「ん、君か。思っていたよりも遅かったね。」


 湯船に浸かっていたのはなんと友人だった。


「『なんでお前が女湯に浸かっているんだ。』って顔をしているよ。

 そんなことよりも早くその股にぶら下げている汚いものを隠したまえ」


 どうやら友人は私が女湯を覗く痴態を見物しようと特等席女湯で待っていたようだ。


「余計なお世話じゃ。男同士で何を喚く」


 この寒空の下、お前の願い事のために鼻水を垂らしながら頑張っていたというのに貴様はホクホク湯に浸かってそんなことを言うとは一体何様か。

 柵を乗り越えると私はざぶんと湯に浸かった。


 乳白色のにごった湯は浸かると体が見えなくなるほどであった。

 恐ろしく冷え切った私の体を温泉の湯が優しく包み込んでくれる。

 私は思わず老人のようにため息をついてしまう。


「全く…、君はつくづく馬鹿だね。

 まあ、いい。とりあえず飲み給え」


 友人は顔を赤くしていた。見ると友人の近くには風呂桶が浮いており、その中には徳利とお猪口が入っていた。

 どうやら私が来るまで酒盛りをしていたらしい。つくづく嫌な奴である。

 私は風呂桶に入ったお猪口を拾うと酒を一口いただいた。


「なんだこれ、麦酒じゃないか。こういうのは普通日本酒じゃないのか?」


「生憎日本酒は辛くて好きじゃないんだよ。それに温泉の中で麦酒を飲むのも中々味があるだろう。」


「いや、普通麦酒と言ったら風呂上がりに飲むのが美味いと思うのだが。」


「まあいいだろう。これは私の酒なのだから。

 文句を言うなら飲まなければいい。」


 そういうと友人は私の酒を奪い取って一気に飲み干す。

 と言ってもお猪口なので量はそれほどである。


「全く、人がこの寒空で命の危機を感じながらやっと女湯を覗きにきたというのにそっちは酒盛りをしてるんだもの。少しは労いの言葉でもあっていいんじゃないか。」


「だからこうして君が来るまでこの温泉の中で健気に待っていたんじゃないか。折角のご褒美も君は気に入ってくれなかったみたいだし。」


 そのご褒美は貴様が飲んでいるじゃないか。


「それは君が遅かったからさ。麦酒はキンキンに冷えてるうちに飲むのがうまいだろう?君を待っていたら麦酒本来の美味しさがなくなってしまうと思ったのさ。」


 ああ言えばこう言う。なんとも詭弁がうまい奴である。

 私は呆れ返って大きなため息を吐いた。


「そもそもお前はどうやってこっちに忍び込んだんだ。それになんで俺に女湯を覗かせたんだ。」


「女湯には正々堂々真正面から入ったよ。僕は君みたいにむさ苦しいじゃないから女将さんに見つかっても別段問題はないんだ。そしてなんでこんなことを頼んだのかって?」


 そういうと友人はニヤリと笑った。その顔は私に頼み事をした時の悪魔が新しい獲物おもちゃを見つけた時のような顔であった。


「君がヒイヒイ言いながら女湯を覗くのが面白そうと思ったからだよ。」


 絶交だ。こんな奴といると残りの大学生活も碌なものではない。


「まあまあ、僕は面白いものが見れたし君は少しは助平な体験ができたんだからいいだろう?それにほら、雪も降ってきた。雪を見ながらの温泉なぞ格別じゃないか。」


 天を仰ぐと先ほどまでは降っていなかった雪がシンシンと降り始めてきたところだった。どうりで寒いと思ったわけである。


「お前の裸なぞ興味はない。男湯に戻る。」


「興味無いとかそんなこと言うなよ。あ、男湯に戻るならそこの扉を使うといい。さっき試しに触ってみたが鍵はかかっていないようだから。」


 見ると男湯には無かったドアが壁にはあった。どうやら板目をうまく利用してドアを隠していたのだろう。

 湯から上がると冷たい風が私の体を襲った。

 私は少し小走り気味に男湯へと戻るのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る