トリスタンとイゾルデ ー異世界ブロマンス楽劇奇譚ー

猫野みずき

第1楽章 三番目の手を持つ「法服の殺し屋」

 それは、ある赤い月の夜だった。「罪人」は寝息を立てて安らかに眠っている。質素なベッドの上には、夢の世界へ誘われる前に手にしていたと思われる黒革の小さな聖書が置かれていた。

 闇夜に紛れてこの「罪人」の男の室内に忍び込んだ青年は、黒い手袋をはめ、「罪」の証拠であろうその聖書をそっと取り上げて鞄に入れた。彼は、冷たくにっと笑った。そして、黒い「法服」にかかった塵をはらったあと、男の首に手をかける。

 男は目を覚ました。その目に映ったのは、「法服の殺し屋」トリスタンだった。

 「こんばんは。そしてさようなら、永遠に」

 「あ……あ……命だけは、命だけは助けてくれ…………」

 恐怖に顔を異様にゆがめる男は、とっさにベッドから抜け出そうとした。その首根っこを義手で押さえたトリスタンが、その手に魔の力をこめる。

 「教皇の御名において、我が腕を解放する」

 その言葉が終わらぬうちに、トリスタンの背中が光を放ち、スリットの空いたそこから人間のものとは思えぬほど筋肉が以上に隆起した三本目の腕が現われた。

 トリスタンは、義手で押さえた男の首を三本目の手でぐいとつかむと、静かで血の通わぬ声でこう告げた。

 「神と法の御名において執行する…………去れ」

 男の頸椎はゴキッと鈍い音を立てて折れた。命乞いするまもなく、男の肉体は崩れ落ちた。

 自分の仕事ぶりに満足したトリスタンは、羊皮紙に自分のサインを流麗な筆致でさらさらと書いて、男の遺骸の上に置いた。「法服の殺し屋」が、教皇の名において処刑した証であり、これで軍もその配下にある警察も動かない。

 全てはうまくことが運んだ。いつものとおりだ。

 「さて……そろそろ『白い手のイゾルデ』様は『楽園』にご到着ですかね。行くか」

 トリスタンは、三本目の腕の血を丹念に拭く。腕は消え、彼は法服の背中のスリットを隠しながら来たときと同じように闇夜にまぎれて姿を消した。鮮やかな仕事ぶりを見ているのは、赤い月だけだった。

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