第2楽章 酒場「楽園」にて--ゼンタとの出会い--

 数時間後、黒い法服を脱いで深い茶色のジャケット姿になったトリスタンは、相棒イゾルデの待つ酒場「楽園」にいた。英雄都市バイロイト最大の歓楽街にあるこの酒場は、常連だけが通される娼家「愛の家」が経営する表向きの店であり、酒と女をこよなく愛するトリスタンは、毎夜刹那の悦びに溺れていた。

 トリスタンは、バイロイトに駐屯し、国家の正規軍であるバイロイト軍に従軍する裁判官で、階級は大尉である。普段は軍法会議で判事をつとめ、赤い月の夜には黒い法服を身にまとい、「法服の殺し屋」として、教皇ハインリヒ二世の名において、近年バイロイトに蔓延する異端の「邪教」ミリアム教の信者を始末している。その裁判官らしからぬ破天荒さは、青色に染めた短髪、耳を飾るいくつもの大きなピアス、ヘーゼルグリーンの目から感情を読み取らせないためにかけている黒いサングラスに、派手な刺繍の施されたジャケットを羽織って愛用の葉巻を手放さない言動に表れていた。

 「遅いですよ、トリスタン」

 店の奥で、入り口に向かって背を向けたイゾルデは、周りから隔絶されたVIP席でソファに腰を沈めてゆっくりとワイングラスを傾けていた。トリスタンは、女嫌いのイゾルデがひとり美酒をたしなんでいる様を見て、彼らしいと口角を上げた。

 「悪い、イゾルデ。女をナンパしてたら遅くなった」

 「あなたらしいですね。人を待たせてお楽しみですか」

 「そう言うなよ。仕事終わりには女の香りがいいのさ」

 トリスタンはおどけながら、美しいキャストが運んできたビールグラスを手にした。彼は常連のVIPで、店に到着するとすぐに愛するビールが運ばれる特別待遇を受けている。

 「乾杯だ」

 「またビールですか」

 「当然だ。ビールはサラダだからな。ビールは大麦とホップからできている、麦とホップは植物、ゆえにビールはサラダで健康にいい」

 「では、そのお得意の三段論法でいくと、ワインは葡萄からできているのでデザートですね」

 「デザートワインがあるからな」

 「サラダと銘打つビールは聞いたことがありませんよ。バイロイト一デカダンな生活を送っているあなたが、酒は健康にいいと言うとはね。驚天動地の大事件です」

 二人はくすりと笑い、目の高さまでグラスを上げてアイコンタクトで乾杯をした。イゾルデは、ワインを口に含み、じっくりとそのふくよかな美味の余韻を味わっている。

 イゾルデはバイロイト軍に従軍している司祭である。トリスタンより年上の43歳で、丁寧な物腰の中年紳士だ。黒く艶のある長い髪を女物の赤いリボンで束ねている様が、なんとも言えない倒錯的な魅力を放っている。神に仕える身である彼は、戒をよく守り、必要以上に饒舌になったりはしない。普段なら酒場に出入りすることもないが、この「楽園」は彼の愛する銘柄のワインが、バイロイトでただ一軒楽しめる店でもあり、彼がワインの魅力を思い出したときは、トリスタンと待ち合わせてこのVIP席にやってくる。

 ホールに、のびやかで美しい歌声が響く。その声は女嫌いのイゾルデをもはっと振り向かせる魅力があった。

 トリスタンとイゾルデが、VIP席から目線をダンスホールの方に向けると、ホールの中央では、ギターを手にした金髪で黒い布の目元に巻いた盲目の歌姫が、哀愁を帯びた魅力的な歌を聴かせていた。

 「あの娘は」

 イゾルデが、酒を運んできたキャストに聞く。

「歌姫ゼンタですわ。この曲は、彼女の十八番『ゼンタのバラード』ですのよ」

 ウインクして去って行くキャストに見つからないように、イゾルデは彼女の目線が落ちた漆黒の修道服を神経質そうに拭った。その様を、「サラダ」を楽しむトリスタンがにやにやと見つめている。

 「なんですか、トリスタン」

 「いや、イゾルデ様も女に関心を持つ日がくるとはねと思って」

 「違いますよ。ただ、この歌声にひかれただけです。女など……戒を保つ我らには必要のない存在です」

 「まあまあ、そう固いこと言いなさんな。ゼンタを呼ぼうか?」

 「結構です」

 そうは言いながらも、イゾルデはゼンタに視線を送り続ける。めざといトリスタンは、イゾルデのグラスを持つ手が震えているのに気づいた。

 「どうしたんだ?らしくないぞ」

 「何でもありませんよ。私はそろそろ帰ります。宿坊の門限が迫っているので」

 イゾルデは、想いを振り切るようにさっと席を立った。そして、修道服のフードを目深にかぶって、代を払って出て行った。

 トリスタンは、美しいゼンタの歌声とイゾルデの狼狽を肴に、面白そうに飲み続けた。やがて彼にも運命の出会いが訪れるとは想像もしないままに。

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