第二章

一話 張慧明、謝霊の助手に駆り出されること

 謝霊シエリンの事務所を訪れた翌日の朝。

 私は酷い寒気と頭痛をこらえながら地下の倉庫でじっと立ちすくんでいた。手には箒を持ち、掃除をしている風を装ってはいたが、具合が悪すぎてとても働けたものではない。結局箒にすがってぼんやりするだけになってしまった私の視界を、ふと白いものが横切っていった。

 首を巡らせると、棚の間からちらりと猫が顔を出した。真っ白い毛皮にやたらと長い肢体、そして老犬のように垂らした舌——その正体に合点が行った瞬間、白猫は棚の間に姿を消した。私は箒を放り出すと、そのあとをふらふらと追いかけた。


「待て、七白チーバイ……」


 角を曲がれば七白が長い尻尾を揺らして、まるで私を待っているかのように立っている。七白は私が追いついたことを確かめるなり倉庫の奥——私たち住み込みの使用人の寝床がある場所だ——に向かってぱっと走り出した。


「こら、七白!」


 はずみで大声を出してしまい、私は頭の中でわんわん響く自分の声に耐えるというなんとも間抜けなことになってしまった。私は右に左によろめきながらどうにか七白に追いつき、彼が私のとこに飛び乗ったところを倒れるように確保した。

 私は床に上体を預け、伸ばした両手で七白を押さえつけた体勢のまましばらく動くことができなかった。地下倉庫をひっくり返すような大捕物をしたわけでもないのに身体が疲れて仕方がない。ぜいぜい喘ぎながら休んでいる私を七白はじっと見ていたが、ふと思い立ったように私の手の甲をひと舐めした。


「う……やめろ、七白……」


 七白は私の言葉を理解したのか、手の甲が舐められることはそれきりなかった。

 代わりに七白は私の手をすり抜け、私の額に鼻面を押し付けてきた。私は顔も上げずに七白を追い払おうとした。特に気に入られることをした覚えもないのに、なぜか七白は私に懐いているらしい。

 それにしても、一体なぜこんなところに七白がいるのか。この猫がどうやって地下倉庫に入り込んだのかが気になって、私は痛む頭を持ち上げた。ところが、私が何か言う前に「慧明フェイミン!」と呼ぶ声がして、七白は弾かれたようにどこかに消えてしまった。


「慧明! さっさと登っておいで、あんたにお客さんだよ!」


「すぐ行くよ、楊阿姨ヤンおばさん


 楊阿姨こと楊紫香ヤンズーシャンは中年の漢人女性で、モリソン家の使用人の筆頭格だ。私たち使用人の日々の仕事から客人に出す茶の用意、サー・モリソンの食事の支度まで全てを完璧にこなす使用人の鑑のような人だが、同時に西洋人の家での立ち居振る舞いにはすこぶる厳しい。そんな彼女のことだ、倉庫に猫がいると知ったら全ての棚をひっくり返してでも追い出そうとするだろう。私は七白の消えた方をちらりと見ると、また右に左によろめきながら一階へと向かった。



 楊紫香に言われてエントランスに向かうと、サー・モリソンが背の高い漢人の男と話しているのが見えた。私はその男を見るや、別の疲労に襲われて卒倒しそうになった——昨日あったことを一晩やそこらで忘れるわけがない。濃い紅の旗袍に丸眼鏡、長い黒髪は三つ編みにして垂らし、愛想よく笑う姿はまさしく「招魂しょうこん探偵」謝霊シエリンその人だ。

 謝霊は私がふらつきながら立っているのに気づくと、ニコニコ笑いながらこちらに向かって歩いてきた。


「どうも、張先生」


「どうも……」


 私は叫びたいのを必死でこらえた。「幽鬼を見て寝込んだ」というのが今まさに自分の身に起こっているというのに、その原因の一片たるこの男はどうしてこうも呑気に微笑んでいるのだ?

 私は謝霊から目を移してサー・モリソンをちらりと伺った。すると、あとからやって来た彼に向かって謝霊は


「では、張兄はしばらくお借りしますよ」


 と言い放ったではないか。

 私は面食らい、助けを求めてサー・モリソンを見た。しかし彼も異論がないようで、躊躇うことなく頷くと私の肩をぽんと叩いた。


「ああ。よろしく頼んだぞ」


 サー・モリソンはそれだけ言って、上階のオフィスへと消えていった。残された私は呆然とその場に立ち尽くした。


「行きますぞ、張先生。警察に行って、彼らの調査と昨日の話とをすり合わせなければ」


 謝霊はそう言うと、私の腕を掴んで上海の街へと繰り出した。こうして私は、主人の許可のもと晴れて謝霊の助手として扱われることになったのである。

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