第10章 エルザとトリスタン--聖女と「恩寵」
イゾルデを修道院の僧坊に送ったあと、トリスタンはエルザのもとへ向かった。メロートの血、ゼンタの告白で揺れる心を落ち着けたかった。
--信じていたものを捨てる。イゾルデには酷だろうが……俺たちは真実にたどり着かなければならない。人の命を握っているんだ。教皇猊下を悪魔王から救うんだ。
娼家の建ち並ぶ路地を通り、街娼たちの間をすり抜け、トリスタンはエルザの家に着いた。戸をたたくと、小柄で可憐なエルザが現われる。
「トリスタン様、ようこそ」
「エルザ」
トリスタンは、戸口で思わずエルザを抱きしめた。エルザは驚いたようだったが、やがて優しく彼の背中に腕を回した。
「どうなさったの、トリスタン様。あなたは何に苦しんでいらっしゃるの」
「向こうへ行こう、エルザ。俺の話を聞いてくれ。そして、俺の罪を赦してくれ」
エルザは黙って寝室に彼を案内する。トリスタンは、どさりとベッドに腰を下ろすと、ゆっくり隣に座ったエルザに向かって告白する。
「エルザ。俺は『地獄の子』なんだ。知っているだろう、その呪われたいわれを」
「ええ。百年に一度生まれる魔のひずみの子。バイロイトに不幸をもたらし、親を殺すと言われていますわ」
「そうだ。生まれたときの俺は白髪だった。額には、呪われた「しるし」もあった。俺は生まれてまもなく親に捨てられ……世界を放浪した。だが、この血を祓ってくれた恩人がいたんだ。俺は、その人を殺してしまった。その日もこんなに憂鬱な週末だった。だが魔を祓うその瞬間に、悪魔の魔力が最後のあがきを見せ……俺はその人を手にかけてしまった。祓ってもらうときに代償として右腕を失い、『地獄型』の力が発現し、三本目の腕が現われたが、その力で……俺はあの人の首を折ったんだ。生まれて初めて、俺を厭わず助けてくれた恩人を、その手で」
トリスタンは、じっと自分の義手を眺めた。
「三本目の腕は、教皇猊下の魔力でその力が増幅する。俺はバイロイト軍にスカウトされ、猊下の力を得て異端駆逐チームの一員になった。『法服の殺し屋』として、昼は法を司り、夜は異端の信者を殺める日々が続いた。だが、さっき俺と相棒イゾルデは、信じていたものを捨てた。俺たちの信仰は正統じゃなかった。異端の『ミリアム教』こそ、悪魔を祓ってくれる聖なる信仰だったんだ」
エルザは、そっとトリスタンの義手をなでた。その髪は亜麻色から金髪に変わり、赤い目は青に輝いた。
「トリスタン様。あなたは『地獄の子』。でも、あなたが持つのは魔のひずみだけではないのです。『地獄の子』は、魔と聖のひずみの子。あなたは悪魔にも聖者にも近しい存在なのです」
「その髪は……目は……」
「私は『ミリアム教』の聖女、『金髪のイゾルデ』の名を継承する者です」
「では……ゼンタは?」
「ゼンタは、私の影。私の身を表の世界で守ってくれる存在。私はゼンタに力を与え……彼女は『目』を失いました。ゼンタは偽りの聖女ですが、その「ミンネリート」の力で、『聖杯』へたどり着く鍵となるのです」
「エルザ……あんたが、聖女?」
トリスタンは思わずひざまずいた。
「この力……あんたの力は何型だ?」
「聖女の力は『恩寵型』。按手で癒しと赦しを与えます」
「では、代償は?」
「……『愛』です」
エルザはさびしそうに笑った。
「聖女は、何人(なんぴと)も等しく愛しますが、何人からも愛されないのです。そういう運命なのです。ゆえに、私は娼婦になりました。愛されない自分を、少しでも慰めるために」
「俺が愛する」
トリスタンは、エルザを抱きしめようと立ち上がったが、エルザは身を翻して拒絶する。
「いいえ、おやめになって。聖女は、誰かに恋をしたとしても、その人に不幸をもたらすだけなのです。そして、愛の言葉をかけることを赦されないのです」
「俺が……嫌いか?」
「……おやめになって」
エルザは、一筋の涙を流した。金髪の青い目をした聖女は、トリスタンの前ではあふれそうな想いを伝えられない宿命に涙する一人の女性だった。
「だって、おかしいじゃないか。あんたは誰をも等しく愛するのに、あんた自身は誰からも愛されることを赦されないなんて」
「……おやめになって」
エルザは、白い指で涙をぬぐうと、気丈に窓辺に立ってカーテンを開けた。朝日が差し込み、美しくエルザの金髪を輝かせる。
「朝ですわ。あなたは罪への悔悟故に癒され赦されました。そして、できるなら私のために祈ってくださいませ」
少し考えてから、エルザは言葉をかみしめるようにつぶやいた。
「いつか、私も誰かに赦されますようにと。聖女の輪廻から解放されますようにと」
そのとき、トリスタンは戦慄を感じた。
――魔の力が呼んでいる。増幅している。
「トリスタン様!」
エルザが蒼白な顔で窓から身を乗り出していた。
「魔のひずみが……あちこちで生まれていますわ!悪魔王メフィストの覚醒に違いありません!」
「教皇猊下が危ない!」
トリスタンはバイロイト軍駐屯地に戻る前に、エルザの手を取った。
「エルザ。俺は待っているよ。あんたがいつか宿命から逃れて、俺の愛に応えてくれるときまで。そして、一緒に逃げよう。誰にも見つからない世界の片隅で、俺と暮らそう。あんたを守るから、ずっと」
「ありがとう……」
エルザはトリスタンの優しさに、これまでそうした人間らしい想いに餓えてきたかのように涙で彼の深い慕情を吸収し、涙を流した。トリスタンは、そうしたエルザの髪を愛おしそうになでていた。
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