七話 張慧明、主の会食に引き出されること

 水を張ったたらいで手を洗っていると、上階へと続く階段からヤン阿姨おばさんの怒鳴る声が聞こえてきた。


慧明フェイミン! まだ帰ってないのかい!」


 私は驚いてその場で飛び上がり、反射的に答えた。


「帰ったよ、楊阿姨」


 彼女が怒鳴るなど何事だろう――それも主人の用事で一日留守にしていた私が、ドラ息子の相手さながらの口調で怒鳴られなければならないのだろうか。訝しみつつも階段に向かって倉庫を突っ切っていると、


「なら早く来なさい! 仕事だよ!」


 とさらに大声で怒鳴られた。

 私は何事かと首をかしげながらも階段を駆け上がった。楊阿姨は階段の出口に立ちはだかって私を待ち受けており、私の顔を見るなり葡萄酒の瓶をぐいと押し付けてきた。


「サー・パドストンがお見えだよ。サー・モリソンとご夕食を一緒に取られるんだとさ。他の連中は帰っちまったし、あたしは厨房で手が離せないんだ。分かったら早くお行き! 三階の居間だよ!」


 私が口を開く間もなく楊阿姨はまくし立て、挙句の果てには私を階段から引き上げて思い切り背中を突き飛ばした。私は何が何やら分からぬままに上階への階段を駆け上がり、居住まいをちょっと正してから居間の戸を叩いた。


「ワインをお持ちしました、サー・モリソン」


 私がそう言うと内側から扉が開けられ、サー・モリソンが顔を出した。彼は私を見るや少し首をかしげ、


「いつ戻った?」


 と単刀直入に聞いてきた。


「つい先ほどです。例の件について、劇場で探し物をしていまして」


 私は部屋の中を伺うまでもなく声を落として言った。サー・モリソンもそれを汲んでか無言のままに頷く。それから声を上げて


「そういえば、具合はどうだ? 朝よりだいぶ元気そうだが」


 と言い、私を中に通した。


「もう大丈夫です。よく効く薬をもらいまして」


 私は素早く答えながら部屋に入り、すでに食卓に着いているエリック・パドストンに一礼した。


「やあ、君か。たしかフェイミンと言ったかな」


 パドストンが深みのある声で言った——彼は恰幅の良い英国人で、背も非常に高い。私は彼をちらりと盗み見ると「そうでございます」と言ってもう一度頭を下げた。そこに楊阿姨が香ばしい匂いとともにやって来て、切り分けられた鶏肉の香草焼きの皿を置いてさっさと出ていった。その間彼女は二人の英国人をちらりと見て軽く会釈をしただけだ。


「……相変わらずぶしつけなメイドだな。もう少ししっかり教育したらどうだ」


 楊阿姨が出ていくなりパドストンは聞こえよがしに声を張り上げる。その間私はワインをグラスに注ぎ、氷のバケツに戻してから顔色ひとつ変えずに部屋の隅に引っ込んだ。これしきの小言に反応しているようでは西洋人の使用人は務まらないのだ。


「ぶしつけな料理人ならうちイギリスにもいるでしょう。彼女は愛想は悪くてもしっかり働いてくれますし、何より父の代からいる古株なのです。今さら無下にもできませんよ」


 サー・モリソンはパドストンをなだめるように言って、テーブルの反対側に座った。それでもパドストンは不服らしく、サー・モリソンの方に乗り出して声を上げる。


「レイフ、私は我々の行い全てが帝国の面子に関わるから言っているのだよ。どんなに些細なことでも我々が譲歩してはならんと、ここに来た日からずっと言っているだろう? 実際エドワードは……」


「はいはい、分かりましたよ、エリック叔父さん。それで、話と言うのは何なんです?」


 サー・モリソンはにこやかに話を遮ると、ワイングラスを持ち上げて乾杯を促した。パドストンも渋々ながらそれに応じてグラスを持ち上げる。二人はワインを一口飲んでグラスを置くと(彼らは乾杯をするのに酒を一度に飲んでしまわない――西洋ではそれが礼儀のようだが、やはり何度見ても慣れないものがある)、まずパドストンが声をひそめて言った。


「レイフ。風のうわさで聞いたのだがね、君はまだクリスティンの件について調べているのかね?」


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