第8楽章 名職人クルヴェナール
エルザと出会った夜から、トリスタンの肩から重荷が下りた。エルザと彼は、枕を交わさずに別れたが、トリスタンは今までにない満足感を覚えていた。
――エルザ。
月曜日、特別機動隊のオフィスでデスクワークをこなしながら、トリスタンは心の中で彼女を呼んだ。
エルザは、他の娼婦と明らかに異なっていた。金を積んでも買えないなにものかを持っている娼婦。エルザの全てを知りたい。もはやトリスタンは、彼女に夢中になっていた。
――エルザの家で彼女と会うのではなく、自宅でいっしょに暮らそうか。
そんな考えが浮かぶと、彼は静かな笑みを浮かべていた。
エルザの亜麻色の長い髪。赤い大きな目。小柄だが豊満な体つき。次々にエルザの幻がトリスタンの目の前に浮かんでは消えていく。
――この気持ちは何だろう。不思議な感覚だ。もっと生きていたい、エルザといっしょに。
トリスタンがそう思ったとき、彼の義手からコーヒーカップが滑り落ちて割れた。
「トリスタン、そろそろ義手が傷んできたのではありませんか」
説教から帰ってきたイゾルデが、さっとカップの破片を集めて捨てながら言った。そう言われて彼は改めて自分の義手を見やった。
トリスタンの義手は、あるものの代償に失った右腕の代わりに取り付けられたものだ。作ったのは、かつて彼が世界を放浪していた際に出会った名職人クルヴェナールだった。義手は、腕の神経に作用し機械とは言え自由に動かせるようになっている。彼の好みで、黒い法服から見える腕は、機械の無骨さが見えるものだ。
「クルヴェナールのじいさんのところへ行くか」
「それなら、私も同行します。道中であなたと話したいこともありますし」
「では、今日は午後から有給をとって行きますかね、あのじいさんの工房はバイロイトの外れだからな。イゾルデ、午後は空いているか」
「私はかまいませんよ。車を私が出しましょう」
「よし、決まった」
二人はうなずき合うと、お互いの仕事に戻った。
トリスタンはクルヴェナール好みの「扇情的な写真集」を探しに、イゾルデは、愛車のエネルギーを充填しに出かけたのだった。
イゾルデの愛車でクルヴェナールの工房へ向かう道中、二人は黙っていたが、イゾルデがハンドルを切りながら話し出した。
「ゼンタを覚えていますか」
「『楽園』の歌姫だな。その後何かあったのか。気にしていたよな」
「……彼女が、『ミリアム教』の聖女かもしれません。聖女は、『金髪のイゾルデ』と呼ばれている、盲目の女性だそうです」
「金髪のイゾルデ?」
トリスタンは興味深そうに後部座席から体を乗り出した。
「あんたの名前といっしょじゃないか。何かあるのか」
「……まあ、いろいろありますよ。人には話したくないことも、宿命にもだえることもあるものです。その罪に苛まれるとき、赦されたいと願うときのために、司祭がいるのですよ」
「あんたも、赦されたいと思うときがあるのか」
「それはありますよ。そんなときには、猫を抱いて紅茶を淹れて落ち着こうとします」
「それでも落ち着かなかったら?」
イゾルデはふっと笑った。
「そのときは、今の私ならゼンタの歌を聴きたいものです」
「異端に関わるのか、従軍司祭が」
「ゼンタを異端から脱退させたいと思っています。そのためには、VIP待遇で『楽園』に向かうことのできるあなたの助けを借りたい。助けてくれますか」
「いいぜ。俺にも、運命の出会いがあったからな」
「ブランゲーネと何かあったのですか」
「あれは、もう、俺を……赦さないだろう。だが、そんな俺を救ってくれた女がいたんだ。不思議な娘だよ。あの子といると、憂悶を忘れる」
「娘の名は」
「エルザ」
イゾルデの横顔が引きつるところを、トリスタンは見逃さなかった。
「どうした」
「いえ……私の行方不明の叔母と同じ名前だと思いまして」
「叔母?」
「ええ。母の妹です。年が離れた姉妹です。叔母と言っても、姪に近い年頃だと思います。会ったことはありませんが」
二人は沈黙した。トリスタンとイゾルデの間の深い絆が、お互いの宿命と過去に揺さぶられるような気がした。
「おお、トリスタン。しばらくぶりじゃな」
痩せ型で禿頭の職人が、工房に入ってきた二人を見て声を上げた。
「クール、久しぶりだな。今日は義手を直してほしい」
トリスタンは、クルヴェナールのことを「クール」という愛称で呼んでいる。クルヴェナールは、ハンマーと釘を木の机の下に整頓して置くと、トリスタンの差し出した義手をなでた。
「うむ、これはそろそろ修理時じゃな。置いていけ、明日には仕上がる」
「助かる」
トリスタンは、くるくると丸めておいてあったクルヴェナールの革の前掛けに、所望の扇情的な本を数冊包んで置き直した。クルヴェナールは満足げに笑った。
「久しぶりのご婦人方との逢い引きじゃな。イゾルデ、おまえよくこの土産を許したな」
「仕方ありません。教皇猊下も認めておられることですし、私がとやかく言うことではありませんしね」
そうは言いつつも、イゾルデは顔をしかめている。クルヴェナールとトリスタンは女の趣味で意気投合して、工房で語り始めた。その様子を片目で見ながら、イゾルデはトリスタンと歩いてきた道に迷い込んできた天使、エルザとゼンタのことと4人の未来に思いをはせていた。
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