第7楽章 痴話喧嘩--エルザとの出会い
次の週末、ブランゲーネは、トリスタンと会うため身支度をしていた。なめらかな褐色の肌を輝かせるマットな質感のパウダーを一塗り顔に乗せて、赤いルージュを塗り、鏡の前でにこりと笑ってみせる。愛するトリスタンの少し影のある整った顔を思い出し、彼女は自然と胸が高鳴った。
いつかは彼の心が欲しい。私だけを見て欲しい。
夜の街に生きる女らしからぬ純情さを秘めたブランゲーネは、トリスタンの来訪を告げる控え室のドアのノックの音で我に返った。
「はい」
「ブランゲーネ、トリスタン様だよ」
「愛の家」の女将がしわがれた声で、ドアの向こうからささやく。はじけそうな胸に手をやり、ブランゲーネはドアを開ける。
トリスタンが、倒れ込むように入ってきた。ひどく酒臭い。ブランゲーネはトリスタンに薄い夜着をはおった肩を貸し、ベッドへ行く手助けをする。
「トリスタン、大丈夫?」
布団の上に倒れ込んだトリスタンは、片手にビールの空き瓶を持ってケラケラと笑い始めた。
「なんだ、ブランゲーネ。酔っ払いを見る目だな。俺はまだ飲めるぞ。もう一瓶ビールを持ってこい」
「あなた、ひどく酔っているのね。今夜はここで休むといいわ」
「酔っていないと言っているだろうが」
「はいはい」
「なんだ、その返事は!」
黄金色の液体ですっかり意識が混濁しているトリスタンは、いつも従順なブランゲーネの呆れたような返事にすっかり逆上し、冷たい義手を使って彼女の頬をたたいた。
一瞬、ブランゲーネは何が起きたかわからなかった。やがて、頬を打たれた物理的な痛みよりも、トリスタンへの恩と愛から粗略な扱いに耐えてきた彼女の心は、苦痛の限界を超えて爆発した。
「いい加減にして、トリスタン!私がこんなにあなたのことを想っているのに……あなたは、あなたは……」
ブランゲーネは肩をふるわせ、ぐっと涙を抑えながらトリスタンをぐいと引っ張った。そして、どこからそんな力が出たのか、酔っ払っているトリスタンを立たせて引きずるように入り口に連れて行くと、涙を流してドアの向こうに追いやった。
「もう知らないわ!」
閉められたドアの向こうで、トリスタンは呆然としていた。いつもおとなしいブランゲーネに、自分を拒絶する強さがあるとは思っていなかったのだ。
憂鬱な週末。運命が自分を翻弄し、愚弄し、苦しめる長い夜には、ブランゲーネとの睦言が一番の薬だった。だが、もはや彼女はトリスタンを部屋に入れようとはしない。
彼は、一気に酔いが覚めた。汗をかいた体に、ひんやりとシャツがまとわりつく。ビール瓶を持った腕は震え、ブランゲーネを辱めた義手は固まったかのように動かない。
――ブランゲーネに、ひどいことをしてしまった。もうあれは俺を赦さないだろう。
暗い過去、かつて自分が殺めたある人間の赦しを求め続けるトリスタンの肩に、また一つ罪の重荷が覆い被さった。いつも暗澹たる週末が、今日はいっそう身に染みた。
ルーティンを大事にしており、それにより心の平穏を求めるトリスタンは、独り寝の自宅に帰る気はまったくなかった。仕方なく、彼は「愛の家」を出て、娼婦の立つ路地を歩き始めた。適当に女を見つけて共寝をして、いつもの習慣通りの夜を過ごすつもりだった。
「ありがとうございます。心が軽くなりました」
みじめなトリスタンの耳に、晴れやかなささやき声が漏れ聞こえた。
「赦してくださってありがとうございます」
――赦す?何が赦されるのか?
トリスタンは聞き耳を立てる。そこは、ある娼婦がつつましく暮らす小さな貧しい部屋だった。
「私が赦したのではありません。愛が、あなたを赦したのです。あなたは多く愛したが故に」
小さく愛らしい声が、ゆったりと罪人を癒すように語りかける。トリスタンは、まるで見知らぬ娼婦に罪を洗い流されたかのようなすがすがしさを味わった。
--週末の俺をこんなに爽やかな気分にさせてくれる女がいた。誰だ?
彼女に会ってみたい。トリスタンは、娼婦の部屋から客が去るのを待ち、見送る亜麻色の髪の娼婦が部屋に帰ろうとするのをとどめた。
「なあ、お姉ちゃん。俺と一緒に過ごさないか?」
赤い目の小柄な娼婦は、ゆっくりと背の高いトリスタンを見上げた。その鷹揚な仕草には、彼が今まで会った女たちとは明らかに異質な気品があった。
「よろしいですわ。私、エルザと申します」
「俺はトリスタン。さっき『愛の家』から追い出されちまってな……。今夜一晩泊めてくれないか?金は倍以上払おう」
「お代以上の金額は結構です。お金は大事にしまっておいてください」
エルザはトリスタンを室内に案内する。ブランゲーネ以外の娼婦と週末を過ごしたことのないトリスタンは、物珍しそうについていった。
部屋は、「愛の家」のようにどぎつく扇情的な欲望をかき立てるような造りではなく、可憐な少女が手入れを欠かさず大切に住んでいるような、こざっぱりとした小さな部屋だった。
「トリスタン様。まずは酔い覚ましのレモン水を用意いたしますわ」
棚からレモンと冷水、砂糖を取り出し、エルザは清潔なキッチンで手際よくレモン水を作ってトリスタンに渡した。これまで酔ったままベッドに案内されていた彼は、この気遣いに驚きながらもグラスを飲み干した。さっぱりと爽快なレモンの後味が快かった。
「エルザ。あんた、他の娼婦とは違うな」
「そうかしら?自分ではよくわかりませんわ」
エルザは目を伏せてゆっくりとつぶやく。いつもは情欲のままに行動し、女を組み伏せるトリスタンも、エルザの前ではそのような気持ちは一切起きなかった。ただ、彼女の隣で座っていたかった。
「もう眠ります?」
「そうだな……。代は二倍払うから、俺を抱きしめて眠ってくれないか。俺もさっきの客のように、赦されたい。ある人間を殺めたことがあってな。その過去が俺を死神のように追い詰めるんだ。俺は怖い、死神から赦しを求めたい。エルザ……あんたなら、俺の心を穏やかにしてくれる」
「ええ。でも二倍ものお金はいりませんわ。あなたは、赦される。多く愛する者はその愛故に赦していただけるのです」
「過去から?あんたの不思議な癒しの力で?」
「罪を赦すのは他の誰でもない、犯した本人の悔い改めですわ。大丈夫、あなたは生きていていいのです」
エルザは、柔らかい胸にトリスタンを抱き、そっと明かりを消した。いつの間にか、トリスタンの目から温かい涙が一筋こぼれていた。
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