていると答えた。


「ほう、モリソン様が」


 男が驚いたように呟く。そこに謝霊がすかさず入り込み、


「実は、歌姫のミス・クリスティン・フォスターが亡くなられた件でモリソン氏より調査を依頼されていまして。ご協力をお願いできますかな? ええと……」


「トマス・エバンズ。給仕頭と副支配人を兼任しております」


 ミスター・エバンズの答えに、謝霊は丸眼鏡の奥の目をにっこり細めた。


「どうも。ご協力願えますか、ミスター・エバンズ?」


 ミスター・エバンズはふむと呟き、「何をお知りになりたいかによりますな」と言って短く刈り込まれた灰色の口ひげを撫でつけた。


「たとえば、もしうちの帳簿を見たいと言われるのであれば対応はいたしかねますが」


「そんな大層なものではありませんよ。我々は、事件のあった昼にミスター・モリソンたちが此方で何を召し上がったのか知りたいのです」


 謝霊が答えると、ミスター・エバンズはまた口ひげを撫でつけたのち「良いでしょう」と頷いた。


 こうして私たちは彼に連れられて上階の事務所に入ることになった。ミスター・エバンズは小奇麗な文机に一抱えはある巨大な本をどんと置くと、大量に紙の貼りつけられたそれを手際よくめくり始めた。

 貼られているのはどれも客の注文を書きつけた紙だった。日付ごと、食卓と客の名前ごとに分けられたそれは膨大な量で、それだけでこの店が繁盛していることが見て取れる。二か月前の日付の伝票が出てきたのは半分以上頁をめくったあとだった。


「……ああ。ありましたぞ。この、エリック・パドストン様が会計された分でしょう」


 ミスター・エバンズがそう言って手を止める。私たちは一歩退いた彼に変わって本に飛びつき、額を寄せ合うように伝票を覗き込んだ。


「ハムとレタスのサンドウィッチ、フィッシュアンドチップス、それから紅茶ですか」


 謝霊が声に出して伝票を読み上げる。


「この三名というのが、エリック・パドストン氏とレイフ・モリソン氏、クリスティン・フォスター嬢なのですね?」


「ええ。この伝票は間違いなく、ミスター・モリソンがフィアンセをお連れになった最初で最後のお食事のものです。私がウェイターを務めたのでよく覚えています」


 ミスター・エバンズが静かに答える。

 私は伝票を睨んだまま独り言ちた。


「この中で食あたりを起こしそうなものといえば、やはり白身魚か」


「それはないでしょう。同じものを食べているのだから、魚が原因ならパドストン氏とマダム・フォスターも食あたりになっているはずですからね。しかしモリソン氏だけが体調を崩したということは、ここには書かれていないが彼しか食べていないものが何かあると見た方がいい」


 謝霊がそう言ったとき、私の頭の中にあることが閃いた。


「サー・モリソンがマスタードソースを一人分、別添えで注文されていませんでしたか? 白身魚のフライには必ずマスタードソースをつけるのがあの方の習慣なのですが」


 私はミスター・エバンズに向き直って言った。果たして彼は、なぜ分かったのかと言わんばかりに大きく頷いた。


「ええ。たしかにお持ちしました。ですがそのとき、モリソン様はフォスター様と一緒に席を外しておられて、お料理だけ置いていくようパドストン様に言われたと記憶しております」


 それを聞いた途端、謝霊の目がはっと見開かれた。彼はそうかと呟くと、おもむろに私の腕を掴んでミスター・エバンズにいとまを告げた。

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