硝子の基地

加賀綾乃

第1話

 曇り空の帰り道、鼠色の制服のポケットに手を突っ込みながら。

 持久走の授業で、冷たい空気に肺を刺されながら。

 教師の声を聴きながら。

 三上のことを考えるのは楽しかった。

 三上の髪の毛の一本一本や、思春期の男子とは思えないほど滑らかな肌や、長い睫毛を想うたび、自然に頬が緩んだ。教室の中の誰も知らない、私の秘密の三上。

 

 同じクラスの坂田さんが三組の鏑木くんを好きだという話を聞くときも、私は三上を頭に浮かべている。修学旅行での恋バナで、好きな相手は誰なのか教えてくれとどつき回されながら、私は三上を隠す。あの、完成されたような美しいかんばせを、他の誰にも認識されたくなかった。だってそうしたら、きっとみんな三上を好きになる。憧れて、みんな揃って騒いでしまう。迂闊に告白なんてされてしまった日には、自分の内臓が焼かれようとも口から火を噴いてしまうかもしれない。あの子の好きな子だけれど、私も好きなのだなどと勝手に真剣になって勝手に出し抜こうとして勝手にヒロインを気取る女の子だって出てくるかもしれない。そんなことになっても、私はやっぱりゴジラのように火を噴こうとする。

 それになにより、私の三上への恋心を、思春期の戯れとして消費したくなかったし、されたくもなかった。


 幼い頃からロマンティックな童話には興味を持たなかった。絢爛なお城も、繊細なドレスを纏ったダンスパーティーも、白馬に乗った王子様も。そんな王子様が手の甲にそっと落としてくれる口づけも。物心がついて、物語のその先を考えられるようになってからは猶更その煌びやかな物語を遠ざけた。彼女たちの幸福の絶頂は終わり、その先に待っている生活を、埃塗れの家具のようにしか思えずに。おとぎ話の見えない未来を、おとぎ話のまま続けられなくなってから。

 王子に興味がないからといって、恋に興味がないわけではなかった。城の外の民衆だって、恋はするのだ。幼稚園では一番仲の良かったこうきくんが好きだったし、誰が異性に人気があるのかという話ばかりしていたものだ。こうきくんが好きだったのは、生まれて初めてできた男の子の友達だったからだし、小学生になってからは女の子たちときゃあきゃあとはしゃぐのが楽しかっただけで、恋ではなかったのだと今では分かる。しかし、私だってまだ中学生なのだ。恋を知る年ごろであっても、そのなんたるかを熟知するに至る経験も知識ももっていない。けれど、三上への想いがこうきくんへ抱いていたものと違うのは、明確に理解している。

 彼を見ると心臓が急に硬くなる。血液を押し出す動作がぎこちなくなって、バグを起こしたかのように鼓動が乱れるのだ。手は震え、貧血を疑いたくなるような血の巡り方をする。それと同時に、内臓のひとつひとつが歓声を上げるのが聞こえるようだった。自分の体内で花火でも打ちあがるのではないかと思ったことなど、三上と話し、三上を想うこと以外であっただろうか。

 三上はまるで、自然のようだ。

 王子や、王様や、騎士、狩人。人間のどの役にも当てはまらない、滑らかな存在が三上という男だ。穏やかな声を聴くと頭を撫でられているようだし(実際に撫でられたことはないけれど)、笑えば葉の匂いを孕んだ風が吹くようだ。指先は静寂な水面で、瞳は汚れのない、澄んだ空気をたっぷりと纏っている。

 どれだけ考えても三上への熱は冷めず、無論他の男子に興味をもつことはない。三上以外と付き合うなど、考えられない。私の相手は、三上でなくてはならない。そうでなければ、有り得ない。

 

 終礼を終え、部活の準備を始める級友たちの間をすり抜けるようにして教室を出る。一段一段が狭い、埃と砂の匂いのする下駄箱からスニーカーを掴んで、上履きと入れ替えに地面へ落とす。早く早く、と飛び跳ねている心臓に同調するように、走るような、跳ねるような動きで校舎から飛び出した。

 水曜日の放課後は、三上に会える。

 野球部がじゃれ合いながら倉庫に向かうのを背後に、小走りになる。しかしすぐに息が切れて、前髪を指先で直しながら歩調を緩めた。汗だくで会うなんて、とんでもない。でも家に帰って着替える時間は勿体ない。いつも通りであれば、三上はそこにいてくれる。

 道を曲がり、細い裏道へと入り込む。この道は、秘密の探検隊の、ひみつの通路のようだ。錆びきったタイヤのホイールがあり、何だったのかよく分からない、同じく錆びて崩れかけた棒がある。そして、この先には立ち入れないのだと示唆するように土と埃のこびりついたドラム缶が二つ、道を塞いでいる。それを僅かに退かし、そっとすり抜けた。このドラム缶は、もともと左右に避けて置いてあったものだ。この先にある、私と三上の場所を誰にも侵されたくないという、私のバリケード。

 制服を掃いながら、目の前の硝子をコツコツと叩く。顔を上げた三上は、薄く微笑んで私を見た。吸っていたはずの息をさらに短く吸い込むと、心臓がじゅわりと痛む。

 硝子の檻のような、人が二人入れば狭いと感じる広さの空間。

 誰かが放棄したこの空間を、三上と私はいつの日かするりと奪った。同じく打ち捨てられていた小さなアイアンテーブルに、同じような椅子。きっと誰かのパーソナルスペースだったのだろう。水曜日になるたびに、粗大ゴミ回収の費用を惜しんだが故にここに捨て置いたのかもしれない誰かに、私は心の底から感謝をしている。


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