第3話

 教室に入ると、どこか異様な空気が漂っていた。何かがあったらしいと思いながらも自分の席に戻り、体操服から制服へと着替える。少し皺になったシャツの袖に腕を通しながら、慎重に教室の中に視線を巡らせると、坂田さんが体操服姿で机を見つめながら、ぼうとしているのに気が付いた。まさか制服が引き裂かれているのではという考えに戦慄していると、どうやらそうではないらしい。坂田さんの制服の上には、一枚の紙。それを離れたところから見つめる、多方向からの視線。坂田さんは一度ぴくりと手を震わせ、一枚のメモ帳と制服を掴んで教室を出ていった。

 曰く、あの紙は、坂田さんがずっと制服の胸ポケットに大事に入れていたものだったらしい。誰にも知られずに、密かに、慎重に。そこに書かれていたのは、坂田さんの片想いの相手である鏑木くんの名前だった。その紙を誰にも見られずに持ち続けていれば、両想いになることができるというおまじない。坂田さんのその願いは、不躾な誰かによって暴かれた。その紙片が晒されたのは偶然だったのかもしれない。誰かがわざわざ坂田さんのポケットを探るのはあまり考えられない。女子の大半は坂田さんが鏑木くんに恋をしていることを知っていたし、誰もがこっそりと見守っていたはずだ。動揺した坂田さんの姿を見て、恋を知る女子の目つきは鋭かった。こんなことをしたのは誰だ、と、判明していない犯人に宣戦布告をするように。

 

 授業中、坂田さんは一度くるりとシャーペンを回しただけで、机に伏せるでもなく、いつも通りに日本の歴史を教師と共に辿っていた。ひとつ違ったのは、胸ポケットにもうあの紙は入っていないことだ。女子トイレのゴミ箱のなかに、細かく細かく千切られたおまじないの欠片が散らされていた。おまじないの破棄とともに、鏑木くんへの恋心も捨ててしまっただろうか。思春期の私たちにとっての動揺は、無意識に生涯の小さな傷になって残りやすい。坂田さんがこの先、恋と羞恥を結び付けてしまわないことを願った。そして、もし私が、三上への恋を乱暴に扱われたらと思い、寒気がした。他人は気軽に手を伸ばしてくるけれど、恋心はそんな風に触れて良いものではない。大事に大事に抱えているものならば猶更、触れて良いわけがないのだ。だというのに。


「ごめん」

 そう聞こえてきたのは、放課後の廊下だった。坂田さんと向き合って足元を見つめているのは、同じクラスの永倉くんだ。

「授業の途中で水飲みに行って、ちょっとサボろうかと思って教室入った時に…お前の制服落として。それで…」

「気にしてないよ。あれ、友達に書かれたやつだし」

 そう答える坂田さんの声は震えていて、それでも許されたことに顔を上げた永倉くんが見たのは、坂田さんの隠しきれない失望した目だったように思う。そして、痛々しいくらいに不自然に引き上げられていた唇も。坂田さんと永倉くんは仲が良くて、毎日何かしら会話をしていたのだ。もしかしたら永倉くんは坂田さんのことが好きで、興味本位であの紙を開いたのかもしれない。元に戻すことをせず、開いたまま制服の上に置いたのは、どんな気持ちを抱いたからなのだろう。ただの無神経だったのだろうか。理由は何であったにせよ、一つ(もしくは二つ)の恋心がひび割れた音がしたような、一日だった。私はそれを傍観し、恐る恐る再び自分と三上を当てはめてみては小さく身震いした。他人が介入した恋の結末は、往々にして悲惨だ。


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