第2話

「おつかれさま」

 私に気が付いた三上が顔を上げる。真ん中で分けられた前髪が、軽やかに目にかかった。三上はそれを、少しも気にしない。

「ありがとう。三上、今日も学校サボったの?」

「ただ休んだだけだよ。それで、今日はここで勉強してた」

 白い指先が、テーブルの上の教科書をとん、と叩く。三上の気配が染み込んだ教科書。みんな同じ教材を持っているのに、なぜこの教科書というものは、所持者を感じさせるのだろう。

「それをサボったって言うんだよ。誰も来なかった?」

「多分、特に誰も」

 たまに不良がうろつくよね、と華奢な椅子に背を預けた三上が笑う。その声が、耳たぶの下のあたりをぎゅっとさせる。

「そのうちボコボコにされたりしたらどうしよう」

「やめてよ!」

 金属バットやパイプをイメージしているのであろう。振り下ろす動作を繰り返した三上を軽くつきとばす素振りをして、硝子の壁にもたれかかる。不良たちが来て、戯れに三上に暴力を振るう。抗いもせず、血を流し、砂で汚れ、横たわる三上。きっと三上はそんなときも、目にかかった前髪を気にしないだろう。不良たちが去った後も、私が来るまでそのまま呼吸をしていそうだ。想像して、首を左右に振る代わりに視線を横に逸らす。多分、不良たちは三上に勝てない。

「赤坂、受験勉強は?」

「一応やってる。でも多分推薦とれるよ」

「そっかあ。さすがだね」

 頬杖をつき、微笑む。歪むことなく弧を描く薄い唇から目を逸らし、三上の肘の下にあるノートの文字を見た。特別に綺麗なわけではないけれど、読みやすい、繊細な文字。三上を体現しているかのような文字。昔より、一文字一文字の大きさは小さくなったように思う。

「三上だってちゃんと学校行ってたら推薦余裕なくせに」

「うん。でもほら、ちゃんと一般受けるし」

「そうだよ。同じ学校行くんでしょ」

 言いながら、身震いするほど嬉しかった。三上が受からないわけがない。私だって、三上と同じ高校に行くために、校則違反もしなければ、定期テストも手を抜いてこなかったのだ。三上がそのうち、もっと偏差値の高い学校に変えると言い出すのではないかとびくびくしながら。その心配は的中することなく、三上はずっと志望校を変えない。ここから少し遠い、あまり同じ中学から進学する生徒のいない私立高。本当にそんな決め方でいいのかと聞きたくなるくらい、軽率に決めた志望校だ。それでも私はその疑問を口に出さない。その一言で、三上の気持ちが変わってしまったら困る。

 

 小学生の頃から、私と三上は中学よりも高校に興味があった。小学生からしてみれば中学生もひどく大人びて見えるけれど、高校生はもっと輝いた大人だったのだ。大学は遠すぎる未来だった。既に二人だけのこの基地を手に入れていた私たちは、古紙回収の日に出されていた高校の資料本を見つけて目を輝かせた。自分たちが行くことになるかもしれない高校がここに載っているのだと、重たい本を持ち込み、心を躍らせながら一ページずつしっかりと見ていった。

「赤坂、どんなところがいい?」

「…プールがないところ」

 私は、泳ぎが苦手だった。それに、まだ思春期に入りかけだったけれど、それでも水に濡れてびしゃびしゃになった姿を見られるのは嫌だった。それは今でも変わらない。

「僕は…あんまり騒がしくないところがいいなあ」

「それだと頭のいい高校かな?」

 頭のいい高校生はバカ騒ぎをしないという単なるイメージでそう口にすると、三上はきょとんとしてから「そうだね」と笑った。

 この制服が可愛い、かっこいい。校舎が綺麗。部活はこんなものがあって、修学旅行の行先はここで。ひとつひとつ見ていくうちに、やがて疲れて息を吐いた。続きはまた今度、と本を閉じ、テーブルに置いたままにする。二人で何日もかけて読みこんで、結局偏差値の高い(基準はなんとなく知っていた)、私立高を二人で指さした。家に帰って母親に興奮しながらそう伝えると、驚きながらも頷いてくれたのを覚えている。

「どこを受けてもいいけど、まずは中学校で頑張らなきゃね。それで、また中学生になって色々やって、そうしたら三上くんとそこの高校の見学にでも行ってくるといいよ」

 母は暗に、決めるのはまだ早いと言いたかったのだろう。けれどその時私は、三上と高校の見学に行くという言葉しか聞こえておらず、もうその光景で胸がいっぱいだった。楽しいことがたくさんたくさん待っている。その様子を見て取った母は、困ったように、でもどこか嬉しそうに笑っていた。

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