第9楽章 ゼンタとイゾルデ--信仰の異端と正統のはざまで
トリスタンの義手をクルヴェナールに直してもらった週末の夜、彼はイゾルデとともに「楽園」にいた。VIP席でビールを傾けながらイゾルデの方を見やると、彼は目をそっと閉じてゼンタの歌を聴いていた。ワイングラスもテーブルに置いたまま、イゾルデは宿命の血が騒ぐのを抑えられず、ときにうめいた。
トリスタンは、席の近くを通りかかった薄いドレス姿のキャストに声をかけ、ゼンタを呼んでもらった。彼女は歌いおえると従者に手をひかれてやってきた。従者は目の鋭い屈強な男で、トリスタンは油断なくこの男を監視していた。
ゼンタはシニョンにまとめた金髪をさっと整えてから、二人にお辞儀をしてから席に着いた。
「ゼンタと申します。こちらはメロート、手を引いてくれる従者です」
「ゼンタ」
イゾルデが、苦しそうに彼女の名を呼んだ。彼が女の名を呼ぶことなど滅多にないことである。慣れない口調で、イゾルデは語り出した。
「私はイゾルデ、こちらはトリスタンです。単刀直入に申します。あなたは、異端『ミリアム教』の聖女、そうですね?」
「……まさか」
ゼンタはくすりと笑った。
「そんなたいそうな身分ではありません。私は、単なる卑しい歌い女です」
「私たちはバイロイト駐屯軍の異端駆逐チームの一員です。あなたを異端の儀式で見かけた信者の話も報告されています。認めてはいかがですか」
「……ゼンタ様」
メロートが、盲目の歌姫を守るように、イゾルデと彼女の間に割って入った。トリスタンは素早くイゾルデの壁になった。そして、低い声で脅しの文句を吐いた。
「メロートとか言ったな。俺は『法服の殺し屋』だ。抵抗するなら、貴様を殺す」
「ゼンタ様、逃げましょう!」
ゼンタはさっと立ち上がり、ギターをメロートに預けてよろよろと歩き出した。難なくイゾルデが彼女の腕を捕らえて別室へ連れて行く。
「ゼンタ様!」
メロートが悲痛な叫びを上げて彼女を追おうとするが、一瞬早くトリスタンの義手が彼を押さえつけた。そして、ジャケットを脱ぐ。
「教皇の御名において、我が腕を解放する」
三本目の腕が、シャツのスリットから赤黒い筋肉を隆起させて現われる。VIP席は一般席と隔絶されていることもあり、誰も異変に気づかない。
「神と法の御名において執行する……去れ」
メロートの頸椎は鈍い音を立てて折れた。トリスタンは、素性を知っている「楽園」の主人に事情を告げ、例の羊皮紙をメロートの遺骸の上に置いて、イゾルデとゼンタを追った。
そのとき、イゾルデはゼンタの説得を試みていた。
「ゼンタ。あなたは、『金髪のイゾルデ』なのですか」
彼女はうつむいた。目を覆う黒い布に、涙がにじむように鈍く光る。
「もしそうなら……話していただけませんか。私は、あなたに強く惹かれる。司祭でありながらこのような感情を抱くのは許されないことですが、私はあなたを異端の手から救いたいのです」
「イゾルデ様。私が信仰しているものと、あなたの信じるものは違います。私たちは、そっと世界の片隅で神の子ミリアム様の救いを待っているだけなのです。どうして、あなた方は私たちを迫害なさるのですか」
そう言うゼンタの金髪が輝きを増した。そのとき、イゾルデの黒髪を束ねる赤い女物のリボンもまた輝いた。彼はリボンを解いて、しみじみと見つめた。
「このリボンは、私の母の形見です。母は……イズ-という名でした。ご存じですか」
「もしや……先代の聖女の」
「そうです。あなたの姉です。母はあなた方の信仰を捨てて逃げました。そして、父と出会い私が生まれました。私は幼い頃から、『金髪のイゾルデ』の伝説を子守歌代わりに聞いて育ったのです。『イゾルデ』は初代の聖女で神の子ミリアムの娘。代々力を継承し、金髪に青い目の『イゾルデ』の名を継承する聖女が無数に生まれて、信仰を一心に集めていると。だが……母は亡くなりました。魔のひずみにとらわれ、悪魔憑きとなって。悪魔を生んだのは『ミリアム教』なのです。異端のあなた方は、つつましく信仰を守っているのではない、魔を生み私の母を……殺した。私は、母の思い出にとらわれて生きています。ゆえに、母の子守歌の名『イゾルデ』と名乗っているのです」
「違います」
ゼンタは苦しそうに言った。
「魔を生んでいるのは、イゾルデ様、あなたの信仰の方です。ご存じですか。最大の魔力を持つ悪魔憑きの方を」
「いいえ」
ゼンタは意を決したように言った。
「教皇ハインリヒ二世です。あの方の父は悪魔王メフィスト。あの方は、悪魔の力を借りて魔力を高めていらっしゃる。バイロイトの魔のひずみも、私たちへの迫害も、みんな私たちの持つ聖遺物「ミリアムの聖杯」の力を恐れたメフィストがやっていることです」
「なんと……」
イゾルデは、自分の信じてきたものが崩れ落ちるかのような衝撃に襲われたが、なんとか踏みとどまった。
「『聖杯』は、母イズ-も子守歌の中で歌っていました。神の子ミリアムの血を受けた伝説の聖杯で、聖女の血を満たすことで地獄の悪魔王の力を祓うことができると」
「そうです。あなた方こそ、悪魔の力を借りて神の子の子孫を支配しようとする異端なのです」
イゾルデが苦悩のあまり頭を抑えてかがみ込んだところを、物陰から飛び出したトリスタンが支える。
「イゾルデ、大丈夫か」
「トリスタン……話は聞きましたか」
「……ああ」
「私たちの信じてきたものは、悪魔だったのですよ……私は、私は……」
「イゾルデ」
トリスタンは、相棒の肩を抱いた。
「この俺の三本目の手も、悪魔の魔力なんだ。俺は、『地獄型』の異能力を持っていると教皇猊下に告げられた。バイロイトで最近魔のひずみにより異能力が発現増幅しているらしい。その異能力には、何らかの代償が必要で……俺の場合、『右腕』なんだがな。ゼンタ、あんたは『目』か?」
「……ええ」
「あんたの異能力は、俺の三本目の腕が感じるところ『祓魔型』だな。今までの話だと、あんただけが、教皇猊下の悪魔憑きを祓うことができるんだな」
「……そうです」
「俺たちに力を貸してくれ。その代わり、俺は『法服の殺し屋』廃業だ。メロートは、最後の犠牲者になっちまったな……俺の罪がまた増えた。知らずに悪魔を祓う「真の正統」側を迫害していたんだからな」
「わかりました。力をお貸しします」
トリスタンは、ぐったりと力の入らないイゾルデを助け起こして、その場を去る前にゼンタに優しく語りかけた。
「ありがとう……いつか、俺の罪も祓ってくれ」
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